借金とは、自らの意図とは無関係に、赤の他人との関係を取り結んでしまうことなんですね。それも、「支配ー被支配」の関係に近い関係です。(中略)借金とは遅延された等価交換だということなのです。(p.22)
貨幣交換とは、非同期的交換であり、貨幣の出現によって、同じ場所に交換物を持参して、対面で相手の品物を吟味しながら交換するなんていう面倒がなくなったのです。(p.27)
・お金=①交換を促進する道具②関係を断ち切る道具
・贈与関係=①交換を禁止すること②関係を継続させること(pp.89-90)
消費社会とは、アノニマスな消費者が、経済の主役になっている社会です。
市場とはまさに、網野善彦の言う「無縁」の場であるわけで、そこは旧態依然とした地縁血縁的なつながりや、長幼秩序といったものが意味を持たない自由空間です。市場原理とは、まさに「無縁」の原理であり、「無縁」の原理の下で、唯一、人間関係を取り持つのがお金なのです。(p.96)
地縁や血縁あるいは兄弟盟約的な関係性が無ければ、他者に対して贈与するという気持ちもなくなっていきます。何か問題が起きても、問題の責任を誰も引き受けようとはせず、「それはわたしのせいじゃないよ」と他者に責任を転嫁することになります。(p.97)
宗教が立ち上がるひとつの大きな理由は、取り返しのつかない負債(返済不可能な負債)を、等価交換とは別の仕方で返済する仕組みが、人々に要請されていたということではないでしょうか。そういう場所がなければ、人を殺めてしまった場合には、「じゃあお前も死ね」という報復によるしかなくなってしまいます。等価交換の原理だけではうまくいかないことがある。(p.137)
よく政治というのは現実的でなければならず、きれいごとでは何も解決しないと言いますが、政治家はたとえそれがすぐには実現できないとしても、きれいごとを言い続けて、実現へ向けて努力する責任があると思います。わたしたちは、現実をよりよい方向へと動かしていくための代表者に一票を投じたのですね。(p.149)
「ためらい」だとか「言いよどみ」だとか「恥じらい」だとかそういうことがこの社会の中になければ、社会は実は、平穏な人間の住処ではなくなってしまうということです。確かに、きれいごとの社会は、それが永遠に実現できないかもしれないということで、ごまかしなのかもしれない。
このごまかしをやっているといううしろめたさは、非常にネガティブな、「自分はひょっとしたら間違ってるんじゃないか」とか「これはつくり事じゃないか」という近くですね。でも、この自覚が自らの欲望の歯止めになる、生活に規矩を与える。
よくよく考えてみると「文化」ってそういう事なんだと思うのです。文化の異名は「ためらい」なんです。「うしろめたさ」という事です。(p.154)
何度か呼びかけていると、そこに応答の兆しがあらわれてくる。
「呼びかけ」と「応答」という交換が最初にあったのです。(p.172)
真円的思考は、楕円がもともと持っていたもう一つの焦点を隠蔽し、初めからそんなものは存在していなかったかのように思考の外に追い出してしまいます。
真円的思考とは、すなわち二項対立的な思考であり、それは田舎か都会か、化学科振興課、権威主義か民主主義か、個人主義か全体主義か、理想主義か現実主義か、どちらを選ぶのかと二者択一を迫ることです。(p.208)
わたしは、解決がつかない問題を、安易に解決してはいけないと思います。これまで考えてきたように、解決がつかない複雑な問題を前にしたときに、とりあえずわたしたちがとり得る態度は、「泣く」「ためらう」「逡巡する」です。つまりは、立ち止まって足元を見つめる時間を持つということです。