- Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
- / ISBN・EAN: 9784904855706
作品紹介・あらすじ
「歌は翼を広げて、私たちの生の上へと滑り出す。歌がなくて、その翼で生の上へと滑空する瞬間すらもなかったら、私たちの苦しみはどれほど重さを増すだろうか」――本文より
ハン・ガンが「書きたいのに、書けなかった」と回想する時期に生まれた本書には、音楽との出会い、さまざまな思い出にまつわる歌、著者自身がつくった歌について綴られている。著者の繊細な感性に触れるエッセイ集の初邦訳。
巻末にはオリジナルアルバムの音源情報も収録!
感想・レビュー・書評
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印象的な作品を生み出す作家ハン・ガンによる、音楽にまつわるエッセイ。
人は、自分を語れと言われても大抵は語りづらく、語ったとしても本質でなかったりする。だけど本や音楽や映画などを足掛かりにすると、さまざまなことが想起されて自分の大事な部分のことを語れるものだ。
ハン・ガンにとっては、そのトリガーが音楽であり、過去の思い出や自身の輪郭を見つめ直すものだったのだろう。だから訳者あとがきに著者が「今こうして小説が書けているのは、『そっと静かに』の存在がとても大きい。とても大切な作品だ」と言ったというのが理解できる。作家を育み、形作った体験や感性が垣間見えるエッセイなので、本書で取り上げられた歌はほとんど知らなくても、冴え渡る感受性を堪能できた。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ハン・ガンのエッセイ集
「くちずさむ」は子供の頃からの音楽との関係
「耳をすます」は記憶の端に今も残る歌の思い出
「そっと 静かに」は著者が作詞作曲をした歌を、自ら歌うことになった話とその歌がついている。(原著ではCD付き、日本では抜粋したものがネットで聴ける)
この「そっと 静かに」を読み始めた頃、ピアノの練習曲にsotto voce という指示があった。ソットヴォーチェ。意味は「そっと囁くように」。そっと歌うと覚えていた。
この本のタイトルも同じ。最後まで読んでわかるのだが、内容は全て音楽のことについての話。
作者は囁くような声で話す人らしい。そしてその作者が優しくそっと歌う歌。
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桃山学院大学附属図書館蔵書検索OPACへ↓
https://indus.andrew.ac.jp/opac/book/619762 -
エッセイだけど全体が詩のように美しい文章で書かれている。これは原文の美しさなのか、訳文の美しさなのか。
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はじめて韓国の本を読んだ。
作者のハン・ガンが文章を書けなくなったときに書いたエッセイらしく、彼女にとっては本当に大切な本らしい。
お話のなかで、幼い頃から大人になるまでの彼女と音楽のことが語られていて、韓国の歌は知らなくとも、心に染みるところがたくさんあった。
途中、春香伝のお話がでてきて、わたしの名前は"春香"だからなんだか嬉しかった。
本の最後には、彼女が作った曲をダウンロードできるQRコードもある。たぶん、韓国の伝統とか、歌とかにもっと詳しければより楽しめるんだろうなと思った。とても好きな本。 -
音楽と詩に関わるエッセイ集。
参照曲で英語の曲は良いのだけれど、韓国の曲はハングルがわからないから、なかなかYouTubeで探り当てられない…。 -
『すべての、白いものたちの』に続いてハン・ガン2冊目。
『すべての、白いものたちの』は韓国2016年、日本2018年出版の最新作。『そっと 静かに』は2007年韓国出版。ちゃんと時系列で読もうと思って日本語で読めるハン・ガンいちばん古い作品を選びました。
『そっと 静かに』は音楽にまつわるエッセイ集。音楽にまつわる思い出や彼女が大切にしている曲、彼女自身が作詞した曲などで構成されている。ハン・ガンの小説をまだひとつも読んでいないのだけれど、作家の前に詩を書いていたという経歴に納得。
貧しかったためにピアノを習うことができず紙の鍵盤を叩いていた子供時代。家計に余裕ができた中学生になってから「ピアノを習え」と言われ、「もういいのだ」と答えたら、「お前が習いたくなくても父さんと母さんのために一年だけ習ってくれ。でないと恨になる」と言われた思い出。
部屋を閉め切って『レット・イット・ビー』を大音量でかけて幼い娘と踊って泣いた思い出。
などなど、なかなか壮絶な話がつづられている。当然ながら韓国の歌が多いので、いろんな想いを共有できないのだが、歌というのは個人的な思い出に強く結びついてこそ大切なものになるんだなと思う。
しかし、韓国の歌手に自死した人が多かったり、海外の歌手でも社会運動に関係する人の歌が多かったりするのは彼女の好みというか、ある時期に彼女が必要としたのがそういう歌だったのだろうか。
