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感想・レビュー・書評
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ラジオで映画「ボディスナッチャー」が紹介されていて、しかもリメイク版も3作あり、それぞれがとてもおもしろいんだ、と紹介者が言っていたので原作を読んでみた。まだ映画は見ていない。
ある日、夫が夫じゃない、妻が妻じゃない、子供が子供じゃないと街の人々が言いだす。姿は同じだがどこか違うという。医師のマイルズにもそんな患者が次々にやってくる。「似ているが本人とちがう」という出だしから、宇宙人か何かの生体乗っ取りか、と展開にわくわくする。設定は1953年8月13日から始まっている。
その宇宙人の設定が莢から人間の体を作るというもので、医師のマイルズ、その女友達、小説家夫婦、この4人を主軸に展開し、逃げて、やっつける。起承転結がくっきりしていて、得体の知れない宇宙人や「盗まれた街」の描写など読んでいても映画ならこんな風かな、などと思い浮かべながら読んだ。
1955発表
1979.3.31初版、1982.7.15第4刷 図書館詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
筒井康隆の緑魔の街だったか、あるいはサラマーゴの複製された男だったか、こうした世界の虚構はいまだに心くすぐられるものである。
自分が自分であること、相対化の原理、そして生命の起源、実に大きな風呂敷を広げつつも、時間と空間の中でドラマチックに収めている。
別にSFだからありえないとか、人間であることが素晴らしいとかそんなことはどうでもいい。しかし、ある日、そのひとがそのひとではないような気がする、こういった違和感をひとが抱えることが果たしてできるのか、考えてしまったのである。もし相手が変わってしまったとしたら、いったい何に基づいて変わっているのかというのを知っていなければならない。しかし、目に見えるところで変わっている所などない。それでも変わってしまったという。登場人物たちは目に見えない何か、感情の有無とあっさりすませてしまっているが、果たしてそういったものなのか。そんなこと言ったら、日々あのひとと自分は違うと感じる前提、これはどうして問題にならなかったのか。
違う生命にとって代わられることに気づくということはいったいなんであるか、これもまた不思議なものである。自分の中に、宇宙でみた豆の記憶がある、と言うが、それが確かなものとどうして言えたのか。記憶の確かさを証明する術も、他人が他人でないというのと同様に実証できる類のものではないというのに。
そして、乗っ取られる生命が寿命が短く、感情のないものであったとしても、それにのっとられてはならないと主張する人間の感覚はいったい何なのか。この辺り、ナウシカほどきれいに見えてこない。これは自明の感情なのか。のっとりを拒否するための積極的なものもない。なぜなら主人公サイドがのっとられていないからである。のっとる側も、対話の可能性をもう少し頭(?)を使って試みるべきではなかったか。そして、感情がないとされる豆たちが同士が焼かれているのをみて宇宙に再び飛び立つというのもまた変な話ではないか。感情が無いのなら、最後のひと莢が滅びるまで地球にとどまるはずではないか。
実は考えるべき点はたくさんあるのだが、どうにもあっさりと物語としての一貫性が保たれているこの虚構世界が不思議でならない。SFというのはこういう想像を限り無く許し、対話をさせてくれる。どうあっても、人間は、自身の論理や想像から逃れることはできない。どのようなSFも、人間の想像の中でしかない。だからこそ、人間の論理や想像性というものに迫れるのだと思う。 -
終わり方があまりに投げやりだがまずまず
表紙 3点ユナイト映画
展開 4点1955年著作
文章 6点
内容 600点
合計 613点