続・ウィトゲンシュタイン『哲学探究』入門

著者 :
  • 教育評論社
4.20
  • (2)
  • (2)
  • (1)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 36
感想 : 3
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784866240428

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 中村センセーの「哲学探究」解説本その2
    まさか続編が出るとは…。しかもあとがき的にまだ続きを書いてくれそうで楽しみです。

    妖怪はすべからく名前を持つ。
    なぜなら、名前(言葉)こそが妖怪の本質だからだ。

    京極夏彦氏が指摘するように、名前の持たない現象(例えば「皮膚に鋭利な刃物で切り裂いたような傷ができる」)は名前を付けられる(例えば「かまいたち」)ことで妖怪となる。現象と名称の結合点が妖怪というシステムの正体なのだな。
    では、現象のない妖怪は有り得るのだろうか?まぁ勿論無くはないと思うが、それは元々ある(妖怪という)システムを応用しているだけで、やはり殆どの妖怪は現象と切っても切り離せないのだろう。

    このシステムにおける”現象”と”妖怪”が、本書の語る”心(<痛み>)”と”言語”にリンクしていると言えるだろう。
    ウィトゲンシュタインは別に”心(<痛み>)”が無いと言っているわけではなく、私達に分かるのは”言語”やその振る舞いだけと主張しているのだ。妖怪と同じように、現象≒心はカタチの無い曖昧なモノだからこそ、名付けなければ明確に扱えない。名付けというシステムが優秀すぎるからこそ、ソレが本当に心の中にあるように誤解してしまう。
    言語は、言語が使用される場所──つまり言語ゲーム──においてようやく姿を現す。そういった意味で「語の意味とはその使用である」と語られる。

    ウィトゲンシュタインの後期思想を分かりやすく説明してくれる名著。
    次回作が楽しみです。

  • エッセイみたいにサラサラ流れる。けど難しい箇所も。次へ進もう。

  • 『哲学探究』入門書の続編。平易な文章で、理解、規則、私的言語、痛み、考えるという語の概念化による思い込み「文法の錯誤」の議論を集中的に取り上げている。
    理解する、知っている、できるという単語は、普通の動詞と違い、事実の継続した時間性はなく、応用したという事実によって事後的に判断される。読むという単語は、文字と発音の間に滑り込み頭の中で再生される。それは人名と顔のような関係だ。
    規則は、無限に解釈できるため、実践によりはじめて確認される。
    痛みなどの私的な感覚は、それ自体は他人には分からず、感覚の記憶も正確には残せないが、共同体の言語ゲームに参加させられ、元々使われていた語を真似することで、似たようなものを表現する言い方を覚えただけである。物は、痛みを感じ表現する人間のようには振る舞わないので、心(魂)を持たないと言える。
    ウィトゲンシュタインのいう文法とは、語の概念化により、実態があるかのように感じること。哲学における目的とは、ハエにハエ取り壺からの出口を教えてやること。
    「考える」状態は、話されていなければ他人にはわからない。言語そのものが思考の乗り物なのである。

全3件中 1 - 3件を表示

著者プロフィール

1958年長崎県佐世保市生まれ。中央大学文学部教授。小林秀雄に導かれて、高校のときにベルクソンにであう。大学・大学院時代は、ウィトゲンシュタイン、ホワイトヘッドに傾倒。
好きな作家は、ドストエフスキー、内田百閒など。趣味は、将棋(ただし最近は、もっぱら「観る将」)と落語(というより「志ん朝」)。
著書に、『いかにしてわたしは哲学にのめりこんだのか』(春秋社)、『小林秀雄とウィトゲンシュタイン』(春風社)、『ホワイトヘッドの哲学』(講談社選書メチエ)、『ウィトゲンシュタイン ネクタイをしない哲学者』(白水社)、『ベルクソン=時間と空間の哲学』(講談社選書メチエ)、『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』入門』(教育評論社)、『落語―哲学』(亜紀書房)、『西田幾多郎の哲学=絶対無の場所とは何か』(講談社選書メチエ)『続・ウィトゲンシュタイン『哲学探究』入門』(教育評論社)など。

「2021年 『ウィトゲンシュタイン、最初の一歩』 で使われていた紹介文から引用しています。」

中村昇の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×