小論理学〈上巻〉 (1951年) (岩波文庫)

  • 1951年10月5日発売
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  • で「論理学」とは何なのか。上巻まで読んでわかった所。

    ヘーゲル曰く、論理学とは、
    「純粋な理念にかんする学、言い換えれば、思惟の抽象的な領域にある理念に関する学である」
    「論理学は思惟の学、思惟の諸規定と諸法則の学であるといこともできる」19節

    一つ目の引用文はハテナ。「理念」という語でもって何を考えているかまだわからない。
    が二つ目の方はとっつきやすい。思いきって噛み砕いてしまえ。するとこうなる、
    論理学とは「考える」ということの学、つまり「考える」の持っている諸々の定め、一定のそう在らざるをえない在り方について知ろうとするものである。

    としかしなぜ、「思惟の諸規定・諸法則」をわざわざ知ろうとするのか。言い換えると、考えるのその仕方について考える、というのが論理学の仕事なのだとして、なぜ論理学なのか。なんだか「論理学」等聞くと、形式的で無味乾燥な知的構造物を思い浮かべてしまうけれどもその面白みとはなんなのか。などなど疑問が。いや、じつは論理学とは、いわば一種の宇宙論であるらしい、「思惟規定性」とは、万物の理法(ロゴス)だ、とどうもそのようなあたりのことを言っているらしいとどうもわかる。

    どういうことか。順を追って。
    そもそも、思惟(考える)とは、いったいどういうことか。問うてみる。

    曰く、
    「対象の本性は思惟のうちにあらわれるが、しかもこの思惟は私の作用でもある。したがって対象の本性は同時に私の所産、しかも思惟する主観としての私の精神の所産である」23節

    これは凄い。
    例えば、道を歩いていて、しげみに赤いものを見つける、という場面を考えてみる。私は自身に問う、「これは何か」。そして答える、「これは花だ」。「そこに一輪の花がある」と「私は考える」。なにかある物があるとしてそれがいったい何であるか、それは「考える」ことのうちにあらわれる。「それが花である」というのも、考える働きによって定められたもの、つまり思惟の規定性なのだから、そして「考える」とは、私が考えるというそのことなのだから、考えることによってあらわれる「対象の本性」は考える者としての私のココロが生みだしたものである。
    世界が何等かの意味を持つとしてこうして成立しているのは、私のココロの「考える」というその働きによってであったのか。だけど、これは本当か。道端の一輪の赤い花、これを、ポイ捨てされたコカコーラの空き缶であると考えようとしたところでそんなこと出来やしない。「対象の本性が”私の”精神の所産である」ならば、花を空き缶に、空き缶を花に出来そうなものではないか、全能の神よろしく。

    曰く。
    「(…)思惟は、その内容から言えば、習慣の特殊な存在や行為ではなく、個人的な諸性質、状態、等々のあらゆる特殊性から解放された抽象的な自我としての意識の態度であり、すべての個人と同一であるところの普遍的なことのみを行うような意識の態度であるからである――アリストテレスもこのような品位ある態度を要求しているが、その場合かれの言う品位とはまさに、個人的な意見をすてて、実在そのものを自己のうちに君臨させることにあるのである」23節

    これを読めば、「私の精神の所産」という時の「私」とは、じつは「無私」であったとわかる。「個人的な意見をすてる」。自分だけでなく、だれもがそう考える、そのような考えを考える態度をヘーゲルは「思惟」と言っている。その考えは、私だけの考えでないから、私の所有物ではない。誰か特定の人間、勝手な思い付きではない。逆に言えば、すべての人のものでもある。ピタゴラスの定理がピタゴラスの個人的意見でないことによって、すべての人が同じく考えて納得することが出来るように。思惟とは、「実在そのもの」、つまり我々の思いこむ、思いつく、願望するといった態度でなく、ものが自身本当にそうであるそのことに我々が気付くことができる、そうした態度のことなのだ、と。だから、花を空き缶と思おうとして、花が空き缶ではないのは当然なのだ、それは私意であり恣意であり、思惟でないのだから。

    ここで、思惟とは「私」のものでありながら、「私」のものでないことに気付かされる。思惟によってものの本性をつかむのは私のすることだから、その意味で私の所産だが、しかしそれは私見をはなれて「実在そのものを自己のうちに君臨させること」でもある。これは凄い。

    そしてこう来る。
    「思想の真の客観性とは、思想が単に我々の思想であるだけでなく、同時に物及び対象的なもの一般の自体であることを意味する。(…)(客観性とは)われわれが考えたものにすぎないものとも異なり、したがってまた物自身あるいは物自体とも異なっているところの、思惟によって把握された事物の本質という意味である」41節

    だから、論理学とは、単に我々のいわば頭の中だけにある観念の抽象的な構築物ではない。思惟の諸規定、つまり「考える」の持っている定めとは、現実に存在している事物がそれとして現実に存在することができる、本質的な定めでもあるのだから「論理学はしたがって形而上学と一致する。なぜなら形而上学とは思想のうちに把握された事物の学であり、そこでは思想は事物の本質的諸規定を表現するものと考えられていたからである」24節。
    ロゴスとは、比喩的に言えば、世界に内在する魂であり、世界の普遍的本性である、そういうわけで論理学ロジックとは、世界に内在する魂をつかむことだ。

    そして、本編では「有る」という思惟規定性、すなわち事物の本性と考えられる「有る」から、説き起こされる。最終的にどこに行きつくのかはわからない。ただ、出ることが帰ることだ、ということについては予告されている。

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