CUT [DVD]

監督 : アミール・ナデリ 
出演 : 西島秀俊  常盤貴子  菅田俊  でんでん  笹野高史 
  • Happinet(SB)(D)
3.28
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感想 : 44
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  • Amazon.co.jp ・映画
  • / ISBN・EAN: 4907953042483

感想・レビュー・書評

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  • 遅ればせながらですが、最近になって西島秀俊さんの役者としてのポテンシャルにようやく気付きました。
    今作では抑えに抑えた上質な演技とは打って変わって、映画愛ゆえの激昂の感情に見を置く役柄でこれまでの作品では見たことのない西島さんでした。
    是非とも映画界を背負ってこれからも良作にどんどん出演して貰いたい。

  • 「シネコンのクソカス映画が日本の映画を駄目にしている。」この劇中に何度も放たれた言葉が全てじゃなかろうか。今日の日本は映画を映画として扱ってはいない。俳優のプロモーション、ロケーションの宣伝、書物の販売促進というよう宣伝材料でしか存在していない。一部を除き正真正銘のクソカス映画にまみれている。
    このcutという映画はの映画になくてはならない本当の「生臭さ」を身体でもって表現し、その映画の本来の崇高さを表現していると私は思う。監督が外国人なのが惜しいところではあるが、日本人監督ももっとこの映画をみて考えるべきだ。
    特に三○崇。矢○史靖。あと最近の三○幸喜。また一からやり直せ。

  • ガキくさっ
    映画好きアピールのために、映画のために殴られるというオナニーをするだけの映画
    こんなの作る暇あったら、まともな映画作れ
    それでこそ映画好きだろ

  • 現在の「映画」の状況を表現した作品。素晴らしい。
    この映画をリアリズムがないとして批判することもできるだろうけど、もしそう批判するなら、いったいどういう作品を撮ればいいのか。ドキュメンタリーしか成立しなくなってしまう。
    暴力的な描写は、単に苦境を意味しているだけでなく、その中での無力さも表現している。映画界全体の苦境の中で映画を作る者自身が発狂し打ちのめされながらも、無力なまま作品を作り続けていく者。そして、その無力さの中で生まれたこの作品自体、過去の映画をコラージュすることでしか立ち上がる力を持てなかったという結果である。今「しか…ない」と言ったのは否定的意味ではなく、ただそれだけであるという意味で、つまり、それ以上でもそれ以下でもないという意味である。この映画はただ映画である。新しさも古さもなく、おそらく2011年という時間を刻んでこれからも語り継がれていくのではないか。

  • 秀二にとって「殴られる」という行為は贖罪として描かれていたように感じた。その贖罪は、自分のために死んだ兄へのものだけでなく、映画を殺してしまった社会の罪を贖うという意味もあったのではないかと。
    秀二が床に仰向けになっているその上に映画が映し出されるシーンは凄く色気があって、まるで映画とセックスしてるみたいだった。

  • 制作年:2011年
    監 督:アミール・ナデリ
    主 演:西島秀俊、常盤貴子、菅田俊、でんでん
    時 間:120分
    音 声:日:ドルビーデジタル5.1chサラウンド


    映画監督の秀二は、いつも兄から金を借りて映画を撮っていたが、どの作品も商業映画として映画館でかけることさえできずにいた。
    そんなある日、秀二は兄が借金トラブルで死んだという知らせを受ける。
    兄はヤクザの世界で働いていて、そこから秀二のために借金をしていたのだった。
    秀二は何も知らずにいた自分を責め、兄のボスである正木から、残った借金額を聞かされる。
    しかし、俊二には金を返す当てもない。
    彼は、殴られ屋をすることで返済することを決め、ヤクザの事務所内で働く陽子と組員のヒロシを巻き込みながら、殴られ屋を始める。
    殴られるたびに自分の愛する映画監督たちが撮った作品を思い浮かべる秀二。
    だが、借金返済はそれほど簡単なものではなかった…。

  • 痛い。

    心底息苦しいほどの映画への愛だが、
    それは狂気と紙一重である。
    そうして狂おしいほど渇望する映画という、
    魔物。

  •  映画のアートを信じ映画製作や上映会に励む男。ある日、自分にお金を貸してくれていた兄がヤクザとの借金トラブルで死んでしまい。。。

     すごく日本っぽくないと思ったら監督が日本人じゃないのね。ぱっと見た画面の中にもそういう雰囲気って出る。
     芸術としての映画を強く愛する姿とお金のことを考えてない甘っちょろさが交じり合って映画は進んでいく。その姿はまさに鬼気迫るという言葉がぴったり。
     しかし、私は映画をアートな映画と娯楽な映画に分けるような考え方はあんまり好きじゃないなぁ。。。

  • 映画狂コンビによる映画愛しかない映画。あんまり映画観ない人には多分わけわからん痛い映画。
    というか、とても大切な部分だったり、たくさんのものや時間を掛けたり、そういうものを持ってる人に響く映画、だと思う。それが映画じゃなくても。

    秀二が理解できないくらい怖いところにいて、理解できないことが悔しくて悲しくて泣いた。そこまでついていけないことが、所詮自分はその程度の人間なんだなーって思い知らされて、悔しかった。

    「映画のために死ね」
    まさにその通り。そういう映画。
    もっと言うと、
    「映画のために死ねるか?」
    だと思う。
    それができないからと言って否定するわけじゃない。ナデリ監督も、けして商業映画を否定してるわけじゃない。ただ、そうじゃない部分がどれほど大切か。そしてそういう人間が確かにいること。
    何かのために、どれほどなにを賭けられるか。自分がそういう人間かどうか。
    どれほどそれを愛しているのかを、問われる映画だと思う。

  • うーん、確かにシュウジの好んでいる作品は芸術映画というもので世界遺産並みに素晴らしい作品ばかり。そして現在公開されている映画の多くは娯楽作品であったりエンターテイメントの一種であったりする。芸術映画が素晴らしいのは言わずもがなで、それと比べてしまえばいまの映画はつまらないかもしれないけど時代がそうさせているのであって、何かが衰えたわけではないとわたしは思ってる。それに今まったく芸術映画が無いかと言われればそうではない。評価されているものの多くは芸術映画なのも事実。
    このみの問題なのだけど、現状を受け入れた上で嘆かないと独りよがりになってしまう。
    シュウジが上映している映画もラスト100本も見ているものばかりだったから伊達に学校行ってないなとすこし自身にはなった。
    批評面でも勉強になることがあったので繋げて取り入れていきたい。

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