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感想・レビュー・書評
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本書でさまざまな詩が紹介されているが、いわゆる解説本ではない。ましてや読み方を学ぶ「教科書」でもない。現代詩は難しい。しかしだからこそ、その「わからなさ」に惹かれ愉しめるものだと、著者の実体験を重ねておしえてくれる。
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歌人や詩人のコラムが新聞に連載されていて、よく目にして読む。
詩を嗜むことは、とても知的である気がして憧れていたが、誰かの詩に接してともよく分からなくて、気持ちに余裕がなくてじっくり味わえない気がしていた
本書で、その分からなさの理由がよく分かった
そこ分からなさを味わい、楽しむことは、まだできていない
純文学やSFの分からなさは楽しめていると思うんだけどなぁ -
須賀敦子の本を読んでいるときに、生成りのテーブルで、ポロシャツを着てウールのパンツをはき、チーズをナイフで削って食べ、ワインを飲みながら、詩を読むことにあこがれた。誰と?
しかし詩は読めない。ミニチーズや6Pチーズを食べながら食卓で第三のビールを飲んでいる。それでこの本を読んだ。近道はないのが分かった。
サンドロ・ペンナの詩
ぐっすりとねむったまま生きたい
人生のやさしい騒音にかこまれて。
ヴェネツィアの小さな広場(詩華集などから)
ヴェネツィアの小さな
広場は古風で哀しげで、海の
香りを愉しんでいる。また、
ハトの飛翔を。だが、記憶に
残るのはー光のまま
恍惚をもたらしー自転車の
少年がさっと通りすぎ、友に
よびかける、唄に似た空気の
そよぎ。「きみ、ひとりなの?」
(須賀敦子 時のかけらたち サンドロ・ペンナのひそやかな詩と人生)
○詩はよく知らない、自分の守備範囲ではないということで押しとおしてしまいたい。
○ほんとうは詩人だって、人の書いた詩をそんなに「わかって」なんかいないのである。
○詩を読んでそのよさを味わえるということは、解釈や価値判断ができるということではない。もちろん、高度な「読み」の技術を身につけたらそれはすてきなことだが、みんながみんなそんな専門的な読者である必要はないはずだ。
○どんな芸術分野でも、もっとも尖端的なものは、大衆的ではない。多くの人にとって、なんだか理解しにくいものであるのがふつうだ。
○ちょっとした魅力のとっかかりは、無数にある。それはあくまでも「自分にとって」魅力があればいいので、誰にも賛同してもらえなくても、自分だけが発見したその魅力点について考えつめているうちに、もっと普遍的な「読み」に合流していく可能性がひらけている。
○時間をかけて詩を愛しさえすれば、読者はかならずわたしよりもずっといい読みにたどりつくだろう。自分の人生にひきつけて味わうことも、未知の感情を体験してみることも、思いのままだ。現代詩にはそれだけの力がある。
○詩にしたしんでいない多くの人にとっては、そういう「自分がすでに知っている感覚の再現」をしてくれるものだけが「詩」なのかもしれない。
○目指しているものも、ことばの性質も、そして読むときの鑑賞方法も、再現タイプのものとはちがう。まったく別種の表現物といってもいいほどだ。それを穂村弘は、幻の時としての未来と響きあう表現だと言った。
○人間が万能であったら、芸術はうまれないと思う。ひとは完璧をめざして達成できず、理想の道筋を思いえがいてそれを踏みはずす。その失敗のありさまや踏みはずし方が、すなわち芸術ということなのではないだろうか。
○たがいに相手の価値観に沿った行動をとると見せながら、しかし自分に歩み寄ってくれたはずの相手の行為を真向から否定する、絶望的な関係。これをかりに「コミュニケーションの不能」と呼んでもいいかもしれない。
○ある詩が、そのときその人にとって「わかりやすい」ということはつまり、あたまやこころのなかの既知の番地に整理しやすいということである。
