本当の翻訳の話をしよう

制作 : 村上 春樹  柴田 元幸 
  • スイッチパブリッシング
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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784884184667

作品紹介・あらすじ

村上春樹と柴田元幸の対談集、ついに刊行決定。
文芸誌『MONKEY』を主な舞台に重ねられた、
小説と翻訳をめぐる対話が一冊に。

【CONTENTS】
帰れ、あの翻訳(村上+柴田)
翻訳の不思議(村上+柴田)
日本翻訳史 明治篇(柴田)
小説に大事なのは礼儀正しさ(村上+柴田)
短篇小説のつくり方(村上+柴田)
共同体から受け継ぐナラティブ——『チャイナ・メン』(村上+柴田)
饒舌と自虐の極北へ——『素晴らしいアメリカ野球』(村上+柴田)
翻訳講座 本当の翻訳の話をしよう(村上+柴田)

感想・レビュー・書評

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  • 本書は、小説家、翻訳家の村上春樹と翻訳家・柴田元幸の対談集。
    非常に興味深く読むことはできたのだが、結論として、今の僕にはこの本を読むのは早すぎた。
    対談内容がほとんどアメリカ文学の作家達の話なので、レイモンド・チャンドラーやコーマック・マッカシーを数冊読んだことがあるくらいの知識ではまったく話についていけなかった。

    この本で非常に参考になったのは、柴田元幸氏の単独執筆の第3章『日本翻訳史 明治篇』と最終章の対談『翻訳講座 本当の翻訳の話をしよう』。この2つは非常に面白かった。

    『日本翻訳史 明治篇』では、明治の翻訳家たちが英語をどのように上手く翻訳しようとしていたのかその苦労がよく分かった。
    明治期に「翻訳王」とよばれた森田思軒は著書のなかで

      『英語で「心に印す」と直訳すればいい表現を、いかにも日本語らしく「肝に銘ず」と訳して「うーん、おれは上手い」なとど悦に入ってはいけない。「心に印す」とそのまま訳せば、なるほど、日本語で「肝」と言うところを西洋では「心」と言うわけか、と意味のみならず彼我の差異も伝わる。』

    等と記しており、このように当時の翻訳家たちは、原文と訳文の意味を等しくするのはもちろん大事だけれど、西洋語と日本語がどう違っているかも伝えたいという思いを持って翻訳をしていたのだ。

    そのほか同じ英語でも「ラテン語起源の言葉」と「アングロサクソン系の言葉」を訳し分けているなど非常に興味深かった。
    僕などは、英語を読むときでもまったくそんな違いを意識せずに読んでいるが、翻訳家は日本語に翻訳するときは非常に気をつけているという。
    例えば、アングロサクソン系の英語である「GET」とラテン語起源の「OBTAIN」「ACQUIRE」はどれも同じく「持つ、所有する、有する」という意味だが、柴田氏はアングロサクソン系の言葉は日本語で言えば「大和言葉」、ラテン語起源の言葉は「漢語」と同じようなものだと述べており、英語から翻訳する時には「GET」や「HAVE」だったら「得る」「持つ」だが、「ACQUIRE」だったら「獲得する」、「POSSESS」だったら「所有する」と訳し分けているそうだ。
    このようなことは、日本語訳でしか文章を読まない人にとってはまったく関係ないことなのだろうけど、翻訳家はこういった苦労を日々積み重ねていると思うと頭が下がるばかりだ。

    そして最終章の『翻訳講座 本当の翻訳の話をしよう』では、実際に小説の英文を村上春樹氏と柴田元幸氏がそれぞれ訳し、その違いを楽しむというもの。
    例えば、レイモンド・チャンドラーの私立探偵フィリップ・マーロウ・シリーズ内の『プレイバック』で最も有名なマーロウのセリフ
      『タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない』
      原文“If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t be gentle, I wouldn’t deserve to be alive”

