平和のための教育 (1952年) (岩波現代叢書)

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  • 今しがた意識に立ち込めていた問題点に関して、
    非常に端的な形でその回答を得た。

    善という概念は、その個人の内奥によってしかそれが「確か」であるかはわかり得ず、一般的な社会的な「それらしさ」や「凄み」では、把握できるものではない。

    教育の理想は、個人性の完成であって、決して社会の要請から、知性的観念的に、一種のイデオロギーを押し付けてはならない。社会というのはつまるところ、個人の集合体であり、その個人が善的な行為を示す「市民」たれば、必然的にその社会の結合は有機的で、結束的、和平へと向かうだろう。

    しかしここまで自分の考えを正当化した上でもなお、自己の「感情移入」の欠如には嘆かざるをえない。



    人類が正しい教育によって平和を愛し求めるようにならなければならない

    農民の攻撃的な衝動は、「自然」という永久の敵との戦いによってさっぱりと解消させられている

    農民が戦争に無関心なのは、もっと深遠なものである。現実的な意味で、人間が宇宙の過程の一部となっているのである

    人々を分裂させるでなし、結びつけるように教育する

    教育は、感覚や手足や筋肉を通して流れ出るもので、はじめから抽象能力を通じて行われるべきものではない

    事物の世界との関係は、模倣ということでなければならない。リズムによる、儀式にかなった、かつ、子どもの自由な解釈の余地をのこした模倣

    戦争というものは、人間の道徳上の欠陥によって生まれる多くの出来事の総決算にほかならない

    道徳の概念による教育のことではない、道徳を実行する教育

    事物による教育、詩的な経験

    事物をつかむ人、経験によって知ることのできる。芸術とか、芸術的手腕というものは全て詩である。現実をつかむこと、事物をつかむこと

    藝術は健康の表現、芸術は繁茂、爽快、入神の境地である。

    いつごろから、芸術が生活から引き離され、そうして、こんにちのように、余暇とか、レクリエーションとかにむすびついてしまったのか

    時間はもっている。問題はその時間をどう埋めるかである、余暇はもはや、生活の厭力にさからってようやくかちえたスペースではない

    余暇の時間の中で、遊ぶことさえ中止してしまって、さまざまないわゆる娯楽にそれを費やすことーレクリエーション

    われわれは藝術を生活しなければならぬ

    不完全な仕事においては、時間は一つの要素である。

    ソローは、労働をなくしてしまうことによって自由を得ようとした。自由と労働を結びつけようと考えた。それは、労働を遊びに変え、または、遊びを労働に変えるということによってのみ可能である。職人はそれをやってのけることができる。彼はその仕事のなかに自己を没入することができる

    ほんとうの職人には余暇というものはない。休息と自由があるだけである。

    こんにちの教育の組織は、「分裂させる」教育だと断言してさしつかえない

    社会的な結びつきを促進しうる教育はどんな教育か、答えは言うまでもなく、ひとりひとりの人間の全一性をつくりあげるのに必要な教育と同種の教育だ。ということになろう。教育はかならず、一と多、個人と集団をともに同時につつみこんでいるものでなければならぬ。集団に対して個人を主張したり、個人に対して集団のほうに重みをかけたりする、そんな教育は明らかに分裂した教育である。

    道徳がいまでは知的なもの、公式的なものとなってしまっている。自然な自発的な行為ではなくなっている。合理主義のとりこ。

    そのむかしの道徳教育は、よい作法とかよい形とかいったもの、よい行いとかとい振る舞いとかいったものを習うことであった。動的な概念であった。上品さ、智慧、勇気といった概念であった。

    プラトンによれば教育とは「完全な市民となろうというはげしい欲望を被教育者の中に、つくりあげる、幼少時からはじまる善の学習」のことであった。社会の結合、社会的訓練m社会のモラル、いずれにせよ人々相互の結びつき、完全な友愛生活という気持ちをいいあらわしている

    人間の活動が「人間の技術と想像力を人間の労働のあらゆる分野によって生かす」ことになったときには、労働と遊び、芸術と産業、職業とレクリエーション、競技と詩ーすべてこれらの誤った区別は消滅する

    善と上品さの感覚は、自然がもつ調和とリズムの唯一の基本である具体的な芸術の実行によってその生活体の中に教え込まれた種子が蒔かれる。この調和をもった形と均整とは、人間が物的な宇宙から学び取ることのできる技術或いは本質である

    プラトンは職業的な詩人を信じなかった。彼の理想圏からは職業的な詩人は追放される。プラトンの目的は全一化された人間をつくることにあった

    それ自身で値打ちのある行動のいろいろな形式はすべて個人的なもの、細胞的な、地方的なものである.物質を構成する「分子」のようなものだといったほうがいい

    教育のぜんたいの仕事であって、同時に唯一の仕事、これは道徳という一語に集約しうる

    道徳は、本来、遵法ということになりやすいものだ。善と考えたもの、善と認めたもの、人々はこれらのものを行為の準則とか、教育とか掟とかにしてみたいのである。

    現代においてはベルクソンが「社会の」道徳と「人間の」道徳について同じ区別を立てた。この二つの道徳のあいだには違いがある。それは程度の違いではなくして性質の違いである。社会の道徳というものは、ひと揃いの習慣のことである。それは行動の型であって、練習によって人々の間に植えつけられる。そうして、多くの場合、それは現存の社会機構を守るためのものである。ところが、人間の道徳は「愛の衝動」によって生まれてくる神秘的な義務感である。それは感情にジェスチュアであって、人間全体を包み込んでいる、それ自身、人間の発展的な創造力の最高の表現である。わたくし自身は道徳についてこのような説明はとらないが、ベルクソンは人間の道徳を社会の道徳と明瞭に区別して、この人間の道徳に価値を与えようとした。これは疑いもなむ正しい

    汝の道徳的法則となしえるような格率に従って行動せよ

    人間の行為は自発的である。彼の行為はなんの命令にもよらない行為である。

    彼の行為は理性の必要から出てくるものでもなく、法律や社会の必要からでてくるものでもない。にもかかわらず、道徳的な人間は、なにかの必要があって行為する。彼が善をなすとは、彼は美の必要に従っているのだ

    ヘルバルトは、美的啓示を、具象的なもの、自然に関する知識或いは概念がますます精密にしてくるものだ、というふうに考えている。その結果、人間には、法則、秩序、精密な均整ができあがる。人間はただ「自然」のなかに立つ。自然の力は彼の奥深い自我から流れでてくる。

    もっとも価値ある人間は、神の命ずるままに遊ぶ人間である。人生を過ごす最良の方法は、神に気に入られるように遊ぶことである。

    世間一般に通用している道徳にかんする既成の概念を問題にしているにすぎない。

    道徳の基礎は、人間の外にある

    訓練とは、不幸に望んでもなお勇気をもつ、忍耐、社会的適応を達成する手段ではない。人間の自然な動きを組織的に抑制することではない

    徳あるものとよき市民、この二つは表裏をなすものである

    本来受け入れがたい相手の心を理解するために最も大きな役割をはたすのは感情移入

    社会の問題は、人々の生活における構成分子である個人の成長によって決定する。この個人の成長こそ、社会という組織に新しい命を与える

    個人の成長と、社会への参加が教育の目的

    世間一般の慣習に従って、それを知的な徳と道徳的な徳とする。前者はいっぱんに誰でもが承認しえるものであるのに反して、後者は個人個人の気質や性向によって違うということ。道徳的なそれは、一人一人の心理学的な、神経の組織による内的な働き

    藝術は教育の方法である。

    教育の目的は、子どもの自然な完成への様式に従って成長させようということ

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