平安時代の薫香: 香り文化の源流を王朝に求めて

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  • フレグランスジャーナル社
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  • Amazon.co.jp ・本 (268ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784894792364

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  • 香りのブレンドを楽しんだ王朝人。「源氏物語」に登場する女君たちと香りという切り口で綴られたエッセイが贅沢すぎます。「虎屋」の銘菓「夜の梅」の由来となった凡河内躬恒の歌は艶っぽくていいですね。六種の薫物「落葉」の読み方は“らくよう”ですよね。(同感) 元日に六条院の四季の町をめぐる光源氏が、明石御方の御殿に居続けたのは香りの演出効果ですか!御方は智謀の人ですよね。弘徽殿のもうもうとした香りのエピソードや宇治十帖の薫と匂宮の香りの話など、もっと聞きたい尾崎ワールドでした。

  • 多分、貧乏生活が長かったであろうし、失礼ながらそれほど上級貴族というわけでもない藤原為時の娘・紫式部がここまで薫香について調べて、自分の作品のなかに奥行きをもって活用していることには、脱帽するしかない。
     梅が枝の巻を読んでみないといけない。

    p13~14「 薫集類抄に載っている当時の薫物の系譜をついだ人々のリスト」
    が面白いので、ここに抜き書きし、自分なりに補足もしておきたい。

    ……平安末の長寛年間(1163‐65),鳥羽院が刑部卿範兼に命じて抄集したという《薫集類抄》

    藤原 範兼(ふじわら の のりかね)は、平安時代末期の公家。藤原南家貞嗣流。従三位大学頭、刑部卿。従四位下式部少輔藤原能兼(1086年 - 1139年)の長男。弟に範季。子に従二位権中納言範光、後鳥羽天皇の乳母で権勢を誇った事で知られる範子・兼子姉妹がいる。叔母(能兼の妹)は源頼政の母。

    藤原冬嗣 閑院左大臣
    賀陽親王 桓武天皇皇子

    【滋野貞主】 参議宮内卿
    平安時代初期の公卿。姓は宿禰のち朝臣。尾張守・滋野家訳の次男。官位は正四位下・参議。
    平城朝の大同2年(807年)に文章生に及第する。弘仁2年(811年)少内記、弘仁6年(815年)大内記と嵯峨朝にて内記を務めた。早くから詩才が認められ、勅撰漢詩集『凌雲集』に2首が採録されると、弘仁9年(818年)に撰上された『文華秀麗集』ではその編纂に参画している。
    淳和朝では、漢詩集『経国集』20巻の編纂に参画し、古今の文書を分類した日本最古の百科事典『秘府略』1000巻(現存2巻)を撰集している。

    天長10年(833年)学士として仕えた正良親王の即位(仁明天皇)に伴い正五位上と二階の加叙を受ける

    身長が6尺2寸(約188cm)の長身。元来度量があった。生まれつき思いやりがあり情け深い性格で、話をする際に人を傷つけることのないよう気遣いがあった。また、人々を推挙してその能力に応じて引き上げたという。

    長女の縄子は非常に穏やかな性格で立ち居振る舞いも整っていたことから、仁明天皇の女御として殊に寵愛を受けて、本康親王・時子内親王・柔子内親王の3皇子女を産む。また、下の娘の奥子は容姿に優れて、文徳天皇の寵愛を受けるところとなり、これも惟彦親王・濃子内親王・勝子内親王の3皇子女を産んだ。こうして貞主の家は外孫として多数の皇子女を得て繁昌したが、これも貞主の思いやりがあり情け深い性格のおかげであると、世間の人々から評判になったという[1]。


