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感想・レビュー・書評
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フィッツジェラルドの晩年の作品を収録。何より『崩壊』を読んでみたくて。1993年版のため、表紙が違う。
多くの作品の登場人物はフィッツジェラルド自身が名前を変へて現れたもののやうにみへる。作家として時代の寵児としてもてはやされた頃からその失墜まで、極点から極点まで大きく搖れ動いた彼にとつて、書くこととはさういつた自分を表現することだつた。
自身のの生き様すべてが、まるで一本の映画のやうに彼には思へたに違ひない。どんな敗北も哀しみも、喜びも安らぎも、次のシーンまで長続きすることはない。映画をひとつ撮り終へるまでその役を演じきつてみせる。だから没落も敗北も何もかも、与へられたひとつの台本に過ぎないのだ。
時には画面に映ることなく、その存在が散つていつてしまふことさへある。すべてをsceneに映すことが映画ではない。カメラがなくても進行する動きがあり、映らないことで一気にその距離を広げる。映画なら、映らない世界を見せることができる。時間・空間、漂ふ心の動き。書くことにおいても、彼は書かない世界をいつも漂はせてゐる。
そのため、書き終ると強い消耗を感じしまつたと思はれる。何もかも自分の目の前を通り過ぎてしまふ無力さに似た疲れ。彼の作品からはもう何かが遅すぎたといふ倦怠感が常にしてくる。夢中になつてゐる時には何とも思はないのに、通り過ぎてふと気づいた時には、もう自分の手の中からすり抜けてしまふ。永遠に現在を生きられぬ現存。崩壊とは、生きることに対する彼の疲れから徐々にひび割れていつた、ひとの力ないそんなあり方なのかもしれない。そして、わずかでも自身の存在をばらばらにならないやう、つなぎとめる力を与へるため、彼はどんなに打ちひしがれても自分の人生をあきらめずに書くことをやめなかつた。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
31 虚栄に生きる人間の華やかさと背中合わせの虚無。敗者として生きるのもひとつの生き方と思う。