    柴田元幸氏は
      『無情でなければ、いまごろ生きちゃいない。優しくなれなければ、生きている資格がない』
    村上春樹氏は
      『厳しい心を持たずに生きのびてはいけない。優しくなれないようなら、生きるに値しない』
    と訳している。
    柴田氏によると、原文の「HARD」という単語は「無情」「非情」という完全に否定的な意味であるので、これを「タフ」と訳すのはかなりの意訳だということだ。
    しかし、最終的には二人ともこの有名な日本語訳の方が、読みやすいし、覚えやすいと評価している。

    柴田元幸氏の訳風は原文に対して正確に訳さなくてはならないという考えである一方、村上春樹氏のそれは、一旦その文章の意味を身体の中に咀嚼して、自ら日本語の文章を編み出していくという訳風。
    柴田氏の訳はよく翻訳小説で読み慣れた感じであるが、村上氏の訳だと、もう村上春樹の小説を読んでいるように感じでしまう。訳者によってここまで違うのだなあと感じるところであった。
    やはり、翻訳家をやっている小説家の文章を「上手いな」って感じるのは、外国語の文章を上手い日本語で表現する訓練を「翻訳する」ということを通じて常にやっているからなのだろう。

    本書については、非常に興味深いものであったが、やはり、もっとこの本を楽しむには英米文学をもっと読みこなしていなければ、この本の魅力を10分の1も楽しめていないと感じるので、この本は経験を積んでから再読したいと思う。

  • ▼村上春樹さん柴田元幸さんによる、米文学オタク本とでもいうべき一冊ですね。どうやら柴田さんが作っていた雑誌に載ったものをまとめたらしく、であるが故か割と「みんながわかりやすいように配慮」については頓悟したレベルの「ノーケア」(笑)。正直僕はそんなにアメリカ文学傾倒していないので、話の八割はわかりませんでした。まあでもそこはかとなくオモシロいレベルには本として作られています。

    ▼主なコンテンツはおふたりの対談原稿。多くのこの本と同じく僕も「村上春樹さんファン」がこの本を読んでいる動機なんですが、実はこの本でいちばん面白く読んだのは、柴田さんの単独原稿(とはいえ、元はこれも講演か講義だと思うんですが)の、「日本における欧米文学翻訳の歴史」みたいなのがいちばん面白かったです。森鴎外さんって、「村上春樹レベル」に翻訳しまくってたんだあ・・・とか。鴎外サンはさらに医者であり高級官僚だったわけで、そりゃあ村上さんほどは小説は(分量的には)書いてないよなあ。書けるわけがない。

    ▼「復刊してほしい絶版海外翻訳本」というコーナーがあって、そこに仏語の、メグレものの「男の首」があったのがなんだかうれしかった(笑)。

  • 一番おもしろいと思ったのは、村上春樹と柴田元幸の訳が並んでいるところ。比較してみると、当然のことと言えば当然なのだが、訳し方・雰囲気が全然違う。同じ作品でも、翻訳者によってこんなにも違うのかということが分かると、海外文学の新旧訳書の読み比べをしてみたくなる。

  • 長い休暇の時に、ぼ~っとしながら読むのに良いかも、、、

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    村上春樹と柴田元幸の対談集、ついに刊行決定。
    文芸誌『MONKEY』を主な舞台に重ねられた、小説と翻訳をめぐる対話が一冊に。
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  • おもしろかった! いつも通りのクオリティ。

    この本を読む時、たまたまだけどコンラッドの「闇の奥」も先に読み始めていて、柴田さんが「コンラッドは英語が相当難しい」と言っているのを読んで、「えっ! やっぱり!? ですよねーっ!!!」と嬉しかった。
    くー。「闇の奥」は最初、ほんと難解でビックリしたんだよね。難しい語が使われているとかそういうことが原因じゃないだけに。(まあ私の英語力の問題も絶対にありますが)
    フィッツジェラルドがコンラッドを非常に尊敬していた、というのは全然知りませんでした。でも、確かにそう言われてみれば、例文のギャツビーの冒頭を見ていて、あれ、後半とかコンラッドぽいかも?と一瞬思ってしまった。