おそらく比較的のんびりとつづられているようにみえるこのエッセイや詩にもどこか何か失った人の喪失感があり、そこに惹かれます。
以下、引用。
光る記憶、光る幼年時代、光る時間、光る母国語……生きていて良かったと低くささやいてくれているような、この歌。
私が泣いているときに涙を拭ってくれたり、魂を売ったときに買い戻してくれる人はこの世のどこにもいないとわかっていたけれど、歌を聴いていると、起き上がる力と全身が弾け飛びそうな満員電車に再び向かっていく勇気が湧いた。宗教も癒してくれる恋人も持たないとき、そんなふうに一曲の歌が嘘みたいに日常を支えてくれることもある。
「本当に青春が行ってしまったと思うのかい?」私が答えられないでいると、先生は笑いながらおっしゃった。
「……私は今も、毎晩のように月の光に心を奪われているが」
そのとおりなのかもしれない。月の光を感じる時間、愛する時間は多くないのかもしれない。この歌のように、人生に告白する時間はそう多くないのかもしれない。ほんとは人生よ、あなたにありがとうと。こんなにたくさんのものをくれて。
「子育て中だからって残り物ばかり食べたり、疲れているのに窮屈な格好で寝たりしてはいけませんよ。引け目を感じることなく食べて、手足を伸ばし寝なさい。妻を見ていて思いました。そうやって生きてきた結果、痛かったり具合の悪かったりするところがどれほど多いことか……。一度きりの人生じゃないですか」
亡霊っていうのはたぶん、恋に落ちたときに相手に対して持つイメージみたいなものだと思う、と語っていた先輩を思い出す。
その当時の想いと最近の想いが大きく異なる点は、もしかすると時間の感覚なのかもしれないと、そのときふと思った。長い時間が積み重なった想い。携帯電話はおろか電話のない家も多くてすぐには連絡が取れず、手紙を書くと、相手に届いて返事が来るのに最低でも一週間はかかった時代。待つことに、不在に、恋しさに慣れていた時代に自然と生まれた想い。言うに言われぬ想い。いっそ言わない方がいい想い。言わなくても察する想い。察してもらえなくてもどうすることもできない想い。
ずいぶん前に亡くなった人の歌が、生きている人たちをそっとつなげてくれた不思議な経験。
彼の声、呼吸、生命を私たちが聴いているいま現在、彼はもう死んでいるのだという奇妙な物悲しさに慣れるぐらいの時間は流れた。
歌詞は一言も理解できないけれど、すべてが伝わってくるこの歌。リズムの中に体が揺れて、心が揺れるあいだ、人生とはとにかく揺らぐものだ、だからひどく悲しんだり後悔したりする必要はないのだということをひんやりと感じる歌。
セビリア・エヴォラ『Bondade e Maldade』
これまで取り上げてきた歌はいちばん好きな歌という訳ではない。格段に優れていると思う歌でもない。ある時期の記憶とともにおぼろげに浮かんでくる歌かどうかが基準だったので、大好きだけどここで紹介しなかった歌もたくさんある。
そんな思い出があなたにもあるのだろうか。百通りの気遣う言葉よりも胸が締め付けられる、黙って手を差し出す握手みたいな思い出が。
十年ほど前に書いた短編小説で、死ぬ前に三時間与えられるとしたら、太陽の光を浴びる時間に使いたいと書いたことがあった。今もその気持ちに変わりはない。その三時間のあいだ、陽光の中に全身を浸すのだ。ただし、愛するあなたと一緒に。私のいない長い時間を生きてゆくであろう、あなたの手を握って。
理解できる年齢になったのだろう。目に見えないと距離が遠くなるんじゃなくて、見えないから懐かしいのだと。さまざまな形の愛の虚構を、幻滅の裏側を知っている。でも同時に、どうしようもないのだということもわかっている。止むに止まれず私たちは愛し合うのだということを。あれほど役に立たなくて軟弱な、壊れやすい刹那の真実、刹那の美しさだけが、ときとして私たちのすべてになるということを。しかもそれが、治癒のパワーにもなるのだということを。
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著者の詩と音楽に関するエッセイ。韓国の歌が多く取り上げられているので、おそらく韓国の人たちが読むようには読めてないだろう。ただ ハン・ガンの好きな音楽を、ネットで検索しながら聞くのは、面白い経験だったし、その中で、セザリア・エヴォラを知ることもできた。文章としては、巻末近くにおかれた、「黒い海辺、その笛の音」がよかった。
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『菜食主義者』『ギリシャ語の時間』のハン・ガンのエッセイ集。
メインテーマは音楽。三部構成になっているんだけれど、第二部は著者の親しんだ音楽についての話で、韓国の民謡?歌謡曲?についての話がほとんどなので、馴染みがないのであまり入り込むことができなかった。『レット・イット・ビー』の話とかもあったけれど。
第一部の紙のピアノの話、第三部の車椅子の話がとても印象的だった。
『少年が来る』も読まねば。 -
信濃毎日新聞2018812掲載