世界の名著〈51〉ブレンターノ,フッサール (1970年)

制作 : 細谷 恒夫 
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  • 所収の「厳密な学としての哲学」についてのみ記す。

    現象学の創始者であるフッサール(1859ー1938)の論文、1911年。フッサールの主要著作は以下の通りであり、この論文は彼が自身の現象学を体系的に展開していく「中期」思想に位置付けられる。

    1891『算術の哲学』
    1900ー1901『論理学研究 純粋現象学序説』
    1904ー1905『内的時間意識の現象学』(講義録、出版は1928)
    1907『現象学の理念』(講義録、出版は1952)
    1911『厳密な学としての哲学』
    1913『純粋現象学と現象学的哲学の構想(イデーン)』
    1929『形式論理学と超越論的論理学』
    1931『デカルト的省察』
    1936『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』

    同時代の思潮である自然主義と歴史主義を批判しながら、あるべき哲学の理念を解明し、自身が構想する現象学の主題と方法とその妥当性を論証することを試みる。自然主義であれ歴史主義であれ、学である以上は、当然のことながら「客観的な認識とはなにか」「それが成立する為の条件はなにか」という問題の解明が要求されることになるが、それを問題化し追究する「超越論的」な機制が欠如している或いは不徹底であるという点が、批判の要点になっている。そして、この超越論的要求に耐えうるのはただ現象学的方法のみである、と論じられる。

    ざっと流し読みするような仕方では、かなり難しく感じられる。その理由は、文中のひとつの句や節に後続してその言い換えを「すなわち」「つまり」で幾つも並列させていく書き方によって一文が長くなり主-客関係や修飾-被修飾関係や分節の入れ方などの文章の骨格が捉えにくくなるという構文論的なものと、文中で述べられる諸用語の区別が曖昧に理解されたままになりそれらの対比関係が読み取れなくなってしまうという意味論的なものと、を挙げることができる。しかし、さすがに「厳密な学」を提唱するだけあって、時間をかけて精読すれば、一文ごとの趣旨は必ずしも捉えがたいものではなく、議論の流れもかなり明確に組み立てられていることが分かってくる。小見出しをつければ、さらに理解しやすいものになるのではないか。「文学的」「詩的」な文体とは一線を画する。

    以下、論の流れをまとめておく。

    □ 序論部分

    哲学は「あらゆる学問のうちで最高にして最も厳密な学」「純粋で絶対的な認識に対する[略]人類の不滅の要求を代表する学」(p104)であり、歴史上の哲学はいずれもこの条件を満足していない。よって目指されるべきは、この厳密な学である為の条件を解明し、それに基づいて哲学を基礎づけることである。

    自然主義も歴史主義も懐疑的な相対主義に陥っており、普遍的な妥当性という要件を放棄している。これらの哲学は、その帰結としてともに循環論法や自己否定に陥ることが示されるが、むしろここで必要なことはこうした消極的な批判ではなく、あるべき学の理念を明確化しそれが要求する問題機制(問いの立て方)と対象規定(対象の捉え方)と方法とに照らし合わせるという、積極的な批判である。

    □ 自然主義批判

     ○ 自然主義の自己矛盾

    【自然主義】にとって存在しているものは、時間空間の内に位置を占め、因果法則などの自然法則に従う、物的なもののみである。よって、自然主義においては、意識も理念も自然化される。矛盾律などの普遍的な論理法則も自然法則として解釈される。さらには、真善美など理念的なものの普遍的な価値も自然科学によって基礎づけることができる、と主張する。しかし、これは自己矛盾を導く。なぜなら、自然主義はrealなもののみを存在と認める。そして、realなもの(経験的なもの、自然)からidealなもの(理念的なもの、真善美)の存在を導出することは不可能である。

    よって、自然主義はその体系の内にidealなものを位置付けることはできない。つまり、自然主義は、矛盾律を含むいっさいの論理法則に、絶対的な根拠を与えることができない。ゆえに、自然主義が学である以上は当然自らのうちに内包している「自然主義は普遍的に妥当な哲学である」という普遍妥当性の判断を含んだ命題を、当の自然主義は主張することができない。自然主義にとって可能な、realな判断の積み重ねによっては、idealな判断を導出することはできない。この意味で、自然主義は自己論駁的でもある。

    以上は、idealなものをrealなものに還元することによる背理である。ところで、こうした理念的なものと経験的なものとを区別することは、ほんとうに妥当であるのか。妥当だとするならば、その妥当性は如何なる根拠から導かれるのか。