    源定   四条大納言 嵯峨天皇皇子
    本康親王 仁明天皇の第5皇子で母は慈野貞主の娘縄子。
    惟喬親王
    文徳天皇の第一皇子。母は紀名虎の娘・紀静子。官位は四品・弾正尹。小野宮を号す
    貞保親王
    清和天皇の第四皇子で、陽成天皇の同母弟。母:藤原高子。
    古部春近[8](またはその祖父・戸部吉延[9])に習った笛、父の清和天皇から伝えられた琵琶[10]のほか、和琴・尺八などをよくした。笛は管絃長者[8]・天下無比の名手[11]と称されるほどであり、「衆芸の人」で、肩を並べる者なしと評された[12]。中でも横笛を本として、穴貴という高名な笛を吹き[13][14]、その音色は上霧(うわきり)と称されたというが[12]、穴貴は袖の雪を払う際に折れてしまったという[12][13]。

    延喜11年(911年)から延喜20年(920年)にかけては勅命によって笛の伝授を行う。延喜20年(920年)、延喜21年(921年)にはさらに琵琶秘手の伝授を行った。この頃、『新撰横笛譜』『南宮琵琶譜』などを撰進し、後世の楽人たちに重視された。また、長く日本での演奏が絶えていた幻の名曲、『王昭君』を復活させ[15]、その尺八の譜を横笛の譜にうつしたという[16]。

    一方で容姿に優れ、その美貌に惹かれた女性の中には、袖に蛍を包んで燃える思いを表した者もいたという
    wikipedia貞保親王
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E4%BF%9D%E8%A6%AA%E7%8E%8B

    【源公忠】
    光孝天皇の第十四皇子である大蔵卿・源国紀[1]の次男。官位は従四位下・右大弁。三十六歌仙の一人。滋野井弁と号す。(母は内侍滋野直子⇒本書情報)
    『後撰和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に21首が入集[2]。家集に『公忠集』がある。また、香道や鷹狩に優れていた。

    【大和常生】
    公忠朝臣は醍醐・村上両天皇の時代に大和常生とともに合香の役. を勤めた(未確認情報)

    【藤原保忠】
    藤原北家、左大臣・藤原時平の長男。官位は正三位・大納言。八条大納言・八条大将・賢人大将と称された。
    父:藤原時平
    母:廉子女王 - 本康親王の娘
    妻:三松俊行の娘[4]
    養子女
    養子:藤原頼忠 - 藤原実頼の次男

    【藤原遵子】
    関白藤原頼忠の次女。母は代明親王(醍醐天皇皇子)の娘厳子女王。円融天皇中宮。別名は四条宮。同母弟妹に公任、諟子(花山天皇女御)。

    【藤原 詮子】
    摂政関白・太政大臣藤原兼家の次女で、母は摂津守藤原中正の娘時姫。
    先後して摂関に在職した道隆・道兼・道長、また冷泉天皇女御超子は同母の兄弟。 円融天皇の一粒種を生みながら、関白藤原頼忠の女遵子に后の座を奪われたことで、父兼家と共に天皇を恨んで里邸の東三条邸にこもり、たびたびの召還にも応じなかった。

    【藤原 娍子】
    第67代三条天皇皇后。父は贈右大臣藤原済時、母は源延光の娘。

    その後、三条天皇の譲位に伴い長男・敦明親王が後一条天皇の皇太子となるものの、上皇の没後に敦明親王自ら皇太子を辞去、また前斎宮であった長女・当子内親王が藤原道雅と密通するなど、皇后でありながら不遇な生涯を送った。

    父の済時から伝授を受けた箏の名手であったという[2]。

    寛弘元年(1004年)、敦道親王の正妻であった妹を引き取る(敦道親王が和泉式部を邸に住まわせたため)。

    【敦明親王】
    三条天皇の第一皇子。母は皇后・藤原娍子(大納言・藤原済時の女)。尊号は小一条院(こいちじょういん)[1]。藤原道長の圧力の前に自ら皇太子の身位を辞退し、その見返りに准太上天皇としての待遇を得た。

