- Amazon.co.jp ・電子書籍 (294ページ)
感想・レビュー・書評
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経済はインセンティブ、トレードオフ、トレード、マネーの4つで理解できる。
「自由貿易の罠」中野
「幸福の政治経済学」ダイヤモンド社
「反知的独占ー特許と著作権の経済学」
ワットは特許を守るための裁判に生涯の大半をついやした。
「危機の宰相」所得倍増計画は計画的ではなかったから成功した。
「通産省と日本の奇跡」
「ゼミナール経済政策入門」
「高度経済成長は復活できる」
「勘定奉行荻原重秀の生涯」新井白石はデフレ政策を行った。
ミルトンフリードマン「貨幣の悪戯」アメリカの金本位制が19世紀のデフレの原因だったのではないか。
「脱デフレの歴史分析」
「貿易政策の破局」
陸軍と海軍は異様に仲が悪かった。海軍は戦車を開発していた。陸軍は自前の艦隊を持とうとしていた。
大分岐がどうしておきたか、は諸説ある。立地、文化、進化論、制度など。制度が主流。
年金制度は1960~1965年生まれを境に損得が分かれる。
金銀複本位制はどちらかに傾く。
幕末の政治的変動は、金銀不均衡を是正するための金改鋳のためのインフレが一因。
フォーティーナイターズは、ゴールドラッシュの1949年が由来。
19世紀のデフレは金本位制が原因。金為替本位制=金本位制の国の外貨準備も金に数える仕組み、でデフレが解消した。
インフレを抑えるには、金本位制にすればよい。
ハイパーインフレのさなかでも、物々交換にはならず、貨幣を使う。
日本人が戦争に突き進んだのは、略奪のインセンティブが強くなったから。満州事変は熱狂的な支持を集めた。閉塞感を打開するのは戦争しかない、という雰囲気。
フーバー大統領は金本位制を守ったため不況を引き起こした。ルーズベルトは金本位制を離脱して景気を回復させた。
日本のオイルショックは原油価格より変動相場制が原因。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
kindle unlimited15冊目
インセンティブは「やりたいという気持ちを引き出すもの」。人間は誰でもやりたいことをやる、これは当たり前です。
スティーブン・ランズバーグ( Steven Landsburg)という経済学者が「経済学とは何かといわれたら、それはインセンティブについての学問だ。あとは付け足しだ」といったという有名な話があります。私は、それは正しいと思います。ただ、インセンティブが本当に問題になるのは、トレード・オフがあるときです。
人間開発指数とは、基本的な人間の能力がどこまで伸びたのかを測るために、「長寿を全うできる健康な生活」「知識」、そして「人並みの生活水準」の達成度から導き出されたものですが、それと GDPもやはり正の相関を示しています。
スミスは『国富論』のなかで、いろいろな国民の富、豊かさについて語っていますが、彼は「人間は誰でも同じだ」と想定します。例えばハイチの人間であっても日本人であっても、インセンティブを持つことにはなんら異なるところはない、と考えたわけです。 では、ハイチと日本では何が違うのか。 それは制度が違う。だからうまく繁栄につながるような制度をつくればいいというのが、アダム・スミスの議論の根幹です。これは、スミス以後の経済学者のなかでかなり根強い考え方です。
ミルトン・フリードマン( Milton Friedman)という経済学者は「首尾一貫した自由主義者は無政府主義者ではない」という言い方をしています。フリードマンは徹底した自由主義者のように思われていますが、だからといって政府の役割を無視しているわけではありません。彼の『資本主義と自由』(日経BP社)には「政府はどういう役割をなすべきか」ということが書いてあります。自由を貫く人も、統治機構なしで過ごすことはできません。 例えば、「所有権の維持」には、法制度の整備や維持が必要です。ルールをつくって、それを守らせることが必要になる。 政府が必要なもう一つの理由は、「市場の失敗」があるからです。市場が失敗するというのは、完全に市場に任せるとうまくいかないことがある、ということです。
