二つの“平和” 自爆と対話 (土井敏邦・ドキュメンタリー「届かぬ声―パレスチナ・占領と生きる人びと」3)[DVD]【ライブラリー版】
- トランスビュー (2010年5月7日発売)
- Amazon.co.jp ・本
- / ISBN・EAN: 9784901510882
作品紹介・あらすじ
□無償による次の行為を許諾するライブラリー版です。
(許諾票がパッケージに添付されています)
・個人への施設外貸出
・購入施設内での個人視聴
・購入施設内での上映
□自爆攻撃に走ったパレスチナ人青年の遺族の証言、自爆テロの犠牲となった少女の両親や生還した女性兵士と家族を通して、対話を試みるイスラエル人・パレスチナ人双方の平和観の断層を描く。
感想・レビュー・書評
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「神が自分たちに与えるといった土地」。20世紀後半に、それを本当に信じて、他国を侵略をするのは狂気の沙汰だ。そのことを思うと、私はユダヤ人のことが本当にわからなくなる。私は信仰という感情を理解できない。信仰を持つ人を否定する気はないけれど、私にとって信仰は教養以上の意味を持たない。
イスラエル入植の目的は、中東に親欧米国家を作ることや石油で、信仰は建前に過ぎなかった。でもイスラエルに住むユダヤ人は、自分たちの教義が真実だと思っている。それがあらゆる面で問題をややこしくしているんだろうな。
パレスチナ人がすべての問題の原因だと思っている、満たされたユダヤ人を見ると腹立たしい。パレスチナの子供たちが、日常的に銃声が鳴り響く環境で、心身ともに傷つきながら、日常的に身近な人を失いながら生きなきゃならない理由なんてない。彼らには、普通に大人になることすら難しい。無邪気に遊んでいただけなのに、威嚇射撃をされる子供たちの前でユダヤ人は、すべてパレスチナ人の責任だと言えるのか?パレスチナ人居住区は、かつてナチスに支配されていたゲットーと同じだ。ユダヤ人は何を考えている?
でも、子供を亡くした親の悲しみや苦悩の前では、国籍も人種も関係なくなる。私は子供を失ったパレスチナ人、ユダヤ人両方に共感して涙した。子供を奪われた親、他の人を巻き添えにして自殺した子の親。どちらも恐ろしい困難を生きている。胸が締め付けられるようだ。
安心、安全、食べ物、水、人とのつながり。祖先が誰であろうといつどこで生まれようと、人間としての幸福の条件は同じ。
自分の権利を満たすために、他人の権利を奪ってしまうのは、いったいどういうことなんだ?どうしてそんなことが起こる?一番怖いのは、自分が他人の権利を踏みにじっていることにすら気づかないこと。そういうこともありうる。いったい、なんだってこう、何もかもが複雑なんだ。詳細をみるコメント0件をすべて表示