誰がバカをつくるのか?: 「学力低下」の真相を探る

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  • ブックマン社
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  • Amazon.co.jp ・本 (287ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784893086747

作品紹介・あらすじ

1964年の東大入試問題はこんなに簡単だった!'51年、'64年、'68年、'70年、'77年、'90年、'01年の東京大学入試問題を解くことで、戦後における学力低下の原因が見えてきた!「全共闘」「暴走族」「校内暴力」「援助交際」を一つの線でつなぎ、"追いつめられた子供"の心理に迫る、鋭く、熱い教育書。

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  • 誰がバカをつくるのか?―「学力低下」の真相を探る 単行本 – 2007/10/1

    誰がバカをつくるのか?
    河本敏浩(かわもととしひろ)氏による著作。
    2007年10月8日初版1刷発行。

    名古屋市立向陽高校卒業後、同志社大学法学部政治学科を経て、
    同志社大学文学研究科新聞学専攻修士課程修了。
    大学在学中から現代文講師として活躍し、1994年から2012年まで東進ハイスクール講師(2000~01年、河合塾講師兼任)。
    現在、医学部予備校The Independent代表、学研「MyGAK」統括リーダー、
    映像講義「学研医学部ゼミ・スタンダード」統括リーダー、
    保護者対象講座担当。他に教員、講師、保護者、
    生徒を対象とする講演を毎年50回以上で行っている。
    主な著書に『名ばかり大学生』(光文社新書)、
    『誰がバカをつくるのか?』(ブックマン社)。
    医学部進学志望の受験生を持つ保護者対象のウェブマガジンを配信(医学部予備校The Independentのホームページを参照)。

    著者の書いた医学部バブル(光文社新書)が面白かった為、過去作品も読んでみようと思い手に取った。
    内容としては2009年に出した名ばかり大学生の下敷きになる本だと言える。
    学力低下というのは極めてふわふわした定義としか言いようがない。
    1951年の東大入試、1970年の東大入試など歴代の入試問題を目の当たりにすると現代に向かって難易度は上がり続けていると言える。
    同世代間の相対評価でしかない受験勉強は極めて特殊なものだという自覚を持っておくべきであろう。
    本来の持続的な学び、勉強することで霧が晴れてきたような感覚といった本来の学びの楽しさを取り戻す事は極めて重要だ。
    学校での荒れと入試や定員といった問題は結びついているという指摘はするどいなと。
    日大の乱脈経営が不本意入学者が多かった団塊世代の時代に発火したとの事が書いている。
    日本大学は当時からもどうも大学経営が雑である印象だ。
    また学力低下批判の急先鋒だった西村和雄氏は大学側の積極的な対応をせず高校・中学校・小学校のカリキュラムに責任をなすりつけた意味で極めて悪質だ。「分数ができない大学生」という書籍は日本をミスリードした悪書といってよいだろう。

    印象の残った部分を示していくと

    ゆとり教育が「バカ」を作り出したという論調がありますが、それはほぼ間違いです。
    絶対的学力を無視した、偏差値に基づく「とにかく受験者全体の中の上位何%に入ればいい」という完全相対評価の大学進学が高校、中学、小学校の教育現場に影を色濃く落としている以上、1994年以降に始まった
    少子化と大学進学率の頭打ちは、競争の緩和をもたらし、子供を確実に「バカ」にする方向へ向かわせます。
    つまり、相対評価である以上、参加メンバーが減らばレベルが落ちるのは当たり前のことで、むしろ2002年からのゆとり教育推進は、子供が「バカ」になったからこそ導入されたものであって、「バカ」を作り出す装置ではありませんでした。ここでは明らかに因果関係が転倒しています。

    ゆとり教育を見直しても、「百ます計算」をやらせても、子供に朝食を食べさせても、結局、学歴の最上位である大学が完全相対評価によって学生の選抜をしている以上、少子化と進学率の頭打ちの状況が改善されないかぎり、確実に「学力低下」は進行し続けます。

