下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち (講談社文庫) [Kindle]

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感想・レビュー・書評

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  • 日本の子供たちは自主的に下層に向かっている。これを消費者マインドから解き明かします。また、その消費者マインドに迎合する教育機関も批判の標的としている。結果としていわゆる社会的弱者になってしまうわけですが、その弱者が弱者であるのは孤立とも無関係ではないとしてコミュニケーションの大切さを訴えています。苦労して何かを達成する喜びと一見無駄に思えるようなコミュニケーションが人を育てるようです。昭和のように大きな物語(目標)があるとよいのですが、そのあたりの過失感が若い人達を消費マインドに仕向けてる気がします。

  • Husの森田くんに薦めてもらって読んだ本。
    内田樹という学者を知ることができたのは自分にとって意義があったと思う。

    本書の中でもっとも重要でおもしろい論は、子どもたちが学校で勉強することに「等価交換」の考え方を適用しているというものである。
    沈黙して先生の話を聞いてノートを取るという「苦役」はいわば「支払い」のようなものであり、それに対してどのようなサービスが与えられるのかを生徒は問うている、という分析は先進的で鋭いと思う。
    読んでいて、「教育はサービスではない」という高橋先生の言葉を思い出した。

    「どうして教育を受けなくちゃいけないの?」という問いは、「どうして健康で文化的な最低限度の生活を営まなくちゃいけないの?」とか「どうして人を殺してはいけないのですか?」というのと同じで、義務教育の前提としてそんな問いは子どもの側から出てくるはずがないと考えられていた。
    著者は、このような問いに対して「勉強すると、これこれこういう『いいこと』があるんだよ」という言い方で子どもたちを誘導しようとする教師には警戒心を抱くと述べている。
    「子どもたちにもわかるような答えがなければならない」と考える必要はないし、むしろ答えられない方がまっとうであるというのが彼の主張だ。
    「答えることのできない問いには答えなくてよいのです」という言葉には救われた。
    教職の授業をたくさん受けて勉強する意味を考え続けてきたけれど、このような答えを示してくれた先生はこれまでいなかった。

    「子どもたちは自分が何を習っているのか、何のためにそれを習っているのかを、習い始めるときには言えないのです。言えなくて当然であり、言えないのでなければならないのです」とある。
    なぜなら、「その価値や意味や有用性を言えないという当の事実こそが学びを動機づけている」から。
    すごい、こんな考え方があるのか!と、僕にとってはまさに目から鱗の一文だった。
    何でも彼でも結果をすぐに求めたがる心理はよくないし、学びというのはそういう性質の行為ではないのだとわかった。

    「消費者マインドで学校に対峙する」子どもたちにどのような授業をするか。
    すごく難しい問題だけれど、内田さんの論を参考にしながら自分なりの答えを探していければいいなと思う。

  • 衝撃でした。2007年に発刊された本。自分として、どの立場で読んでいいか右右往左往しながら読みました。(付箋をつけながら読んだら、大変な事に!いっぱいになりました。)
    この筆者が対象としているのは95年頃に中学生だった人たちを嘆いて書いている。つまり、まさに私たちです。私が身勝手で責任を押し付けたがる「自己決定」を押し進めていると。自分の仕事を振り返りながら、そして今の若年層(学生)を考えながらこの本を読みました。そして、大阪にいて感じていた組織、患者層とのギャップもすごく重ね合わせました。個人的な意見も入りながらの感想です。
    かなりのネタバレです。読みたい人はあまり感想を読まないでください。(私のメモです。)

    ■学びからの逃走、というより「不快」のカードをいちばんたくさん切れるメンバーが家庭内のリソース配分や決定に対しての発言権を得ている。(p.67)
    このクレーマーの増加、文句言ったもん勝ちが、行政がらみの不祥事や医療事故を含めて社会システムを崩壊させていく・・・。にらみ合う人々、いつからこんな日本になってしまったの?

    ■自分自身を知るためには・・・(p.84〜)
    知っている人たちにインタビューするわけではなく、自分探しの旅に出る。自分事を全く知らない国へ。「自分探し」というのは自己評価と外部評価のあいだにのりこえがたい「ずれ」がある人に固有の出来事だと言う事が出来る。自己評価の方が外部評価よりも高い人の方が多い。
    「自分探し」という行為が本当にありうるとしたら、それは、私自身を含むネットワークがどのような】構造をもち、その中で私はどのような昨日を担っているのか、という問いの形をとる。
    →今回、UKで私自身を発見しました。たくさん日本の医療、システムにつっこみを入れて頂きました。UKの医療システムの中で働く日本人を見て。自分自身のあり方を考え直し、前に進むpowerを頂きました!やっぱり、こういうやりとりがあって、どの国であっても(もちろん途上国であっても)力をもらえるのがプライマリケアの面白さ。