よくある誤解に「経済学は企業や資本家を擁護している」というものがあります。この誤解だけは解いておく必要があります。 経済学が擁護しているのは、企業でも資本家でもありません。経済学が擁護しているのは、自由で競争的な市場です。
幕府は発展促進的ではなかった、にもかかわらず江戸時代は発展した。その要因は何か。 いろいろと議論はありますが、一つは「パックス・トクガワーナ」とでもいうべき、徳川統治による平和です。やはり内乱、殺し合いをしていなかったというのが非常に大きい。そうすると、「他人から奪う」インセンティブは後退して、他人から奪わないほうがいいという世界になるわけです。
徳川家康は、たしかに無類の利己主義者で、自分にいいように見事に江戸幕府という制度をつくった人です。身分社会ですから、庶民が豊かになることに対してはものすごい嫉妬、警戒心があったのかもしれません。けれども、いくつかいいこともあった。さきほどいったような意図せざる低税率もあったし、各藩の自治もありました。その限りにおいては、各藩は良い政策をとることができたわけです。 そうやって江戸時代は発展したわけですが、その原因は先にも述べたとおり、一つは平和が長く続いたこと。略奪が横行するような無法な社会ではなかった。もう一つは税制がある意味では歪んでいた。意図せざる結果として非常に低い税率になっていた。
イノベーションが不確実だということは、予測が難しいということでもあります。となると、政府がそういうものをうまく促進しようとしても難しいことになります。
インフレ率が沈静化し、税率が減少し、闇為替市場の交換レートが正式なものに収斂していく形で消滅していく。為替市場では、固定相場制(後述)を採用すると闇市場ができてしまう。かつて一ドル =三六〇円の固定レートのときは、とてもじゃないけどドルが買えない、だから「闇ドルで留学した」なんていう回想がいろいろなところで出てきます。日本ではもう時効でしょうが、そのような闇の為替市場が消滅していきます。
何が経済成長をもたらすのかは依然として謎です。「してはいけない」ことのリストはある程度までわかっていますが、「これをすべし」という処方箋を出すたびに、新しい問題が生じる。「インセンティブやトレードを妨げてはいけない」とはいえても、そこから何をどうすれば良いかは、それぞれの国の置かれた状況によります。 インセンティブといっても経済的なものだけではなく、道徳的なもの、社会的なものも含まれます。インセンティブが一筋縄ではいかないことこそが、経済学のアルファでありオメガです。経済学はインセンティブに始まってインセンティブに終わるということかもしれません。
私が非常に尊敬する日本の思想家に、石橋湛山という人がいます。彼は「小日本主義」ということをいいました。植民地や属領をたくさん持つと、維持するのにお金がかかる。だから損得計算をすると植民地を持たないほうがいい。彼は戦前からこういい続けていました。
経済学者の言い分については、飯田泰之さんと岩田規久男先生が書かれた『ゼミナール経済政策入門』(日本経済新聞社)という本が参考になります。
産業政策は効果があるのかないのか。いろいろな意見を挙げておくことにしましょう。 まずはさきほどの三輪芳朗さんです。 J・マーク・ラムザイヤー( J. Mark Ramseyer)というハーバード大学の研究者との共著で『産業政策論の誤解――高度成長の真実』(東洋経済新報社)というそのものズバリの本を出されています。 非常に大部の本ですが、要点をまとめるとこのようになります。 ①「産業政策」を実施したとされる官庁には、民間経済に影響を及ぼす有効な政策手段が欠落していた。 ②例外的に有効な手段を有していた場合にもその行使には慎重であった。 ③スローガンは多数あったものの、それらを実現するための明確かつ具体的な政策手段を欠いていた。 ④産業政策を実施しなかった日本は、ほかの先進諸国と同様である(民間経済主体に対して介入的な政策を行わなかった点において、日本とほかの先進諸国のあいだに違いは存在しない)。 ⑤産業政策が有効に機能したという通念は明確な根拠を欠くものである。 これは「産業政策神話」の全否定ですね。産業政策そのものがなかった。やろうとしたのかもしれないが、やっていない、という説です。
