『あん』の文章が、男っとこ前で読みやすかったので、他はどうかと、図書館で目に付いた本書を借りたもの。処女小説とは知らず読んだ。びっくりするほど、シロートくさかった。最初に書いたのなら、しょうがないか。
その後、と言っても2015年の『あん』しか知らないけど、十数年をかけて読みやすい文章を書くようになるもんだと、その成長のほうが興味深かった。
非常に切ない恋愛物語。日本に、一般社会に馴染めないアウトローな男女。カンボジア内戦という特殊な状況で知り合ったサオリとテツヤ。一時日本で愛を育むが別れてしまう。サオリの残した手紙を頼りに、北欧から東欧まで、彼女の姿を求めてテツヤが彷徨う物語。
コペンハーゲンから始まり、最初のヒントを授かる相手の名がクヌートというところで、『地球にちりばめられて』(多和田葉子著)の趣きがあり、悪くないと読み進む。
行く先々でサオリゆかりの人と会い、サオリの行方のヒントを掴み、次の目的地へ向かう。都度、「なぜ、サオリはここにいない?」「どこへ向かったのだろう?」と、ロールプレイングゲームのような展開が、非常に安っぽい(苦笑)
本書を読んでいる間、絶えず『書く人はここで躓く』(宮原昭夫著)の内容を思い出していた。
”「思いついた順」と「書く順」は同じでよいが、「読ませる順」は違う。”
作者が思いつたことを主人公テツヤに呟かせ、そのまま読ませる。「なぜ?」「どうして?」と主人公は謎を追って旅をするが、起こった事象を見れば読者も当然そう思うので、都度、主人公が呟かなくてもいい。
『書く人は・・・』の中で、河合隼雄の言葉も紹介されていた;
「作者の思いがけないことがおこるものこそ、ほんとうの『創作』である」
思いがけないことが起こるほど、人物が生き生きと動いていない。多くの者が説明のための会話をし、都合よく昔の話を思い出しては語る。
ハンブルグで会ったエルネは「ベルリンに行けばプラハ行の汽車があるけど、行っちゃいけないよ」的なセリフを吐くが、それって「プラハに行け、って言ってるようなもんじゃん!」と思わずツッコミたくなる。
そうしたいかにも話を誘導し、ストーリの進む道のりを、安易な会話の端緒で指し示す、非常にお手軽な表現が目立つ。
『書く人は・・・』の中で、「粗筋会話の多い作品」とか、「手抜き回想」と称されていた文章だと、素人読者ながらも見抜けてしまう。
「筆者がどう感じ、どう思ったか」を記すのが「手記」。「小説」は「読者にどう感じさせ、どう思わせるか」だと宮原昭夫氏は説くが、著者の思いが主人公テツヤや他の登場人物を通じて滔々と語られる、そんな小説だった。
「あとがき」に、その思いは明確に綴られている。「あとがき」があれば先に読むようにしているが、本書も先に読んでおいて良かった。でなければ、なぜ、こんな作品を書くのか、ずっと疑問に思って読み続けただろう(あるいは、途中でやめていたかもしれない)。
まだ、海外を知らない中学生くらいが読めば、少しは心躍るのかもしれないけど。。。
だが、ここからはじまって、『あん』にまで至るのだから、処女作品がどうであれ、人は成長するものだと強く思わされた。