マインドフルネスの使い所は現在3通りある。1つはG社やA社のCEOと高い親和性を持つ意味での、1つはそれに相反する意味での、1つはそのどちらでもない意味での。
エレンが言っていた。ミカサの頭痛の原因は己の習性と本来の自分との乖離だと。それは現代を生きる私たちが持つ全ての辛さだろう。
定年してから焦って趣味を探す人々を見て知人(無趣味)は言う。見つかるはずがない。定年しなければ今も無趣味なのだからそれがその人の本質だ。誰からも必要とされていなかったことに気づいたので有意義な自分を演じたいのかも知れないが、有意義でない人生に疑問を感じずに生きてこれたのなら、無意味な自分という本分を突っ走るしか道はないと。
スマホ依存の自分の姿を我が子に見せたくないが、家族団欒の場でもチェックするのがやめられない人が増えている。というニュースについても知人(友達0人)は同様の見解を示す。依存が問題なのではなくて人(子供)と関係を結べないところが本質だ。人間関係を結べないまま結婚して子育てまでしている自分を誤魔化したいのかも知れないが、これまでそうやって生きてきたのなら他人(子供)との関係なんかどうでもいい自分という本分を突っ走るしか道はないと。
それで私は考えた。その理屈で言えば、マインドフルネスの需要が、仕事や家庭などのストレスの軽減にあるというのはおかしな話だろうなと。
ここで問題にしなくてはならないのはストレスではなく、そもそも仕事や家庭に興味がない(にもかかわらず無理矢理それをやる)ことなのだから。
となるとミカサにとってのマインドフルネスが活きる道は3つ。
1つ目はマインドフルネスで頭痛を治してから、調査兵団と共に「これは習性ではないのだ。エレンが優しいから執着している。これが本来の自分なのだ。その証拠に頭痛はない」とエレンを説得する(G社やA社、無趣味や子供との関係を誤魔化したい人の解決法=低抽象度。二重思考、1984型)。
2つ目はマインドフルネスで「エレンなんかどうでもよかったのが本来の自分」ということにして、今後はやりたくもなかった調査兵団とエレンにかかわらないようにする(=中抽象度。個性的という無個性型)
3つ目はマインドフルネスという概念のみを使って「解決しない」という解決を図る。つまり件の知人のように、無趣味で友達0の人生を享受し、無意味なまま生ききる。
転じてミカサはマインドフルネスをせず「習性通りの自分が本来の自分」ということにしてエレンに嫌われながら今後も執着し頭痛を享受する(=高抽象度。というかこれすると頭痛治るんじゃないかな)。だってマインドフルネスの本質は全てをやめることだと書いてある(ヨーロッパの終末医療はそちら寄りだそうです)。
マインドフルネスに興味を持ったのは、私も薬では不都合のある病の痛みを取るためだ。M先生は無痛文明論で、全ての無痛化は許されないと言いたいが、病の件に関しては保留せざるをえないと苦しい胸のうちを書かれた。そして私は、誰かの痛みは別の強い誰が背負えばいい、それを可能にするのが人間の運命の美しさだと書いた。人間は神の理想を持ちながら人間という不完全さをやり切れるから神の如きなのだ。
というわけで私は間違いと知りながらマインドフルネスで痛みを取り、私たちが懺悔するのをお許しになるのがお仕事のあのお方に責任を押し付けることにした。これが私のオリジナルプランその4
という考えにたどり着くのにこの本は関係なかったのではないかと言うとそんなこともない