- Amazon.co.jp ・電子書籍 (215ページ)
感想・レビュー・書評
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日本の子供たちは自主的に下層に向かっている。これを消費者マインドから解き明かします。また、その消費者マインドに迎合する教育機関も批判の標的としている。結果としていわゆる社会的弱者になってしまうわけですが、その弱者が弱者であるのは孤立とも無関係ではないとしてコミュニケーションの大切さを訴えています。苦労して何かを達成する喜びと一見無駄に思えるようなコミュニケーションが人を育てるようです。昭和のように大きな物語(目標)があるとよいのですが、そのあたりの過失感が若い人達を消費マインドに仕向けてる気がします。
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Husの森田くんに薦めてもらって読んだ本。
内田樹という学者を知ることができたのは自分にとって意義があったと思う。
本書の中でもっとも重要でおもしろい論は、子どもたちが学校で勉強することに「等価交換」の考え方を適用しているというものである。
沈黙して先生の話を聞いてノートを取るという「苦役」はいわば「支払い」のようなものであり、それに対してどのようなサービスが与えられるのかを生徒は問うている、という分析は先進的で鋭いと思う。
読んでいて、「教育はサービスではない」という高橋先生の言葉を思い出した。
「どうして教育を受けなくちゃいけないの?」という問いは、「どうして健康で文化的な最低限度の生活を営まなくちゃいけないの?」とか「どうして人を殺してはいけないのですか?」というのと同じで、義務教育の前提としてそんな問いは子どもの側から出てくるはずがないと考えられていた。
著者は、このような問いに対して「勉強すると、これこれこういう『いいこと』があるんだよ」という言い方で子どもたちを誘導しようとする教師には警戒心を抱くと述べている。
「子どもたちにもわかるような答えがなければならない」と考える必要はないし、むしろ答えられない方がまっとうであるというのが彼の主張だ。
「答えることのできない問いには答えなくてよいのです」という言葉には救われた。
教職の授業をたくさん受けて勉強する意味を考え続けてきたけれど、このような答えを示してくれた先生はこれまでいなかった。
「子どもたちは自分が何を習っているのか、何のためにそれを習っているのかを、習い始めるときには言えないのです。言えなくて当然であり、言えないのでなければならないのです」とある。
なぜなら、「その価値や意味や有用性を言えないという当の事実こそが学びを動機づけている」から。
すごい、こんな考え方があるのか!と、僕にとってはまさに目から鱗の一文だった。
何でも彼でも結果をすぐに求めたがる心理はよくないし、学びというのはそういう性質の行為ではないのだとわかった。
「消費者マインドで学校に対峙する」子どもたちにどのような授業をするか。
すごく難しい問題だけれど、内田さんの論を参考にしながら自分なりの答えを探していければいいなと思う。 -
発刊されたのは、15年前とかなり古い
しかし、
学校・子ども・若者・親、取り巻く社会の状況が
どのように変わってきているのか
その原因がどこにあるのか、
深堀りしている
読み進めるほど、
「ああ、あの事象はここに根本にあったのか」
と気付かされる
多くの先生方に読んでほしい
目から鱗の一冊です。 -
消費者思考回路の新人類。学び、労働を"苦役"と捉えるから、即時対価を求める。
でも"学び"ってそうじゃない。学ぶ価値って理解して学べるような浅いものではないのに。自前の定規だけで世界は測れない。
→「○○くれたら漢字練習してあげるね」の発言が出てくる、子どもは学びを嫌々やらされる苦役だと考えているから。
→知らなかったことが分かるようになる、"学び"って楽しいのにな。主体的な学び
→大人になってやる、必要に迫られた"勉強"は学びと違うのか。
→成果を求める訳でなく、ただ好き好んでやる推し活"研究"は少し近いかも。
この世は"贈り物"からスタートしている。既に貰っているから何か返さなくちゃ。
→「欲しいと言ってないのに無理矢理与えておいて代価を求めてくるの理不尽」だそうです、教育の受け手側は。 -