     ○ 自然的態度

    さらに自然主義に積極的な批判を加える。自然主義は、物理的自然の存在を予め素朴に前提するという【自然的態度】をとっており、それによって学としての自身の対象や方法が規定されてしまっている。ところで、あらゆるものの根源的な原理を扱うべき、それゆえに一切の恣意的な規定性を前提すべきではない厳密学にとっては、この自然的態度は排除されねばならない。しかし、自然主義自身は、自らの存立条件である自然的態度を対象化しそれを批判することはできない。よって、自然主義は、諸学を基礎づける厳密学たり得ない。

     ○ 現象学的態度と純粋意識

    厳密学によって要求されるのは、自然的態度ではなくて、【現象学的態度】である。そこでは、自然的態度は放棄され、意識は自然化されず意識そのものとして探究されることになる。現象学的態度によって見出される、それ自体としての意識そのものを、【純粋意識】という。これは、自然主義的心理学がその自然的態度によって見出す、経験的意識とは区別されねばならない。ところでブレンターノが指摘するように、意識は常に「何ものかについての意識」であるという【指向性】によって特徴づけられるため、意識の探求はその対象の探求にも通じる。こうして【現象学】は、純粋意識を研究の場として定め、「対象が意識に与えられるとは如何なることか」という問題の解明を通して、「意識の本質」「対象の本質」「意識と対象との相関関係」を追究するする。自然主義的心理学の誤謬は、この純粋意識を自然化して経験的意識と混同するところに端を発する。

    自然主義的心理学である実験心理は、経験的所与としての心的なものを概念的に把握することで、客観的に妥当する経験判断を確立しようとするが、そもそも対象を規定しようとする概念が現象学的方法を通して精密化されていない以上、学的認識の確立は不可能である。実験心理学が自然的態度に捕われてしまっていることが、その根本的な原因である。

     ○ 心的現象の本質直観

    物的なものは、時間の中でその性質が持続したり変化したりするが、それら諸性質の時間的統一として存在する。さらに、それが他の物的なものと相互に因果関係の内にあることで、同一性が成立する。こうして、物的存在は、同一性を保持しながら、実在的な諸性質を担っていく。一方、心的なものは、或る知覚に対する或る現象としてのみあるのであって、他の知覚に対する他の現象とのあいだに同一性は保存されない。よって、心的現象は実在的な性質をもたず、因果関係の内にもない。つまり、心的現象を、物的存在のように経験的に捉えられる実在的な存在とみなすこと、則ち自然化することは、背理である。

    心的現象は、現象として、ただ意識(モナド的に孤立していっさいの相互関係から切断されている意識)の内にのみあるのであり、物的存在(時間空間の内に、実在的な存在としてあり、他と因果的な関係の内あることで、同一性を保持している)とは根本的に異なる形式をもつ。では、このような心的現象は如何にして学的に把握することが可能か。心的現象は、現象学的態度によって、意識に現れるままに、則ち自然化することなく、受けとらねばならない。心的現象は、たとえば色と音が相互に絶対的に区別され得る本質を有していることがわかるように、直接的な直観によってその本質を把握することができる(【本質直観】【イデー化作用】)。こうして把握された本質は、絶対的な妥当性をもつ。本質直観は、経験を成立させるための前提であるため、経験に先立つ。よって、本質直観は、直観であって経験とはいっさい関わらない。また、そこで把握される本質は、如何なる意味でも経験的なもの(現存在)ではなく、かつ経験的なものを抽象化普遍化したものでもない。本質直観を経験的なものによって基礎づけることは、背理である。

     ○ 純粋現象学

    「学としての純粋現象学は、それが純粋であって自然の存在定立を使用しないかぎり、もっぱらただ本質の研究なのであって、現存在の研究ではないのである」(p143)。

    「純粋現象学は、ただ本質と本質関係のみを客観的、妥当的に認識し、このようにしてあらゆる経験的認識、およびあらゆる認識一般を明確に理解するために必要ないっさいのことを行うのであり、しかも決定的に行うのである」(p143)。

    「真の認識論はすべて、哲学と心理学との共通の基盤を形成する現象学に、必ずもとづいていなければならない」(p147)。

    □ 歴史主義批判

     ○ 歴史主義の自己矛盾

    ヘーゲル歴史哲学は、歴史を絶対精神が自己を実現する過程として捉える。則ち、それは、生物進化論と類似した発展的歴史観である。このように、歴史が哲学的に主題化されることで、【歴史主義】は誕生する。