    柴田さんによる本気の「日本翻訳史明治編」もとてもおもしろかった。そもそもこの時代のエリートたちがどんな勉強をしていたかということに個人的にとても興味があるし(先人への尊敬の意味で)、聖書の翻訳チームの話など初めて聞く話ばかりで、非常に考えさせられた。

    ツルゲーネフの「あひゞき」の自然描写が国木田独歩の「武蔵野」を生んだ、っていうあたりは、自分が国木田とその驚きを共有しているような気分になって、ちょっとどきどきした。たしかごく最近の日経新聞に、日本の山歩きや山登りのルートを開拓したのは明治のお雇い外人たちで、それまでの日本人は楽しみのために山を歩いて自然を鑑賞するっていう習慣がなかった、とか書いてあったのを思い出した。私もド田舎に生まれ育ったが、赤毛のアンの森や湖の描写に自分では気づかないことをいろいろ教えられたよなぁ、と思い出したりした。

    最後の翻訳比べ、は、村上春樹さんにはほんとに申し訳ないけど、私は読む前から柴田派で、読んだ後もやっぱり柴田さんの訳が圧倒的に好きです。
    もっと言うと、原文を読んだ印象そのままなのは、柴田さんの方で、村上春樹さんの方も、訳だけを読んでいると特に何も思わないけれど、こうして原文と並べられると、やっぱりちょっと、余計な手が入っている感じがしてしまいます。なぜかしら。贔屓もあるかな?
    柴田さんがやたら村上春樹さんの訳を褒める一方で、逆(=村上さんが柴田さんを褒める)が少ないのがちょっと気に入らなかったりもする。(笑)
    ただ、ギャツビーの冒頭だけは村上さんの方が好きかな・・・なーんて、こんな風に、翻訳についてあれこれ好き勝手に考えるのが楽しいので、こういう本はもっと出してほしいです!

  • 刺激を受けた箇所がいくつもあったけど、
    二人の知識がすごすぎてついていきたかったけどついていけなかった(^^)知識量が羨ましい
    こういうの日本文学でもやってほしー!
    アメリカ文学また読んでみたくなった。

  •  二葉亭は、どうしてもやっぱり江戸を引きずってしまい、江戸からなんとか抜け出したいと思った。で、どうしたかというと、ロシア語で少し書いてみたんですね。
     ご存知の方も多いかと思いますが、村上春樹さんも第一作『風の歌を聴け』の最初の数ページを英語で書いていました。まだ『風の歌を聴け』というタイトルもついていなかった時点で、生まれて初めて小説を書いてみたはいいが、いかにも日本文学という感じがして嫌だなあと思った村上さんは、オリペッティのタイプライターを引っぱり出してきて、書き出しの数ページを英語で書いてみた。そうすると、凝った表現を使えず、シンプルに語らざるをえない。それで日本文学臭さを抜くことができて、自分のスタイルに行き着くことができたと村上さんは言っています。二葉亭が1860年代にやったことを、村上さんは1970年代にやっていた。2人とも、彼らからみて手垢の付いたスタイルから逃れようというときに、まず外国語で自分の文章を書いてみることを始めたというのは興味深いことだと思います。(pp.96-97)

     だからこそ、この文章は古びていない。なぜかというと、言文一致運動の結果、何が変わったといって、「漢語は古くさい」という意識が生じたことが最大の変化です。それまでは、「いい文章」「格調高い文章」であるためには漢語満載というのが一番てっとり早かった。聖書文誤訳は幸か不幸か漢語に頼らなかったから、今でも瑞々しい文章になっているというわけです。(p.104)

     一単語単位で見れば変えてしまっていても、フレーズ単位で見ればその方が訳文が活きる、だから変える。語順を入れ替えたり、とにかく何か小さなものを殺すのはもっと大きなものに仕えるためです。これが翻訳者のモラルとして一番大事ですよね。訳文が原作より劣らないように訳者は努めるべきですけれど、原作の上を行ってはいけません。(p.116)

