1910年、大分県日田町(現・日田市)に生まれ、同県玖珠郡北山田村戸畑(現在の玖珠町)で育つ。1926年に大分県立日田中学校を修了し、上海の東亜同文書院に入学する。1929年、同校四年時に病気にのため中退し、療養生活ののち、1933年に上京、翌年に文部省教員検定試験(支那語科・英語科)に合格し、財団法人日華学会の経営する東亜学校の教師となる。1937年に日華学会理事、同年には日本放送協会嘱託として中国北京放送を担当した。1939年に東亜学校を退職し、東京大学の非常勤講師(支那語講座)を1966年まで27年間つとめ、他の大学にも出講する傍ら、旺盛な文筆活動を行なった。中国語、言語学、中国文学(翻訳)等、著書は90冊を数える。1966年3月27日没。
「2022年 『漢文の学び方』 で使われていた紹介文から引用しています。」