かつて童話で読んだ本を原本訳で読み返すシリーズ。
ゴードンやドニファン、モコといった登場人物の名前をすぐに思い出して、読んだ瞬間なつかしかった。
童話版の先頭には少年たちの顔のイラストが描かれたページがあり、ドニファンがとくに不機嫌そうな、反抗期っぽい表情だったのを覚えている。
ほぼ主役のブリアンはあまり覚えていなかった。
物語はほぼ覚えておらず、ドニファンとウィルコックスがやたらと反抗してたのとフランス人ボードアンの洞窟に住む話がなんとなく記憶にあったくらい。
スラウギ号という船名も、ニュージーランドから出航するということも、ならず者たちが上陸して撃退するという展開もほとんど記憶になかった。
イギリスのパブリックスクールの体罰容認文化や、モコは黒人だから少年たちのリーダーを選ぶ選挙権がないといったことが当然に書かれているところは19世紀の作品らしさを感じる。
少年たちに「ニュージーランド人」という自覚がなく、植民地に来たイギリス人だと認識しているのも興味深い。
「十五少年漂流記」は漂流物の原典「ロビンソン・クルーソー」から影響を受けているらしいが、それよりはノリが軽い。
宗教的な教訓、神との対話、孤独感、失敗つづきの工作など、「ロビンソン・クルーソー」の真骨頂でもあった重苦しさはない。
同じベルヌの「海底二万里」と比べても勧善懲悪的な展開で、より少年向けの読み物感が強い。
とくに生命線である真水をどうやって手に入れているかの描写がほとんどなく、新鮮な野菜が取れないと明確に描かれているのに誰もビタミン不足に陥らないなど、飢えと渇きのリアリティは表現されていない。
若干きつめのサバイバル合宿という雰囲気だ。
漂流期間もロビンソンの二十八年に対して、こちらは二年間。
私はどっちが好きかと云えば「ロビンソン・クルーソー」の重厚さのほうが好みだった。
「ロビンソン・クルーソー」が大好きなサーヴィスというキャラクタがわざわざ設定されており、ロビンソンのヤギのごとくリャマを飼いならそうとする場面が出てくる。
この時代に初頭教育を受けた少年は、ここまで活字媒体にのめり込める教養が備わっていたのかと感心する。
もちろん彼らにはネット動画やビデオゲームといった娯楽がなかったからかもしれないが、だからこその想像力やサバイバビリティを感じる。
また中学生以下の少年が15人もいるとなるとすぐに秩序が壊れそうなものだが、みずから時間割を定めて勉強したり、日曜日やクリスマスといったイベントを規律正しく実行できるのも、200年前の少年たちだから成立する話なのかと思った。
現代の少年たちをモデルに同じような漂流物語を書いたとて、この骨太なたくましさは出せないのではないだろうか。