マーラー 輝かしい日々と断ち切られた未来 (叢書・20世紀の芸術と文学)
- アルファベータブックス (2011年6月14日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (308ページ)
- / ISBN・EAN: 9784871985727
作品紹介・あらすじ
作られた神話、あるいは俗説・通説を徹底的な資料の検討によって覆す。かつてないマーラー論にして、スリリングな評伝。
感想・レビュー・書評
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CDブックレットに解説が付くという形態が長らく続いているため、作曲家の評伝にはクリシェがつきまとう。ちょうどインターネットで誤った情報がコピーにコピーを重ねて流通してしまうように、自分できちんと資料に当たらない「音楽評論家」たちが、既存の文章を参照しながら解説を書き飛ばすからだと思う。たぶんその程度の原稿料しかもらっていないんだとは思うけれど。
グスタフ・マーラーの評伝はもう結構あるから、新たな1冊は何か売りが欲しいが、本書の売りはそうしたクリシェ、すなわちマーラーにまつわる「神話」から彼を解放していることである。
マーラーが「やがて私の時代が来る」と述べたことは有名であるが、マーラー自身は真の芸術家はその時代には評価されないと思っていたなどとどこかで読んだことがある(中二病的な発想)。マーラー本には決まって彼の交響曲を揶揄するカリカチュアが掲載され、いかに彼の交響曲が批判にさらされたか強調され、ヴィーン宮廷歌劇場監督を辞めてニューヨークに移ったことも周囲の無理解のためのように捉えられている。本書ではそういったことがすべて「神話」として一蹴される。
なぜそんな風に語られるようになったかといえば、そもそも妻のアルマがその回想録で、マーラーの「晩年」をいかにも悲劇のヒーローが打ち倒されて死に至る過程のように演出したからだという。アルマの回想録があまり当てにならないことは近年よく言われているが、それにもかかわらず、受け入れられ続けている、アルマによって粉飾されたマーラー像の修復作業をなしたのが本書なのである。
例えば、マーラーの交響曲に対する批評家の批判はあるにしても、おおむね聴衆の受けはよく、理解されなかったどころか、同時代の音楽としてはかなり演奏された。結婚の際にアルマに作曲を禁じたというが、もし結婚するなら妻として自分を支えることに専念して欲しいという、ある種の条件として作曲の断念を提示していたに過ぎず、専制的に作曲を禁じたわけではない(アルマには、マーラーと結婚しない選択肢があった)。マーラーはヴィーン宮廷歌劇場監督を10年務めたが、これは歴代の音楽監督の中でも長い部類に属し、決して短期で辞めさせられたわけではなく、辞任の後も、再任の要請が来ていたくらいオペラ上演の質を高めたことは評価されていた。ニューヨークへの赴任の動機は、以前からいい条件の提示がなされており、煩雑な歌劇場の監督を辞めて、オーケストラ指揮者として力を振るいたいからである。などなど。
ベートーヴェンはじめ、交響曲を9曲しか完成できなかった作曲家が多いという第9のジンクスを恐れ、《大地の歌》を交響曲第9番にしなかったというアルマの証言も一蹴される。《大地の歌》は一応「交響曲」とは副題されているものの、通し番号を付す交響曲とは別物と考えていたと思われ、作曲の手順をみても交響曲より連作歌曲の扱いであった。次の交響曲ニ長調についても恐れるどころか最初から平気で「第9」と呼んでいた。それに関連して、1907年の重大な心臓病の指摘も誤診であり、マーラーは気にしていた節はなく、《大地の歌》や交響曲第9番を死の恐怖と戦いながら書いたといったアルマの演出はまったく根拠がない。マーラーは精力的に仕事をしており、アルマの浮気によるゴタゴタがなかったなら、1910年には第10交響曲も完成していたと思われる。すなわちマーラーは「輝かしい日々」を謳歌していたのである。
しかし、1911年、マーラー自身も周囲も予想だにしなかった細菌性心膜炎という感染症に罹患し、抗生物質のない当時、なすすべもなく亡くなってしまったのである。これは1907年の「心臓病」とはまったく関連はない。これが本書副題の「断ち切られた未来」の含意である。マーラーは1911年から12年のシーズンでニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者を辞して作曲に専念しようとしており、著者はすでにマーラーの頭の中には第11交響曲の構想がほとんど固まっていたのではないかと推測する。ここにおいて、マーラーの頭の中というかぎりではあるが、恐らくこの世に存在した第11交響曲の姿が一瞬ひらめいたような気がして、私はちょっと戦慄した。
伝記を書くということは、たとえ対象が実際に交流のあった人であっても、その人物をある側面から捉えることにしかならない。他方、いろんな側面から捉える、つまり、いろいろな人の視点を併記すると、かえってその人物像はぼやけてしまうだろう。その点で本書の視点はぶれない。だから、例えば芸術至上主義で芸術に奉仕しない者に対しては厳しく相手を傷つけるような言動を取って敵を作ったマーラーの姿は、言及はされても脇に除けられている。それは隠蔽ではなく、近々、アルマへの書簡集を翻訳出版する予定という著者が、資料をきちんと追うなかで再構成したマーラー像なのである。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
今年没後百周年を迎えた作曲家グスタフ・マーラー。その生涯については、妻アルマの回想録が重要な基礎資料とされてきましたが、かつて音楽評論家の吉田秀和さんも指摘されていたように、その記述内容については、かなりアルマの都合で事実関係など改変されていることが問題視されるようになっていました。
本書は綿密な資料の収集・吟味を通じた研究の成果を踏まえて、アルマによってつくりだされたマーラー像の再構築を分かりやすく伝えようとした労作です。
同じようなことは、分野が違いますが、マーラーとほぼ同世代の社会学者マックス・ウェーバーの場合にも、妻マリアンネの名高い評伝の影響から自由なウェーバー像がなかなか描けなかったということがあったことが思い出されます。
時々メディアなどで聞かれる「長年連れ添った夫婦でなければ分からない…」ということの対極に、「夫婦だからこそ、分からない」という面もある、というのが実際ではないのかな、と思います。
文学作品では、ジェームズ・ジョイス『ダブリン市民』の最後の「死者たち」や、アルトゥール・シュニッツラー『夢小説』(映画『アイズ・ワイド・シャット』の原作)などを読むときに、そうしたことを考えさせられます。もちろん、お互いできる限り理解しよう、と努力した上で、ということですが。