○なるべく道を一直線にして、寄り道や袋小路を排除し、誰でもおなじ道をまちがいなくたどれるようにマニュアル化する。そういう行為を、われわれは詩の外であまりにもたくさんこなしてきた。
○どんな芽がいつ出てくるのかをたのしみにしながら何十年もの歳月をすすんでいく。いそいで答えを出す必要なんてないし、唯一解に到達する必要もない。
○いま、いそいで「わかった」と言ってこれを処理することの安っぽさと、「わからない」状態にながく身をおいていることのたいせつさ。「わからない」ことは高貴な可能性なのである。
○強調されるのは「すぐにわかったつもりになるのをやめて、簡単にわかってしまわないようにする」という態度のたいせつさだ。
○「わかる」ものは、安心できて楽だから好き。「わからない」ものは、めんどうだからきらい。それは万人の共有する、揺るぎない価値観ではない。なにごとにせよ、早く決まるのがいいとはかぎらないのだ。
○進んで「わからない」感覚を保持することは決して楽なことではない。
○不確かさ、不思議さ、疑いの中にあって、早く事実や理由を摑もうとせず、そこに居続けられる能力
○日本語は音声言語としてはきわめて貧弱であり、ということは、視覚情報におおきくよりかかった言語なのである。
○安東次男は、「音のない詩」をこころみたのだった。
○詩は朗読されるべきものであり、まず耳にここちよいものでなければならない、という西洋的常識(または日本語において詩歌がすべて「声」であった幸福な時代の常識)を、なにも考えずにそのまま信じている人が多いのではないか。
第一に、日本語はあまりにもかんたんな音韻体系しかもっていない。
第二に、さきにちょっと書いたように、「バラ」と「ばら」と「薔薇」がそれぞれはっきり異なる印象をあたえる表記である以上、これらは詩句としてはそれぞれ異なる単語と考えるべきであるが、それを声に出して読みわける方法がない。
第三に、現代詩ではとくに、文としての整合性がくずれている場合がある。
○詩はことばそのものであり、ことば自体を読むものだ。書いた人の「人となり」を解読するためのものではない。
○詩を書いて生きていくというのは、人から遠く遠くはなれたところに飛んでいき、目のくらむような、光りかがやく孤独を手にいれることなのだろう。
○どれだけものを考えつめたつもりでも、人はその年齢なりのことしか考えられない。あとからふりかえってはじめて、「あのとき」に意味が発生する。だから人はたびたび過去をふりかえり、自分の生きてきた物語を読みなおす必要がある。
○勉強家であり、努力をおしまず、活動的であった。はきはきと意見を述べ、てきぱきと行動にうつす姿がたのもしかった。
○われわれは自分が人間であることにあまりにも自信をもちすぎているので、鏡にうつる自分がとても虫のようには思えないというだけなのである。
○この断絶にすんなり目がついていくようになるには、たくさんの詩を読んで経験をつむしかない。
○センスの問題ではなくて、見る力さえきたえれば誰でも見えるようになる。反対にいえば、見る力をきたえなければ、人はなにものをも見ることができない。
自分というものはそのときどきの環境や立場でいくらでも変わる。
○自分とは相対的なものであり、その場かぎりのものだ。
○詩とは、伝達のためのことばではないもの。「なにかでないもの」という言い方ならばできそうだが、「詩とはこれだ」とひとことで言うことはむずかしい。
○詩は、わたしがまだ知っていない「わたしの感じ方」をつくるきっかけになっている。
○詩は、たぶん、「言いあらわしたいこと」より「ことばの美的な運用」が優先されるものなのだ。
○現在の人類が知っているものごとはかぎられている。いまの人間には知覚できないものが、この世界にはまだまだたくさんあるにちがいない。
○いま人間にできることは、謙虚になるきっかけとしての詩に接することだ。
○自分の思いえがく「自分像」は、かぎりなく白紙に近づく。閉ざされていた自分がひらかれる。 -
2017/2/19