    教育の問題に対してまず考えるべきことは、「学歴の最終帰着点(大学院は脇に置きます)たる大学でどのような選抜がなされているか」にあります。
    特にその難易度の変化が、大きなインパクトを高校、中学、小学校に与えているわけです。
    率直に言って、現在の教育の「荒廃」の責任の多くは、大学の正教員に帰せられるのではないかと私は思っています。最も影響力のある者が、批評の対象から外されているというのは大きな問題だとも考えます。

    1950年代に東大に合格し、その後、各界のリーダーとして社会の一線で活躍した人々の、18歳のころの学力は、現在に比べて信じられないほど「低く」、これはまさに「学力低下」世代といっても過言ではありません。
    この時代の東大入試問題、特に英語の問題は、現在の開成高校の入学試験問題以下のレベルで、この世代の学力が著しく低いことを示しています。
    このレベルの問題に対して現役合格することもできず、
    あまりにも多数の人間が浪人して東大に入ったなどという事実と直面すると穏やかならぬ気持ちに陥ってしまいます。この時代に浪人して東大に合格するものは過半数を越え(現在では3割以下)、その高校時代の勉強の緩さは想像を絶するほどです。
    かつての高校生はよく本を読んでいましたが、なるほどこのレベル程度の大学入試ならば、本を読む時間は充分にあったと考えられます。

    ペーパーテストの点数の多寡で、人間を評価することは間違ったことだとよく言われます。しかし現実には、テストの出来によってある人物の社会的評価が左右されるという事態を「学歴」という形で多くの人が受け入れています。
    そして、テストの出来具体だけで成否が決まる「学歴」によって人物評価をすることが許されるならば、いくら東大とはいえ、最も大切な学力形成期にこのような愚かな問題と戯れていた1950年代入学世代総体を「学力低下」世代と呼んで差し支えないと思います。
    1951年に18歳で大学に入学したとすれば、この世代は2007年で73歳になっています。

    この1985年大学入学世代と、1986年大学入学世代(浪人が極端に少ない)は1964年入学世代と並んで、手がつけられないほどの「学歴嵩上げ世代」だといえます。
    こうして世代人口の違いを概観すると、不思議な気持ちにとらわれます。
    現在、「学力低下」が問題だといわれていますが、「学力低下」を嘆く識者たちが言うごとく、学力が出世や年収を左右するとするならば、この1966年、1967年生まれの世代は、学力が他の世代に比べて低いだけに世代総体に比較において「不幸」になっていなければなりません。
    はたしてこの世代の失業率が突出して低かったり、平均賃金が低かったりするのでしょうか。

    特に、1967年に入学した世代は、大学が封鎖されていることが多かったので講義は休講の連続だった。それでいて社会人になって大きな齟齬が生まれなかったことから、当時の大学の講義は社会人として生きていくことに関してほとんど関係ないことがわかる。

    東大の入学試験とは、理科三類、文科一類の学生が、自由に好きな専攻に進める(単位の取り方に工夫が必要ですが)仕組みになっており、入学後も常に「序列」と「格差」が前面に出てくるような仕掛けが施されています。

    進学競争は「子供の荒れ」を誘発する。ただしそれは競争における単純な勝ち負けによって引き起こされるわけではなく、時代の「いたずら」によって「負け組」に無理矢理編入させられ、かつその不運を競争の主催者が無視し、「負け組」の気持ちを踏みにじるような暴挙に出たとき、盛大に「発火」する。
    この「子供の荒れ」を誘発するメカニズムは、後の時代のさまざまな現象に見ることができる。

    富山の政策は「子供の荒れ」を誘発した。それは「負け組」の気持ちを無視し、合意を得ないまま工業高校に押し込んだためである。
    収容所と化した工業高校は荒廃し、多くの高校生が暴走族に向かい、盛大に「発火」した。暴走族の発祥の地や時代として
    「富山・1972年」は、ある種の必然として選ばれた。
    今やこの暴走族世代も親になっている。
    果たして、この元暴走族は学校に対してどのような考えを今持っているだろうか。