    歴史主義では、あらゆる人間的営みは、歴史の流れの中の或る歴史的状況において、歴史的発展という目的論のうちに位置付けられる。則ち、それは、歴史によって規定されたものとして捉えられる。よって、哲学や普遍的な論理法則や真善美などあらゆる理念的なものは、歴史的な人間の精神的所産として、則ち歴史を超越した普遍性をもち得ないものとして、解釈される。つまり、全ての精神的事象は歴史に従属する、と主張する。しかし、これは自己矛盾を導く。なぜなら、歴史主義は、いっさいを歴史的な人間の精神的所産として、則ち経験的なものとして捉える。そして、経験的なものから理念的なものの存在を導出することは不可能である。

    よって、歴史主義はその体系の内に理念的なものを位置付けることはできない。つまり、歴史主義は、矛盾律を含むいっさいの論理法則に、絶対的な根拠を与えることができない。ゆえに、歴史主義が学である以上は当然自らのうちに内包している「歴史主義は普遍的に妥当な哲学である」という普遍妥当性の判断を含んだ命題を、当の歴史主義は主張することができない。歴史主義にとって可能な、経験的な判断の積み重ねのみによっては、理念的な判断を導出することはできない。この意味で、歴史主義は自己論駁的でもある。

    以上は、理念的なものを経験的なものに還元することによる背理である。ここまでの議論は、自然主義における議論と全く並行的である。

     ○ 世界観哲学

    歴史主義が本質的に内に含んでいる相対主義は、多様な【世界観】(世界に意味を付与し、あるべき生の形式を与えてくれる体系)の乱立を生み、それらは相互離在的であるため、いわば神々の闘争を演じることになる。それらは同一の基準面上で相互に比較不可能であるため、最も妥当な世界観というものを、理性的な選択によって獲得することができない。

    そこで、人は非合理的な決断を強いられることになる。「生きるということはすべて態度を決定することであり、態度を決定することはすべて当為のもとに立つこと、つまり絶対的妥当を要求する諸規範に従って、妥当であるか妥当でないかを決定する判決のもとに立つことである」(p165)。

    「しかし他方、強く主張しなければならないことは、われわれが人類に関してもっている責任をも忘れてはならない、ということである。われわれの急迫を鎮めようとして、時代のために永遠を犠牲にしてはならない。急迫の上に急迫を積み重ねて結局は根絶しがたい害悪としてこれを子孫に伝えてはならない」(p166)。害悪とは、たとえば「自然主義者や歴史主義者の懐疑的な批判が、当為の全ての領域における真正で客観的な妥当性を背理のうちに解体して」(p166)しまうことである。

    「これらの害悪[略]に対しては、ただ一つの治療法があるのみである。すなわち、学的批判と、下から築きあげられ、確実な基礎にもとづき、厳格な方法に従って進展する根本的な学、すなわち、われわれがここで擁護する学的哲学とがあるだけである」(p166)。

    「すなわちそれは、われわれが真の学的哲学の本質に属する徹底主義によって、既存の何ものをも受けいれず、伝承された何ものもその出発点とせず、どのような大家であれ、その名まえに眩惑されてこれを無批判に受けいれることをせず、むしろ、問題そのものや問題から生ずる要求にもっぱら耳を傾け、探求の端緒を得ようと努めることである」(p170)。

    「哲学は何よりもまず、その絶対的に明確な始源、すなわち絶対的に明確な問題、この問題の固有の意味のうちに示されている方法、および最も根底的な研究領域である絶対的に明確に与えられた事象が獲得されるまでは、決して休止してはならない。人は徹底した無前提性をいかなるばあいにも放棄してはならない。そして、このような「事象」と経験的「事象」とをはじめから同一視するようなことを決してしてはならない。すなわち、非常に広い範囲において、直接的な直観によって絶対的に与えられる理念に対して盲目であってはならない」。(p179-171)。

    「有限なところに目標を置き、それに従って生きうるためにじゅうぶんにまにあうだけの体系をもとうと欲している世界観哲学者には、学的哲学を基礎づける資格など決してないのである」(p167)。

    「世界観は抗争する。ただ学だけが決定をくだすことができる。そしてこの学の決定には、永遠という刻印が打たれているのである」(p166)。

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