南光坊天海の研究

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  • 青史出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (424ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784921145477

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  •  天海大僧正は、謎の多い僧侶である。しかし、実は歴史上で重要な役割を持っていたと推測される。
     『国際ウラ天皇と数理系シャーマン』によれば、伏見殿と徳川家康をつなぐ重要な役割を担っていた。

    伏見殿と徳川家康の関係[...]のカギは天海大僧正です。(p.163)
     そもそも、
    天海は天文二十一(一五五二)年、丹波の国桑田郡千歳郷小口村で郷士安藤惟実(号は緯翁)の子として産まれました。安藤惟実とは、第七代伏見殿邦輔親王(一五一三~六三)の王子邦茂王のことで、生母の実家の安藤宗実の籍に入って惟実を名乗ったのです。(p.172)

    であり、

    邦輔の子の第九代伏見殿邦房親王(一五六六~一六二二)が、兄の尊朝[...]と同年生まれの天海を、尊朝法親王本人として、徳川家康に紹介し(p.173)

    たという。

    天海は、上級武士好みの臨済宗の名刹長楽寺を、非農業民救済系統の民衆型寺院に変(p.174)

    え、山王一実神道と吉田神道との争いに決着を付けるための重要な役者だったのである。すなわち、

    秀吉より五歳年下の徳川家康が元和二(一六一六)年に駿河で薨去すると、その神号を巡り、山王一実神道による権現号を推薦する南光坊天海と、吉田神道による明神号主張する金地院崇伝が相譲らず、激しく論争します。天海が「葬儀を天海に委ねる」との家康の遺書を持ちだした上に、「豊国大明神を見よ!」との一言が二代将軍秀忠を動かして東照大権現に決着しました。[...]家康が権現号を以て祀られたと観るや、天下の大勢は一斉に山王一実神道に靡き、吉田神道は一時見る影もなく衰退しますこれが不穏を取り除いた結果なのです。(p.179)

    かかる天海を史料の面から分析したのが、この本である。

    <抜粋>
    p.10
    『徳川実紀』の七月二十二日の条をみると、将軍家光は天海の病気を聞き、上野の天海のところへ松平伊豆守信綱と医師二名を派遣している。その後、家光は八月二十一日、二十三日、九月八日、二十九日とたてつづけに自ら天海を上野に見舞っている。これは極めて異例のことである。

    p.16
    家康は関東天台宗法度を制定して、喜多院天海宛に出している。[...]この法度の意味するものは関東天台の分立と、これにもとづく本末の規制である。また幕府はこのときに関東の有力寺院である常陸千妙寺・同薬王院・武蔵慈光寺・同慈恩寺にも法度を定め、これらの法度を同時に天海に手渡している。ここに天海は学問面だけでなく、関東天台の実質的リーダーの地位を家康から認められたのである。

    pp.24-25
    書籍を贈っている事例は数多く見られる。それらをみると僧侶だけでなく、公家や武家かはも多数送られている。その書籍の内容も内典だけでなく外典も多数含まれている。これらは天海の学識の幅の広さを物語るものであろう。

    p.47
    京都所司代は西国の寺社行政を担当しており、もっとも寺社行政に影響力をもった人物とも、天海は親密な関係にあったことがわかる。

    p.59
    近世初期の仏教界において、天台僧南光坊天海の実力は天台宗内のみに止まらず、仏教界全般、さらには江戸幕府内部にまで浸透していた

    p.150
    天海がどこかで易占の知識を身に付けていたことは事実である。

    pp.169-170
    京都における一宮争論は天海の斡旋により幕府関係者の助力を得た千栗社、天台側がとりあえず勝利を収めたようである。[...]故家康の神号について公家衆が清涼殿で協議していたところ関東将軍家の命によって家康の遺言にまかせ、天海が歓請一切を取り仕切るので、神号の勅許だけと申入れられている。これによって神道の宗家と自負した白川・吉田両家はいちじるしく面目を失っている。

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