保護が高いところはじつはあまり成長していないという傾向です。グラフにしてみると、そのような傾向が出てくる。政策で介入した産業のほうが、むしろ成長していないのではないかと考えられます。 さきほど、「市場の失敗」の三番目として、衰退している産業ほど手厚く保護する、というのがありました。たしかにそのような傾向はこの図からも見え、繊維と鉱業がその典型です。つまり、そのような所得再分配的な産業政策はやっていましたが、産業育成はやっていないのではないか、という印象を受けます。
田中角栄の下でどういうことが起きたのか。 有名なのは「日本列島改造論」です。日本列島全体を再分配の国土にした。 本格的な福祉国家を誕生させたのも田中角栄です。一九七三年に田中角栄は「福祉元年」を謳いました。国民年金が今のような仕組みになって整備されていくのが、この時代です。今の再分配政策の源流をつくった人だといえます。七〇歳以上の高齢者の老人医療費を無料にしたり、健康保険被扶養者の給付率を引き上げたりもしました。 田中角栄は三三本の議員立法を提出しました。今でも破られていない最多提出本数記録です。その結果が工場等制限法、工業等制限法であり、全国総合開発計画、道路特定財源制度です。官公需法、大店法、生産者米価が形づくられたのも、田中角栄のときです。
鈴木亘さんの『だまされないための年金・医療・介護入門』(東洋経済新報社)では、これらのことが図できちんと詳しく説明されています。そこでははっきりと「積立方式に移行せよ」と述べられています。ただし、積立方式に移行するときには追加の財源が必要かもしれないから、そこは財源措置が必要になります。だからどこかで何らかの負担をしなくてはいけない。
国際通貨制度とは、日本ならば円という貨幣を、ドルなど外国の貨幣と交換するときの仕組みのことです。
国際通貨制度の変遷は、基本的にはつぎの三つの要素をどうやって結びつけるかの歴史です。 一つ目の要素は「資本移動の自由」です。
二つ目は「固定相場」です。 最近の円ドル相場は、一ドル =八〇円前後で変動しています。ときにはこの相場は大きく変わります。つまり日本は変動相場制なのですが、それに対して、常にレートを固定しておくのが固定相場制です。日本でも昔は一ドル =三六〇円とレートが決まっていました。
三番目が「物価の決定」です。 これは「独立した金融政策」といい換えることができます。国内の物価は、さきほどの貨幣数量説に従えば、中央銀行か政府が決めることになります。
このように、三つのことすべてを同時に実現できないことを「トリレンマ」といいます。二つのことを同時に実現できないことを「ジレンマ」といいますが、三つの場合は「トリレンマ」というのですね。
固定相場と資本の移動を結びつけると、物価の決定はできません。逆にいえば、物価を固定させると、対外的には変動為替レート(変動相場)になります。 物価と対外的な為替レートを一定にするためには、資本移動を制限しなくてはなりません。国の間でお金のやりとりがあると、為替市場での取引が生まれ、お金の価値が上がったり下がったりして、一定ではなくなってしまうからです。その結果、物価の決定はできなくなってしまいます。 固定相場制と物価の決定を選べば、自由な資本移動は認められなくなるし、自由な資本移動と物価の決定を組み合わせると、為替は固定できなくなるわけです。
金本位制は、「資本移動の自由 +固定相場制」の仕組みです。そのつぎにやってくるブレトン・ウッズ体制は「固定相場制 +物価の決定」です。そして現在は「資本移動の自由 +物価の決定」です。 この三つを一巡したのが、現在までのおよそ一三〇~一四〇年の歴史です。
デフレが終わったあとの物価上昇率は、年平均二 ~三%でした。 さきほど「三%」というのは不思議な数字だという話をしましたが、だいたい成功した政策下では、物価上昇率は二 ~三%に収まっています。