    ■日本という社会とリスク。リスク・ヘッジ
    日本において思うのは、リスクを背負うということと、リスクの分散化という概念の弱さ。常に失敗しない、常に成功する事だけをみている感じである。ここからは私の感覚だけど、海外旅行するのも同じ。うまく乗り継ぎができなかったり、インフォメーションセンターで下手な英語を使いながらあっちこっちに行って、何とかたどり着く。その過程で学ぶ事、感じる国民性や優しさは掛替えのない感覚。でも、パッケージツアーに入っていたなら、そのツアー会社に文句を言うだけ。リスクヘッジと言えばそうなのかもしれないけど、自分も失敗したのだからという痛み分けはあまりない。私にとっては本当につまらない。
    マルクスが「万国の労働者、団結せよ」と言いましたが、団結って言うのは死語で、支えあう社会をもう一度構築しなければならない。(p.239)
    →団結して弱め合っている組織、そんなの前に向けません!
    これまでの後戻りできないニート諸君はもう仕方がない、・・・、これ以上ニートを増やさないためには、ニートたちに対して「この社会は、みんなお互いに他人に迷惑をかけ、他人に迷惑をかけられてもっているんだ。・・・」と伝えるべき。(p.245)

    ■構造的弱者の誕生(p.125)
    迷惑とかけたり、かけられたりの関係がなくなってきている。だから、高学歴だけど、関係性をもてなかった人がホームレスになったり・・・。誰にも影響しないという生き方はない。自分も迷惑をかけているんだから、他の人の面倒もみるという、昔の持ちつ持たれつという考え方。他人に迷惑を本当にかけない自己責任とは、ホンモノの強者だけ。
    「迷惑をかける相手もかけられる相手も持つ事が出来ない」膨大な数の構造的弱者を造り出しつつある。

    「相対的に出身階級の低い生徒たちにとってのみ、将来よりも今を楽しみたいとい思い、自分には優れたところがある、という自身が強まる。」p.133
    「学力低下は、子どもたちの怠惰の帰結ではなく、努力の結果」p.137
    「日本では、社会的弱者が進んで差別的な社会構造の強化に加担するという四方で階層化が進んでいる。弱者が自分自身の社会的立場をより脆弱なものとするために積極的に活動している」p.146 
    →ここ、かなり納得です。弱いものが弱いもの守ろうとして、より脆弱になってる気がしています。

    今の子どもたちに「教育を受けることは「権利か?」ときくと、90%が義務という。強要されるものといい、その義務に違背することを「政治的異議申し立て」として捉える。
    →たしかに私が中学生だった頃、そうだった気がします。(公立の)学校で教えていることがつまらなく、聞いているのがつまらない人間のように感じていました。教育は義務に感じていました。授業中にわざと漫画を読んだりしていました。高校で進学校に行ってはじめて自分で選んで、高い学費を払ってもらっていると感じ、必死で勉強した覚えがあります。

    ■「学術でも武道でも、何かを習おうとするとき、・・・、誰に就いて学ぶべきか、僕たちはその中から選ばなければならない。でも、僕たちはこれから学ぶ知識や技術についてよく知らない。」(p.178)
    これは今悩んでいる学生、初期、後期研修医に伝えたい言葉。学びたいと思っているんだから、知らなくて当然。目的地もわからない。(だって、9年目の私だってまだ分からないんだから。)でも、面白いことを教えてくれそうという感覚が大事!そして、そこに到達できるかは自分次第。

    ■知性とは、詮ずるところ、自分自身を流れの中に置いて、自分自身の変化を勘定に入れることです。(p.182)
    →学ぶところを楽しめて、一緒に笑って、泣いたりできるところで学びが生まれるのではないでしょうか?(教育なんて、品質保証は出来ない。P.184)(日本は国際規格の五分の一くらいのワークで学士号を乱発している。P.186)

    ■私たちが無時間モデル(=ショートスパンの活動)に魅入られてしまうのは、それが多くの快楽を提供するからです。(p.206)
    →私は、まだここで生きています。この快感で生きている。家庭医として短期間のプロジェクトだけじゃいけないというのも先人の知恵で知っている。でも成長って、測れるものでもない。そして、いつそれが成長につながるかもわからないし難しいところですね。

    ■無限の尊敬(p.218)。
    ここ私のかなり納得ポイントです。
    尊敬できる師は「私は師からこう聞いた。」という。「私はこれこれ、こう思う」とは言わない。私もそういう師を尊敬してきたなぁ。

    ■何かが起きるときのきっかけは、大きなクエスチョンマークなのです。(p.225)
    ここでも言われていますが、教育とか、家庭とかで学ぶことを大きく期待し過ぎなんだと思います。だから、クレーマーもうまれてくる。勝手に放置しすぎたり、学校に期待しすぎたり。どこにクエスチョンマークを感じられるか、すごく大事ですよね!