    現在では、東京外国語大学に入学すれば「ああ、外国語を学びたいのだな」と周囲は思いますが、ある世代より上は「東大に落ちたのか、一橋に落ちたのかどちらだろう」と反射的に考えてしまいます。
    「浪人」も当然の時代ですが、チャレンジするにも限界があります。
    そもそも、東大や一橋を受けて惜しくも不合格になった者は、比較的楽に東京外国語大学、横浜国立大学に合格します。
    よって両校の入学式は、不本意入学の巣窟で、ある意味「怨念の大学」と化していました。
    「ああ、二期校ね」と周囲の誰かがあからさまにいうことはなく、
    また、国立大学進学自体非常に誇らしいものでありながら、自らの内面に巣食う隠微な思いは払拭できるものではありません。
    東大に入るつもりだったのに、「外語」や「横国」で終わるというのは、オリンピック男子柔道選手の銀メダル獲得に限りなく似ています。
    「国技」たる柔道で「銀メダルでも、すごいじゃないか」という言葉が慰めになるはずがないことは、容易に想像できることです。

    現象とした明らかだったのは、左翼過激派学生の供給源として二期校大学が大きく機能したということです。

    左翼過激派に属する者で、二期校・横浜国立大学出身者は確かに比率として高く、さらにそれを「さもありなん」と受け止める社会的雰囲気もありました。

    この少子化と「学力低下」が順調に進めば、1965年入学の東大生、1970年入学の東大生、1985年入学の3「バカ」東大生のように楽々と高いレベルの大学に合格していきます。
    どうせ、1965年入学の大学生は「バカ」なわけです。
    また、1970年、1971年に大学に入った人間も「バカ」であり、丙午の世代も「バカ」です。
    そもそも、戦後の大学入試において絶対的な学力が問われることは一切なく、大学は充分「バカ」でも適応できます。
    戦後のあらゆる大学は一貫してそういう「場」でした。
    そもそも「学力低下」を嘆いている連中は、国立大学出ばかりです。
    偏差値で切り刻まれた経験を持つ親たちは、おそらくこう潜在的に思っているのだと思います。
    「バカらしい・・・・。自慢話につき合ってるヒマはない」
    つまり今、私たちの周囲で起きていることはそういうことなのです。
    かつて「勉強」ができないと位置付けられ、放置された者たちの、緩いけど遠大な、「バカ」げているけれど壮大な、脱力した「復讐」が学校と学力からの離反だといえるのです。

    大学入試の難化、共通一次、塾化、普通科進学高校入学意欲の高まり、これらが揃って「子供の荒れ」を誘発しないはずはなく、校内暴力、中退、不登校、いじめ、これらは同じ原因を持つ変奏曲に過ぎない。
    時代はすでに「負け組」の「発火」ではなく「負け組」に編入させられることに対する「恐怖」が子供を支配するようになった。
    校内暴力、中退、不登校、いじめ、これらの指し示すところは、学校に対する不信、反発、そして離脱である。
    現代の親は、この世代に属している。

    大学の教員は、勉強をただ人と比較するためだけの指標として利用してきた。
    世代人口が増えれば入試問題を難しくし、世代人口が減れば入試問題を簡単にするその姿勢が、多くの人を勉強の世界から引き離し、一部の人を今なお狂気の世界に駆り立てている。
    私たちが学びの世界を再構築したいと考えるならば、大学をこそ変えなければならない。