    【山田尼】
    山田中務 小一条皇后侍女 山田中務 因幡権守致貞女

    【藤原教道】

    【藤原頼道】

    【藤原師成】
    藤原北家小一条流、権中納言・藤原通任の長男。官位は正二位・参議。

    その他
    淳和院
    仁明帝(承和の秘方)
    朱雀院

    【藤原致忠】
    藤原南家、大納言・藤原元方の子。官位は従四位下・右京大夫。
    村上朝にて大学寮の学生であったが、天暦2年(948年)高階成忠らとともに文章生試を受験している。また、天暦年間には六位蔵人も務めた。

    永延2年(988年)盗賊の首領であるとして、息子の保輔に対する追捕宣旨が出された際、父親である致忠も拘禁された。長保元年(999年)橘惟頼及びその郎等を殺害した罪で惟頼の父の橘輔政に訴えられ佐渡国に流された。薫物の名手としても知られた。

    【藤原保昌】
    藤原南家巨勢麻呂流、右京大夫・藤原致忠の子。官位は正四位下・摂津守。
    妻の和泉式部と任国に下る。のち、大和守(再任)・摂津守を歴任し、位階は正四位下に至る。また、藤原道長・頼通父子の家司も務めた。
    国幹(不明)
    知章

    藤原公任
    大江千古
    【平 随時】平安時代前期から中期にかけての公卿。仁明天皇の第五皇子本康親王の子である左馬頭・雅望王の三男。官位は正四位下・参議。

    大僧都寛教
    崇知大師

    【唐僧長秀】
    (河原院に一時住んでいたらしい)
    『扶桑略記』24 延喜廿年十二月廿八日条

    十二月廿八日。皇子等賜源氏姓。同比。唐僧長秀。與其父共行波斯國之時。漂蕩海路。寄燈爐嶋澡中。數月經廻之間。其父風痾發動。惱於胸病。適遇不慮便船。僅到着日本國。其病倍增。苦痛熾盛。爰長秀父病不覺之由。啓聞天台座主增命和尚。座主云。我朝有十人之驗者。淨藏是日本第三驗者也。招請遣之。淨藏乘撰。往到加持。藥師眞言一百八遍。即時應聲其病平痊。長秀感歎云。唐朝隣於印度。佛法靈應。甚以掲焉。然未有如此之人矣。東海別嶋聖人。効驗奇異。因此定知。可無第一第二矣。〈已上傳〉


    ひん王家
    姚家
    【長寧公主】
    唐の中宗の娘。母は韋皇后。同母妹に安楽公主がいる
    公主が楊慎交に降嫁すると、楊務廉に命じて東都に邸を造営させ、完成すると楊務廉を将作大匠に抜擢した。また長安の高士廉の旧邸と左金吾衛の故営を合わせて邸宅とし、三重の楼閣を建て、人工の山を築き、池を浚渫した。皇帝や皇后の臨御を仰いで、酒を置いて詩を賦した。また坊の西の空き地に広大な蹴鞠場を作った。

    東都の永昌県が廃止されると、公主はその県治を自分の官邸とし、巨費を投じて整備した。また魏王李泰の旧邸を獲得して別荘とした。公主は母の韋后の偏愛を受けて、奢侈濫費にふけり、売官をはじめとした不法行為を横行させた。韋后の奪権が失敗して殺されると、楊慎交は絳州別駕に左遷され、公主もともに流された。公主の東都の邸は、結局公主が住むことはなく、景雲祠として活用された。長安の邸は売却されて、木石の値は銭20億万に及んだ。

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著者プロフィール

一九二七年東京生まれ。歌人。作家。歌集『さるびあ街』(松田さえこ名義)で第四回日本歌人クラブ賞受賞、『源氏の恋文』(求龍堂)で第三二回日本エッセイストクラブ賞受賞、第六歌集『夕霧峠』(砂子屋書房)で迢空賞受賞、『新訳:源氏物語1~4』(小学館)等の活動により神奈川県文化賞受賞。その他、著作多数。近刊に『自伝的短歌論』(砂子屋書房)がある。また「合唱組曲・蔵王」他、多くの作詞を手がける。

「2019年 『神山三輪山歌集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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