花伝書 (1979年)

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  • 勅使河原蒼風は、草月流を確立した人である。草月流とは何か?がこの花伝書に現れている。
    勅使河原蒼風の言葉は、複雑に絡み合っているような気がする。わかるようで、わからない。わからないからこそ、そこに真髄があるのではないかと思ってします。まるで、言葉遊びをしているのではないかとさえ思ってしまう。ただはっきりしているのは、いけばなをするという行為は、芸術であると思っている。芸術家としての心構えを述べている。
    本書はいう「イサム・ノグチがうちへきていった言葉がなかなかいい。松をいけて、松に見えたらだめでしょう。松が松でなく見えることは、大変ですね。彼は日本語がヘタというが、こんなうまい日本語はめったにない。わたしがいちばんきらいな文句、花は野にあるように、というのとよき対照である」ここから見える言葉の背景は、自然らしくいけるのではない、アートなのだということだ。
    松や花が、そのまま自然のようであったら、自然を見ればいいことだという大胆な仮説から始まる。
    本書はいう「「いけばなは、自然と人間がぐっと近づく仕事である。これほど自然と人間とが近くなれる仕事はないと思う。自然と人とが和した絶頂の、そして境地のいちばん明瞭な姿がいけばなである」ここでのいけばなは、自然と人の一体化を表現するということだ。
    本書はいう「花は美しいけれど、いけばなが美しいとはかぎらない。花は、いけたら、花でなくなるのだ。いけたら、花は、人になるのだ。それだから、おもしろいし、むずかしいのだ。自然にいけようと、不自然にいけようと、超自然にいけようと、花はいけたら、人になるのだ。花があるから、いけばなができるのだが、人がなければ、いけばなはできない。ウソをつけよ、ウソがまことなのだ。ウソは創造なのだ。創造のないいけばなはつまらない」
    勅使河原蒼風の言いたいことの真髄が、この言葉の中に溢れている。
    「いけたらと、花は人になるのだ」という言葉が、新しい境地を切り開いたかのように見える。
    そして、「ウソをつけよ、ウソがまことなのだ。ウソは創造なのだ」という。過激で刺激的な言葉だ。まこと、真実を表すためにも、嘘をつかないと成り立たない。嘘をつくことから、創造が始まる。いけばなにおいて、松は、松ではなく、人になることなのだ。
    いけばなというものに対しての覚悟がそこにはある。眼光鋭い鷹のような視線でいけばなをみている。
    本書はいう「とってきたもので、もとの姿になかったものを作り出す。これはいけばなならではできないことなのだ。それがつまり、造形性である」いけばなとは、造形性がなければ成り立たない。その造形性が、人になることでもある。
    本書はいう「自分の線を持つこと。どんな植物の中にもある線の中から、自分独特の線を引き出して、そこに自己を表現する。そのために、線の勉強が大切である。そうして自分の線を獲得できたなら、作品はいつもいきいきと新しい魅力をたたえることになるだろう」
    自分の線を持つこと。それは、直線ではなく、曲線なのだ。その曲線を自分のものにする。
    まさに、伝えたいことは、このことだろう。そのために、徹底してハサミを入れ、そのハサミは自分の意思で動かしながら、花自体がそうして欲しいと願っているところに、ハサミを入れる。
    ハサミを自由自在に操り、ウソを作り出す。いけばなは、創造の産物となる。
    本書はいう「新しいということが、いけばなのいちばんの魅力である。部屋の構えはそうは変わらない。しかし、そこにいけた花は、いけるたびに変わる。草月は新しいものを求めている」
    「求めていなければ、授からない。だから、いつでも求めていなけらばならない」という。
    いけばなの世界は、花の魅力をどう引き出し、新しさを追い求めるものだ。
    瞬間をいけながら、永遠を表現するって、楽しそうだ。

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