ある経営組織論の教科書の中で紹介されていて手に取った。「自由、自由」と謳いつつ、その「自由」を強要する、ないしは同調させようとするありかたは、いかがなものか。多様性をめぐる主体性の問題もただの自己中心的な主張でしかない。人間はもともと弱い存在であることを認めて、互いの寄り添いながらみんなにやさしい社会にしていきたい。
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p.2022/5/31
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学ばない子どもたち、働かない若者たちが増えているのはなぜか、という問題を筆者の目線で紐解いた本。刊行が2007年なので、最近の状態を反映しているわけではない点、そして、2002年にゆとり教育がスタートするわけですが、その世代にフォーカスが当たっているわけではなく、もっと前の世代も含めて評価している点は、いまこの本を手に取った時の印象と異なりますので、気をつける必要があります。
子どもたちは、勉強しなくなった。かつての日本の子どもは勉強に意欲的に取り組んでいたが、いつしか勉強を嫌悪するようになり、その結果として学級崩壊や学力低下が発生した。そして、その原因として、筆者は経済合理性と消費主体を指摘します。昔の子どもたちは、家でよくお手伝いをしました。それが家庭内での存在価値を高める(=生きていく)すべだったから。お手伝いをすると「ありがとう」、「よくやったね」と褒めてもらえる。自分も家族の一員として役に立っていることがわかります。
それが今はどうでしょう。あらゆる家事労働が、家電のおかげでとっても簡単になりました。そうすると、子どもの手伝いはもはや必要ない。むしろ黙ってYoutubeでも見ていてもらった方が、親としては無駄な仕事が増えなくて済むわけですね。そしてその代わり、消費主体としては早くから一人前になります。日々の生活のほとんど全てがお金で解決しますし、お金さえ払えば、自分が子どもでもなんでも言うことを聞いてくれる。これが、学校に入って教育の「客体」になることが子どもたちには不本意なんだと。
そして子どもたちは、「勉強は何の役に立つのか」を気にするようになります。がまんして机の前に座って勉強するからには、それなりのメリットがなければ割りに合わない、と考える。彼らは、「不快」という「貨幣」を、教師が提供するサービスと等価交換しようと考えます。授業が面白かったり、とてもためになると実感できれば50分授業をしっかり聞くでしょうが、たいていはそう実感できないので、自分の「不快」に見合わないととらえ、授業を聞かずに私語をするようになる。そういう構造があるといいます。
でも、教育というものはそもそも、「教育を受ける時点では」それがなんの役に立つかわからないものです。だってそれを判断する術がないから。「勉強がなんの役に立つか」という問いには、答えてはいけないのです。
また、若者も労働から逃避するようになります。筆者によれば、労働は賃金との等価交換ではなく、労働の一部は共同体への贈り物という形で渡されます。ひとは、すくなくとも大人になる過程で共同体から贈与を受けて生活します。そして、その贈り物は返さなければならない。だから労働をしなければならないのです。他方で、多くの若者は労働についても等価交換を考える。自分の労働に見合った給料がないなら働きたくない、ニートで構わない、となるわけ。実学が好まれるのも同じような理由です。
学びもせず、働きもせず、下流を志向するようになった子どもたち、若者たち。経済合理性ばかり求めていてはダメだよというお話でした。 -
20160529-14
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これは!!すごい衝撃。
少し古い本ではあるのですが、今年のベストか、と思われた「嫌われる勇気」を個人的には上回るぐらいのインパクト。
嫌われる勇気は、自分の思っているようなところに追い風が吹くような印象でしたが、今回は胸ぐらを掴まれて自分の考えを揺り動かされるとううか、実は自分の深いところに根をはっている感覚に向き合わされるインパクトでした。。。「等価交換」これは今の自分の感じている色々の根底を説明してくれる考えです。