カミュ全集〈6〉反抗的人間 (1973年)

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  • カミュのやうな人間が、かくも叫びをあげなければならないといふのは、戦争や革命といふものが、ヨーロッパ、フランスにおいて、いかに大きな影響を与えたものなのか感じられる。
    革命といふ行為は、一体何なのか。フランス史上大きな関心事であるのは間違ひない。現政権の残酷さや慘さから逃れたくて、現政権を倒すはずの革命が、現政権と同じ手段をもつてして行うといふ事態。誰しもが革命後に平和がくると信じていたにも関わらず、訪れたのは恐怖政治。血で血を洗ふやうなギロチンの歴史。彼はそのことを見拔いていた。革命の結果何が変つたか。ひとが変つただけで、またたくさんの命が無情にも死んでいく。それを革命を呼んでいいのか。それはただの人殺しではないか。武力に対抗するためには、それ以上の武力をもたねば平和にならないとするなら、それは果たしてほんたうの意味で平和と呼べるのか。
    だが、彼は革命を否定しているのではなく、革命を信じていた。反抗とは、ひとが連帯する力であり本性である。反抗す、故にわれらあり。さう信じてやまなかつた。どうもその辺のことが、読者には傳つていなかつたのだらう。
    彼にとつてヘーゲルの進歩観は、どうもひとの両価性を考えてゐなかつたといふ感じである。革命が進めばよくなる、精神は現象として立ち現れる、そんなことないといふのは歴史の示したことだと。一方のマルクスには、その生産手段を動かしているはずの人間の精神といふものが缺けてゐる。生産手段に突き動かされているはずの人間がなぜ連体し、反抗できるのか。このことの説明がマルクスの考えではできない。
    ひとを殺さなければ殺されてしまふといふのに、その人間を殺すことにどうしてこうも嫌気がしたり、ためらひが生れるといふのか。反抗とはおそらくこのことに尽きる。殺人はやむを得ない、しかし殺人を正当化するいかなる原理もあつてはならない。ひとを殺さなければならないところで否(ノン)と叫べる人間こそ、反抗的人間である。その否と叫ぶには、自分が殺されても構はないとする人間なのである。しかし、ひとりではその行為はただの例外、社会的には愚かなと呼ばれてしまふのである。さうした人間たちが連帯することで、はじめて反抗は反抗足りうるのである。すべての人間がはじめて否と叫んだその時、はじめて肯(ウィ)となる。全体性とは、こうした個々の反抗の上に成り立つものでなければ、ナチスと何の変りもないものなのである。きつと彼は共産主義からさういふナチスに似たものを嗅ぎ取つたのだらう。
    これが日本といふ島国で言はれたことであつたなら、また話は違つていたことだらう。彼の作品を読むたびに、より一層、日本で活動をして欲しかつたと思はずにはいられない。案外、彼の中に息づく地中海的感覚といふものは、この国の感覚と近いものなのかもしれない。

  • なかなか読み進めるのが難しい著作ではあったが、何とか読了。理解できないところも多々あったのだが、途中で読むのを投げ出させない何か、読者を惹きつける何かがあった。
    それは例えば、最終章によく表されているのではないか。
    暴力に頼らない反抗、人間に自然を取り戻させるための反抗とはどのようなものなのか。最終章でカミュは熱く語る。
    現在、イスラム国の存在が世界で話題となっているが、彼らの行動がいかに「反抗」とは遠いものであるかは、この最終章を読むとよくわかる。

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