御堂関白記 藤原道長の日記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫) [Kindle]

著者 :
制作 : 繁田 信一 
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感想・レビュー・書評

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  • 平安時代における大変な権力者というイメージだったけれど、当時の貴族には必須の漢文の教養もろくに無く、解説では「たまたま身の丈に合わない権力を手に入れてしまった」みたいなことを書かれているのを見て、藤原道長のイメージがだいぶ変わった。

    紫式部は源氏物語の中で、夕霧を大学へ通わせていたけれど、藤原道長の無教養ぶりを見ていたからかもしれない。

    https://www.shikibunosato.com/f/monogatari44

    和泉式部日記に出てくる帥宮が、藤原の道長の家に方違えのために行ってて驚いた。
    帥宮の方違えに和泉式部が同行していた可能性もあるとか…すごいな。この時代の主要な文学者は、大体みんな知り合いか。
    一瞬、すごいと思ったけど、世間が狭くて息苦しそうかも…

    安倍晴明も頻出だ。仏像を作るには縁起が悪いと具申(ぐしん、アドバイスのこと)したり、なんかの碑を作るときに適切な場所を探したりしてる。

    この時代の人たちは、病気になったら病室で騒がしく祈祷を行って、かえって患者の回復を妨げようとしてばかりしていたのかと思っていたので、藤原道長が普通に必要に応じて医者にかかっているのを知って驚いた。
    当時の人たちは、祈祷よりまず医者を頼ったらしい。思っていたより常識的だ。

    ちなみに、道長がかかった重舌(こした)と呼ばれる病気は、現在では唾石(だせき)と呼ばれるよくある病気だそうだ。基本的に外科治療で治すが、くちなしの実などを用いた漢方薬でも治せるらしい。
    https://www.kitasato-u.ac.jp/toui-ken/dl/public/faq_118.pdf

    大江山の酒呑童子を討った源頼光が出てきた。

    重陽の節句は菊祭りだと思っていたけれど、参加する貴族たちが漢詩文を奉じて、それを肴にお酒を飲む…といったイベントだったらしい。
    藤原伊周(道長の甥)は、叔父と違って漢文が得意だったそうだ。
    https://ganshoji.com/publics/index/26/detail=1/b_id=1285/r_id=5889/

    彰子が敦成親王(後一条天皇)を産んだ時期のエピソードが面白い。
    https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/227281/
    紫式部日記でもこの辺を読みたいな。

    彰子の第一子出産では藤原道長は大変なはりきりようだったけど、第二子出産ではさらっと流された。孫が生まれるとは言っても、藤原道長にとっては娘も孫も権力のための道具でしかなかったのかな。それともこの本の編集の都合でこうなったのか?
    ちなみに彰子の第一子は後一条天皇になって、第二子は後朱雀天皇になる。
    https://www.kyototuu.jp/WorldWide/Tennou69Gosuzaku.html
    http://sakuwa.com/ten69.html

    藤原道綱が登場した。登場したというか、道綱が病気になったので、道長がお見舞いの使者を送ったという話が出てきた。
    あとでまた道綱が登場することもあるかな?
    御堂関白記は蜻蛉日記のだいたい40年後くらいか。
    藤原道綱の母はもう亡くなっているだろうな。

    異母兄弟と同母兄弟では、同母兄弟の方が仲が良いのかなと思っていたけれど、道長の場合は同母兄の道隆や道兼よりは、異母兄の道綱のほうが道長は親しくしていたらしい。

    「藤原兼家にとってはさして重要もない妾腹の息子でしかなかった道綱は、兼家の正妻腹の息子たち――道隆・道兼・道長――のように兼家の後継者となることを望める立場にはなかったために、かえって道長から信頼されていたのかもしれない。」p.248

    般若寺
    http://www.hannyaji.com/omamori.html
    藤原道綱の母が籠った寺。
    近くを流れる鳴滝川というのが、蜻蛉日記で兼家が大勢を引き連れて藤原道綱の母を連れ帰った際の、印象的な川のシーンの舞台かな?

    一条天皇がまだ生きているのに退位して、前の年の人事異動で藤原道長の意に沿わないことをしたので退位させられたのかと思ったけれど、そういうことではなく、一条天皇が重い病にかかって回復が見込めなかったために、急遽皇太子が天皇となり、一条天皇を上皇としたということらしい。
    天皇が死ぬよりは上皇が死ぬ方がいくらかマシというのは、現代と似ている発想だ。

    一条天皇の辞世の句は、人によって定子を想ってのものだとか、彰子を想って歌ったんだとか、当時の人の中でも意見が割れていたらしい。
    人として当然の愛情も、死に際の言葉さえ政争の道具にされてしまうなんて、恐ろしい立場だな。

    そして一条天皇のあとに即位した三条天皇に対しても、道長は次女の藤原妍子(けんし、きよこ)を入内させる。
    しかし、妍子の御所である東三条殿の井戸から呪物が発見されるなど、道長も絶対的な権力に安住できたわけではなかった。
    それに、三条天皇は藤原娍子(すけこ)という女性と20年ほど連れ添っており、道長の次女との結婚を歓迎していなかった。

    道長と三条天皇との不仲は誰の目にも明らかで、三条天皇は数年でその座を追われて、まだ11歳だった後一条天皇が玉座につくことになる。

    「王朝時代の貴族層の人々にとっては、先例というものこそが、最も権威のある行動規範であった。そして、それゆえに、彼らは日記を書くことを習いとしたのである。 」p.298

    https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000101261
    九歴

    「寛弘二年(一〇〇五)あたりに初めて彰子のもとに出仕した紫式部は、どうやら、少なくとも長和二年(一〇一三)の途中くらいまでは彰子家の女房であり続けたようなのである。残念ながら、現存する『紫式部日記』には、右の火災をめぐる記述は全く見られないのだが、もしかすると、これは、かなり忠実な臣下であった紫式部が、主君の彰子の気持ちに配慮して、火災に関する記録を意図的に湮滅した結果なのかもしれない。」p.303

    裕福な貴族は自宅の敷地内に僧房を持つことがよくあった。

    藤原顕信 19歳の時に突然出家した、道長の三男。
    https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/gyoganji.html

    平安時代に日記をつけていた上級貴族たちは、基本的に漢文で日記をつけたけれど、どう漢文で表現したらいいかすぐに思いつかない時などは、ひらがなを使って話し言葉で書くこともあったらしい。

    藤原道長は若いころから病気がちだったらしい。
    体があまり丈夫ではなかったのか。いきなり親近感を抱いてしまった。

    平安時代に陰陽師たちが作っていた暦は、現代の感覚だと想像できないほど、不安定で不正確なものだったらしい。

    天照大神は八百万の神々の中でも、ことさらに仏法を忌む神として認識されていた。
    神教と仏教の関係はよくわからないんだけど、神教の神々の中でも仏教に対するスタンスの違いがあるというのは面白いな。

    道長の晩年の日記で、雨が降った日に「尤も感有り。」(かなり著しく反応がある。)という一文が、解説で意味不明だと言われていたけれど、もしかして藤原道長も気象病で、雨の日はすごく眠かったりだるかったり、激しい頭痛が起きるなど、調子が悪くなってしまったりしてたりして。なんとなくそう思っただけで、とくに根拠はない。

    『栄花物語』や『大鏡』も読んでみたらおもしろそう。
    藤原道長の六男(末っ子)の長家は、小さなころから教育に力を入れて育てられたらしい。興味を持ってググってみたら、長家については栄花物語で触れられているらしいことがわかった。

    『権記』藤原行成
    『小右記』藤原実資

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