- Amazon.co.jp ・本 (331ページ)
- / ISBN・EAN: 9784879841247
作品紹介・あらすじ
ヨーロッパで今世紀初頭時代精神を具現し、綿密に再現・解剖しようとしたウィーンの作家ローベルト・ムージル。その代表作『特性のない男』が未完で終わり、出版までの数奇な運命をたどる時、この作家に対する神秘性はなお増した。
感想・レビュー・書評
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ムージル未完の大作。
どんな小説かといえば、「特性のない男」ウルリヒが、やたらと女性にモテまくる話である。
果ては、物語の後半でウルリヒは実の妹に手を出す始末で、手に負えないことこの上ない。
当然の成り行きとして、「あなたって、変態ね!」と彼はクラリセから罵倒される。
とはいえ、この作品が世界的名作であることには変わりありません。
簡単に物語の始まりを説明すると、時は1913年、場所はウィーン。主人公は、かつて栄達を志して軍人や技術者、数学者などになり、現在は32歳のニートである「特性のない男」ウルリヒ。
ある時、ドイツで、皇帝ヴィルヘルム二世の施政30年の記念祝賀会が催される。これに対し、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世もまた即位70周年に当たるので、オーストリアでもドイツに対抗し、国家を称揚するための「平行運動」なる運動が始動する。
ある日ウルリヒは、父に、平行運動の中核的存在であるラインスドルフ伯爵の秘書になるよう言われる。ウルリヒはさして乗り気でないまま、平行運動の渦中に巻き込まれていく。
その過程で、血縁の女性であるディオティーマ(トゥッチ夫人)のサロンに出入りするようになる。
ウルリヒはサロンや、その外で、さまざまな人物と出会い、さまざまな議論を繰り広げる。
ただ、平行運動は終始ぐだぐだで、寝取り寝取られ、快楽殺人犯モースブルッガーやロシュツ卿が出てきたりと、物語はどんどん収拾がつかなくなっていく。
ストーリーを追うだけの読み方では、何も得られません。ストーリーは、あくまで哲学的思索という肉を付けるための骨に過ぎないのです。
この小説の可食部は、もちろん肉です。その肉は筋張っていて、噛み応え抜群で、その分栄養豊富です。
ただ、よほど頑健な消化官を持っていない限り、一度ではとても消化吸収しきれないです。
ニーチェやマッハ、ブーバーなどの影響があり、哲学的な要素がふんだんに含まれていますが、哲学についてはずぶの素人である僕には、大して理解できませんでした。
この小説の全貌の理解は、ものすごく難しいのです。
哲学的問題のみならず、心理学、歴史、法、政治、天才などについても、明晰な文体で論じています。契機さえあれば、あらゆるものについて登場人物たちが議論します。契機がなくとも、登場人物たちに無理矢理議論させたりしています。初めて出会った人たちがいきなり哲学的議論をおっぱじめるなんて、あまりにぶきみですね。
この小説は、おそらく、必ずしも一定の答えを導き出すことを目的としていません。対象をあらゆる角度から検討し、分析し、議論を行い、批判を加えたりすることを登場人物たちが延々と繰り広げます。あるいは、ある問題に対して一つの答えを出そうとしていたとしても、その試みは決して終えられなかったに違いありません。
正直に言うと、この小説、よくわかりません。
訳の問題が・・・・・・という次元ではなく、元々の内容が難解きわまりないのです。日本語的に気になるところもあったりしました(意味深長を意味慎重と誤記していたり)が、そんなに大した問題ではないです。
もしこの本に完全な日本語訳が存在していたとしても、悲しいことに、ぼくにとっては、あまりに手強いのです。
ただはっきりと分かることといえば、この小説はなかなか手に入らないということです。文庫化されておらず、おまけに、かなり高いです。
岩波かちくま、欲を言えば新潮から文庫化して欲しいものです。文庫化を望むこと自体、十二分に欲を張っているといえますが・・・・・・!
たかだかレビューでは、この小説の中の大事なものについては、説明しきれません。つまり、テキスト上に浮かび上がるあらゆる思索を咀嚼していくことに、この本の意義があるのです。
目次を読むだけでこの本について堂々と語れるなんてことはありません。堂々と語ったところで、うまくは語れないはずです。全部読んでも、うまく語れないくらいなのです。
うまく語れる人には、広くこの小説の魅力を語って欲しいです。
なお、この小説が妹萌え小説であるというのはまったくの幻想です。妹はアガーテという名前なのですが、ウルリヒと瓜二つという、とんでもない設定があります。萌えにくいこと濡れ炭の如しです。
最後に、特性のない男が何故「特性のない男」なのかについて触れておきます。
特性がないということは、特長がないということではありません。
ウルリヒは、数学者として功績を立てていて、高身長イケメンで女性にはモテモテ、スポーツもできて、プーでも生きていけるくらいの財産があります。むしろチートレベルと言ってもいいほどの特長があります。
特性がない、というのは「ありうる」という可能的なものを「ある」という現実的なものと比べて、蔑ろにしないという感覚を持っているということです。
この「可能性感覚」の定義は、本文でもさらりと触れられています。
ただこれは、決して空想的な考えに囚われて、実際に「ある」現実を軽視にしているという姿勢ではないのです。
現実は確かに現実だ。でも、こういうこともあるんじゃないか、ありうるんじゃないか、というスタンスです。
ウルリヒは、可能性感覚があるゆえに、現実と可能的な非現実を同等のものとして考える。それでいて、現実を重要視していないわけではない。
問題は、「現実を可能的なものより重要視するという姿勢がない」ことだ。
そういう意味でウルリヒは「特性のない男」なのだ、と僕は考えています。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
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