- Amazon.co.jp ・本 (302ページ)
- / ISBN・EAN: 9784866800905
作品紹介・あらすじ
激しい時代の変化のなか、われわれはいかにして生きるべきか?
5000年を生き抜いた不変のルールに学ぶ!アフターコロナ時代の必携書。
感想・レビュー・書評
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ユダヤ教に改宗された石角さんの提言。ユダヤ人、ユダヤ教の考え方から、単一民族国家である日本、日本人への貴重なご意見。ユダヤ人対日本人という対立的二元論な論理の進め方には好き好きもあるかもしれないが、考えさせられ、一歩踏み出なければならない思いを強く感じさせた
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最初の方はユダヤの教えがとっても学びになりました!
明日から生かせること多かったです
でも後半からユダヤ人と日本人を比べて日本人が少し入ってるのが残念でした、、、
でも読む価値ありです -
イスラエルの10%は、公教育を受けず、タルムードと聖書を勉強する。アメリカのホームスクール、なども公教育ではない。
ユダヤ人は食道楽をしない。
人を褒める=少なくとも褒められた人を幸せにできる。
感情のダイエット=許す、忘れないことも許す、
幸福感はしゃべるより聞くこと。
何事も始めるのに今より遅いことはない。
他人との比較、が幸福の尺度にない。
幸せは他人の犠牲ではなく、自分の犠牲の上に成り立つ。自分が犠牲を払うからこそ幸せになる。
戒律の厳守、単調な繰り返し、規則の遵守こそがイノベーションを育てる。
ユダヤ人は、年を取って動けなくなってもシナゴーグに通いたがる=死ぬ瞬間まで元気でいられる理由。年寄、病人扱いされることを嫌う。
効率よく仕事をするためには、時間はたっぷりないほうがいい。時間があるとかえって良い仕事ができない。
仕事も体も、制限された状況の中のほうが良いものが生まれ、より健康になる。
安息日は一切電気を使ってはいけない。
ユダヤの戒律を守らなければいけない、という意識が、最もユダヤ的。努力して守る、ことがユダヤ敵。
ユダヤ人は金を軽蔑しない。ヘブライ聖書の戒律に従えば、金を使う暇がない。
月曜から木曜は毎朝シナゴーグでお祈り。1日3回のお祈り。金曜の日没から土曜の夜までは安息日。いっさいお金を使えない。日曜は仕事日。人と外食しない。戒律を守れば守るほどお金を使わない。その結果お金がたまっていく。
海の幸を得るためには、しっかりと足を踏ん張り丈夫な船に乗る。=ヘブライ聖書とタルムードを守り、現世を楽しむ。
ユダヤ人は損切りが早い。手じまいも早い。そろそろかな、と最初に思ったときが撤退のチャンス。
ユダヤ人は最小リスクの最小効果、を選ぶ。
どんな成功者でも災害は訪れる。収入の糧は二つ以上、財産は7~8か所に分散。
リスクは常に存在する。リスクは想定外ではない
最悪のシナリオを考える。
この世は狭い橋だ=道を誤れば橋から落ちる。
毎日2回シナゴーグに行く、水曜と金曜の夜、土曜の朝、土曜の夜は3時間の勉強会。
シンプルで単調は生活の繰り返しによって、本当に必要なことだけに目を向ける。
偉大なことを成し遂げるためには犠牲が伴う。仕事と家庭とシナゴーグ以外の時間を使わない。
失敗談を子供に話す。失敗談には再現性がある。成功談には再現性がない。
問いを重視する力
日本人は1を聞いて10を知る。ユダヤ人は1000を聞いて100を知る。
質問すると失礼。質問しないと失礼。
アメリカとユダヤは大量に本を読ませる。毎週のように課題図書がある。
ユダヤ人は聖書とタルムードの勉強を一生続ける。自分の考えをもって一生を過ごす。
ユダヤ人は仲良しクラブをつくらない。群れることを嫌がる。
日本人はイワシの群れ。リーダーがいない。
鍵を掛けなかった人のほうが罪は重い。不用意に人を罪に誘惑しないように注意する。
歴史を勉強する。マスメディアから隔離する。議論討論をする。
ノアの方舟には善と悪、苦と楽、福と禍、毒と薬など全部対になって乗った。善人と悪人は同じ人物。
モーゼは、約束の地を見つけたが入る前に死んだ=人間は一生懸命努力しなければならないという教え。 -
ユダヤ教に改宗した著者石角莞爾という方が書かれたユダヤ教の教えの中で、現代の日本でも考えるべき学びがあるという本。自身にとっては、自分の関係者のことをより深く理解したいなという観点で読んでみることにした本。パンデミック周期が早まっており、終末感が強いという論調や日本の義務教育が悪いなどの投げっぱなし論は若干気になるところであるが、論点としては宗教がベースであるのでそのバックグラウンドを知った上で確認しても、長い歴史を経ての教えであり納得する分は当然多く、仏教やその他の宗教とも共通している項目はあるなという印象。特に際立つのは、他人との比較で幸せは生まれないという考え方。資本主義の原則である比較をやめ、絶対的な神との一対一の関係の中では、比較は無意味と説く。反論するつもりはないが、他宗教との関係の中では、非常に難しい議論ではある。もう一つは、安息日という考え方。金曜日の夜から仕事もしないし、メールも見ない。デジタルデトックスを行い、完全に離れることで、家族と向き合い、人生において大事なことと向き合う時間を作るというもの。これは、非常に現代的だ。スマホをつい見てしまうし、スマホを見てしまうと自然に仕事が目に入るようになっている。この小さな見えてしまうストレスから解放されることは非常に大事だろう。もう一つおもしろいのは、教えではなく筆者の思いが筆にのっている会社をさん付けで呼ぶような国に将来はないという論調。会社に人格を持たせる日本の神道の考えを真っ向から否定しており、それが意思決定の遅さを招いていると。逆に、サステナビリティや自然との共生や日本人の持つエコの発想は、こうした人格化、神格化がもたらした強みの側面であるが、ユダヤ教には逆だ。質問をしまくるユダヤ人に対して、質問をしない日本人も槍玉に上がる。これも、残念ながら宗教観とは全く関係ない部分だろう。もちろん質問した方がいいということもあるだろうが、会議で質問しまくること、発言しないと意味なしとなるので必死に長々と質問や意見を述べる人、そのおかげで会議は着地しないことも多々ある。根回しの文化があっての質問しないというやり方につながるので、事前に死ぬほど質問しているから、ちょっと誤解されているかな。どっちがいい、というものではないし、今いるところはまさに会議で話さなければ次から呼ばれない世界にいるだけに考えることが多いかも。
質問することを大切にする、これは子女教育でも、仕事でも一緒だ。疑問を持つことは、それによって興味を持ち、知識を蓄えるということ、つまりこの知識が最大の武器になるというものだ。