    18歳の学力として現在の東大、京大新入生に対して不満がるというならば、第二次ベビーブーム世代が大挙して押し寄せた、1987年より前に大学に入学した教員は即刻、職を辞するべきです。
    18歳時点での学力が問題視されるならば、現在の東大・京大の教員の方がよっぽど不安です。
    1987年より前の、簡単な入試しか受けていない教員が大学教授として大きな発言力を有しているのは、持続的な「研究意欲」を維持し続けてきたためです。仮に目の前の学生が1990年代の学生に比較して学力が下がっているとしても、持続的な「研究意欲」を維持し続けることができれば、何の問題も生じません。
    仮に、持続的な「研究」に対する意欲を学生が喪失しているならば、それは大学自体の構造的な問題です。新入生に研究意欲が感じられないならば選抜試験の方法が悪く、在学中の学生に意欲が感じられないならば、大学の教育自体に問題があるということです。

    大学の教員は「教師として」信じられないくらい「無能」だということです。
    新人を迎え入れて2年教育し終えた後、全然使い物にならなかった、あるいは選抜試験を用意し、それを潜り抜けた新人を迎え入れたら「バカ」ばかりだった。大学以外の組織がこういった事態に直面した場合、まず選抜試験の責任者に対して何らかの処分がなされるはずです。
    さらに、新たな選抜試験構築に向けて、採用システムや試験の内容・基準を抜本的に替えたり、新人の育成システムを練り直したりするものです。
    しかし、大学の教員はそういった面倒なことはしません。
    まさに手抜き官僚の典型的行動パターンともいえますが、彼らが行うのは責任転嫁です。このとき、大学の教員は、まさに自分たちが選抜した新人に初歩的な分数の問題を唐突に解かせ、これに失敗した人間の能力がいかに劣っているかを喧伝し、高校、中学、小学校のカリキュラムに責任をなすりつけました。
    どのような組織であれ、自ら選抜した人材が劣っていると公言したならば、返ってくるのは、「そんな人材を取らなければいい」という反応です。
    それほど「初歩的な算数」が重要ならば、京都大学二次試験に「初歩算数」の試験を実施すればいいだけのことです。
    結局、彼らが騒いでいる「学力低下」の実態とは、以下のようにほとんど幻想であるか、自らが蒔いた種、といえます。

    問題点1
    少子化が始まっても定員が変わらなかったために、以前に比べて学力の低い層が入学するようになったから、学力が低下しているように見えた。
    対応策1
    教員に早期退職を呼びかけ、大学の定員を適正規模に縮小し、入学者の数を絞り込む

    問題点2
    あまりにも試験一辺倒の入学審査をしてしまったために、入学と同時に学ぶ意欲を失う学生が続出し、3年生の段階で学力が極度に低下している学生に直面するようになった。
    対応策2
    専門課程に進むに足る学力ではないと判断するならば、単位を認定せず留年させる仕組みをつくる。私立の理系や法学部では極めて留年率の高い大学があるので、それを見習えばよい。

    問題点3
    基礎的な学力が崩壊している者が国立大学に入学するようになった。
    対応策3
    入学試験に「総合基礎学力」という科目を設けて、分数の問題を出せばよい。

    子供の「学力低下」を考える際、「子供の学力が低下した」、つまり子供が「バカ」になったという大学の教員のことばに私たちは耳を貸すべきではありません。
    なぜならその責任の大半は、概ね大学の教員自身にあるからです。
    大学の教員たちの根底に流れる手抜き意識によって生じた「問題」に自らが翻弄されるのは勝手ですが、「バカ」を増やし、「バカ」を作り出しているのは自分だという自覚を最低限持っていてほしいものです。
    よって大学における「学力低下」の抑止は極めて簡単です。
    これらの対応策は、第一に「一定の水準に達していない学生の入学を拒絶すればよい」第二に「在学中に向学心を失った者は中退させればよい、
    これによって空いた定員は留学生を迎え入れるか、他大学の編入者を大々的に受け入れればよい」ただそれだけです。
    前者は少子化時代の完全相対評価が原因であり、後者は完全に大学入学後の問題であって、小、中、高のカリキュラムはその原因としてほぼ関係のないものです。

    試験を検定型にし、小学校から大学までひとつの線でつなぐ。

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