    村上 僕は、大事なのは礼儀じゃないかと思う。チーヴァーの小説に出てくる登場人物の多くは、礼儀をわきまえている。どの小説でも基本的な礼儀正しさを感じるのです。その礼儀が話の暗さを救っているんじゃないかと僕は感じる。礼儀正しい小説はあんまりないんですよね。
    柴田 礼儀正しさというのは登場人物の振る舞いのことですか。
    村上 上手く言えないんだけど、文章を書く姿勢というか心持ちというか。
    柴田 ヴォネガットがディーセンシー(decency=まっとうさ)という言葉を使いますが、それとも違いますか。
    村上 似ているかもしれない。チーヴァーの小説では泥棒に入る話でも、盗み方が礼儀正しい。そういうところじゃないかな。お金に困ってコソ泥しても、ある種の礼儀正しさというか律儀さがある。浮気しても割に礼儀正しい。悪徳とか背徳とか、そういうものが顔をのぞかせても、なぜかドロドロしない。常に最低限のモラルが守られている。僕はそういうもラリスティックなもの、あるいは礼儀正しさは意外に有効性を持つと思う。(pp.175-176)

    柴田 『1973年のピンボール』の冒頭にもこの一節のエコーが聞こえます。
    村上 この『グレート・ギャッツビー』という小説の最初の部分は悲しみに満ちている。切なさがある。その切なさを訳文にも出したいなと思ったんです。フィッツジェラルドは小説の中でニック・キャラウェイという語り手に自分を投射していると同時に、ジェイ・ギャッツビーという派手な、ミステリアスな人物にも自分を投影している。その両方に投影しているのがこの小説なんです。ここに出ているのは、ごく平凡なミネソタの田舎から出てきた1人の貧しい青年がニック・キャラウェイに投射している一種の悲しみとか切なさ。(p.264)

  • 柴田氏のMonkeyをよく読んでるのでほとんどは既読の内容だったが、こうしてまとめられたものを通して読むとまた違った、踏み込んだ考えを巡らせてみたくなる。
    村上氏の訳文は弄りすぎてまどろっこしいと感じることが多いのだが、自分の作品として英文を隠して仕上げをすると言っていて、なるほどなと。声がどうしても村上氏の声調になるのはそのせいか。
    一方で柴田氏の訳文は正確だけど素っ気ない。原文を読みながら分からなかったところを参照するのには丁度いいんだけど、訳文だけだと声が聞こえてこない感じがして、結局Kindleで原文を買いにいったりしてしまう。
    達人2人の訳でもこうなのだから、本当の翻訳は、本当に難しい。。

  • MONKEYで読んでいた内容が中心だったが、改めて翻訳文学へのこの二人の貢献は大きいと実感する。「村上柴田翻訳堂」の話が中心で、古い米文学がテーマになっている。二人で色々と面白そうな本について語り合うが、二人のお陰で実際に復刊した本はあれどそれだけ絶版になっているんだ。逆説的に人気がない証拠だと思うし、村上さんと柴田さんのブランドで読む人も多く、二人の名前があれば売れるのも事実。
    翻訳界・文学界も代替わりで、イキのいい若い作家の翻訳は藤井さんや都甲さんら下の世代が引き受けている。村上さん以降、作家が翻訳をすることも増えた。村上柴田ラインとは明らかに違う作品が紹介されるようにもなった。ガイブンファンとしては翻訳文化が「豊かな実を結ぶ」ことを期待している。もちろん村上さんと柴田さんにもまだまだ頑張ってほしい。

  • たとえアメリカ文学に詳しくなくても、それぞれの作者の特徴もよくわかりとても楽しめます。
    村上さんと柴田さんが翻訳において何を大切にしているかが、実例でより詳しくわかります。今まであまり翻訳に興味を持っていませんでしたが、関心が高まり翻訳本を2倍楽しめそうです。

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