    やっぱり最終的にはコミュニティー、人付き合い、「あなたが大事だ」というメッセージが大事なのだと感じました。それは、教育、医療なんて枠を超えて。。。

  • 発刊されたのは、15年前とかなり古い
    しかし、
    学校・子ども・若者・親、取り巻く社会の状況が
    どのように変わってきているのか
    その原因がどこにあるのか、
    深堀りしている
    読み進めるほど、
    「ああ、あの事象はここに根本にあったのか」
    と気付かされる
    多くの先生方に読んでほしい
    目から鱗の一冊です。

  • 消費者思考回路の新人類。学び、労働を"苦役"と捉えるから、即時対価を求める。
    でも"学び"ってそうじゃない。学ぶ価値って理解して学べるような浅いものではないのに。自前の定規だけで世界は測れない。
    →「○○くれたら漢字練習してあげるね」の発言が出てくる、子どもは学びを嫌々やらされる苦役だと考えているから。
    →知らなかったことが分かるようになる、"学び"って楽しいのにな。主体的な学び
    →大人になってやる、必要に迫られた"勉強"は学びと違うのか。
    →成果を求める訳でなく、ただ好き好んでやる推し活"研究"は少し近いかも。


    この世は"贈り物"からスタートしている。既に貰っているから何か返さなくちゃ。
    →「欲しいと言ってないのに無理矢理与えておいて代価を求めてくるの理不尽」だそうです、教育の受け手側は。

  •  ある経営組織論の教科書の中で紹介されていて手に取った。「自由、自由」と謳いつつ、その「自由」を強要する、ないしは同調させようとするありかたは、いかがなものか。多様性をめぐる主体性の問題もただの自己中心的な主張でしかない。人間はもともと弱い存在であることを認めて、互いの寄り添いながらみんなにやさしい社会にしていきたい。

  • p.2022/5/31

  • 学ばない子どもたち、働かない若者たちが増えているのはなぜか、という問題を筆者の目線で紐解いた本。刊行が2007年なので、最近の状態を反映しているわけではない点、そして、2002年にゆとり教育がスタートするわけですが、その世代にフォーカスが当たっているわけではなく、もっと前の世代も含めて評価している点は、いまこの本を手に取った時の印象と異なりますので、気をつける必要があります。

    子どもたちは、勉強しなくなった。かつての日本の子どもは勉強に意欲的に取り組んでいたが、いつしか勉強を嫌悪するようになり、その結果として学級崩壊や学力低下が発生した。そして、その原因として、筆者は経済合理性と消費主体を指摘します。昔の子どもたちは、家でよくお手伝いをしました。それが家庭内での存在価値を高める(=生きていく)すべだったから。お手伝いをすると「ありがとう」、「よくやったね」と褒めてもらえる。自分も家族の一員として役に立っていることがわかります。

    それが今はどうでしょう。あらゆる家事労働が、家電のおかげでとっても簡単になりました。そうすると、子どもの手伝いはもはや必要ない。むしろ黙ってYoutubeでも見ていてもらった方が、親としては無駄な仕事が増えなくて済むわけですね。そしてその代わり、消費主体としては早くから一人前になります。日々の生活のほとんど全てがお金で解決しますし、お金さえ払えば、自分が子どもでもなんでも言うことを聞いてくれる。これが、学校に入って教育の「客体」になることが子どもたちには不本意なんだと。

    そして子どもたちは、「勉強は何の役に立つのか」を気にするようになります。がまんして机の前に座って勉強するからには、それなりのメリットがなければ割りに合わない、と考える。彼らは、「不快」という「貨幣」を、教師が提供するサービスと等価交換しようと考えます。授業が面白かったり、とてもためになると実感できれば50分授業をしっかり聞くでしょうが、たいていはそう実感できないので、自分の「不快」に見合わないととらえ、授業を聞かずに私語をするようになる。そういう構造があるといいます。

    でも、教育というものはそもそも、「教育を受ける時点では」それがなんの役に立つかわからないものです。だってそれを判断する術がないから。「勉強がなんの役に立つか」という問いには、答えてはいけないのです。

    また、若者も労働から逃避するようになります。筆者によれば、労働は賃金との等価交換ではなく、労働の一部は共同体への贈り物という形で渡されます。ひとは、すくなくとも大人になる過程で共同体から贈与を受けて生活します。そして、その贈り物は返さなければならない。だから労働をしなければならないのです。他方で、多くの若者は労働についても等価交換を考える。自分の労働に見合った給料がないなら働きたくない、ニートで構わない、となるわけ。実学が好まれるのも同じような理由です。

    学びもせず、働きもせず、下流を志向するようになった子どもたち、若者たち。経済合理性ばかり求めていてはダメだよというお話でした。

  • 20160529-14

  • これは!!すごい衝撃。
    少し古い本ではあるのですが、今年のベストか、と思われた「嫌われる勇気」を個人的には上回るぐらいのインパクト。
    嫌われる勇気は、自分の思っているようなところに追い風が吹くような印象でしたが、今回は胸ぐらを掴まれて自分の考えを揺り動かされるとううか、実は自分の深いところに根をはっている感覚に向き合わされるインパクトでした。。。「等価交換」これは今の自分の感じている色々の根底を説明してくれる考えです。

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著者プロフィール

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。神戸女学院大学を2011年3月に退官、同大学名誉教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。著書に、『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』『街場の戦争論』『日本習合論』(以上、ミシマ社)、『私家版・ユダヤ文化論』『日本辺境論』など多数。現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。

「2023年 『日本宗教のクセ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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