エコノミストの安達誠司さんが、『脱デフレの歴史分析』(藤原書店)で、新井白石のことをまさにそのように描いています。 安達さんが注目しているのは、新井白石から現在の構造改革路線に至るまでの、一種の日本的共通感覚です。例えば、私たちは金融のことをいつも「虚業」と呼びます。マネーといえば「マネーゲーム」であり、「リアルとは違う何かなのだ」というような思考のパターンがあるのではないか。「名目値」というと何か「見せかけでウソモノ」であり、「実質値」こそが「リアルでホンモノ」と思ってしまうのかもしれません。でもじっさい、「名目値」と「実質値」はお互いに独立しているのではなく、マネーから独立したリアルな世界が存在するわけでもありません。マネーが「名目値」を変えると、それは「実質値」も変えうるのです。「名目値」は「実質値」と同じか、それ以上に経済においては大きな意味を持つのです。 ある種の学問は、マネーとはリアルとは違う何かなのだ、というような思考パターンを強化しているかもしれない。だから私は「人文系」という言い方をしたわけです。新井白石は儒学者でしたから、もしかしたら儒学にもともとそのような伝統があり、それが日本人向けにアレンジされている可能性もある。
ハイパーインフレ」とはどういうものでしょうか。 学術的には、大まかな定義が一つあります。それは、物価上昇率が月率五〇%以上というものです。月率五〇%というのは、月のはじめに一〇〇円で買った大福が、月の終わりには一五〇円になっているということです。「なんだ、一・五倍か」と思われるかもしれませんが、累積すると、年率では一三〇倍になります。
二〇〇五~〇八年のジンバブエでのハイパーインフレは、自国通貨の流通をやめてしまったという点で、大変ユニークです。これまでのハイパーインフレの最高記録は第二次大戦後のハンガリーとされていますが、それに近づくほどの勢いでした。とはいえ、最後は政府が猛烈な安定化政策をとり、アメリカドルしか流通しないように変えてしまいました。ジンバブエ中央銀行は、当然アメリカドルは刷れないので、ハイパーインフレが止まったわけです。 現在、ジンバブエは、ややデフレぎみです。ハイパーインフレだったのがデフレになっているのです。ジンバブエでは政変が起き、ムガベという大統領が権力を一部譲ることになって、今は多少落ち着いています。けれども、まだ自国通貨が流通していないといいます。
ハイパーインフレは必ず終わります。貨幣の供給量が増えていても、ハイパーインフレは鎮圧できます。 ドイツの例が興味深いのは、レンテンマルクに切り替えてマネーを増やしたにもかかわらず、ハイパーインフレ自体は終わったことです。 だとすると「これは貨幣数量説と違うのではないか」と思うかもしれません。けれども、貨幣数量説のところで、現在の数量だけではなく、将来にわたる数量が大事なのだと説明したことを思い出してください。貨幣数量説にも、基本形と改良版があるようなものです。いつの時点での貨幣の量であるかが大事になります。そこが重要なところです。 金本位制に入ると、将来の貨幣供給を増やすことができない。少なくとも「簡単には増やせない」ということが、みんなにわかってしまう。そう理解されることが、効くのです。「もうこれ以上マネーは増えないだろうな」とみんなの気持ちが変わる瞬間、それが、ハイパーインフレが鎮圧される瞬間です。 重要なのは、ハイパーインフレの最中でも人は貨幣を使うということです。 図 19の写真は、ワイマール共和政時代のドイツがハイパーインフレになったとき、人が買い物をするために貨幣を運んでいる様子です。図 20の写真は、ジンバブエです。「ハイパーインフレの最中でも、人間は貨幣を使う」というのは非常に重要です。
通貨の価値を切り上げるというのは、普通にいえばデフレにすることを意味します。通貨の価値が上がるのは、通貨で買えるモノやサービスの価値が下がることを意味するからです。そうなると、大恐慌の直前にデフレ政策が採られたことになり、不況のときに不況政策を断行した、という
安達誠司さんの『脱デフレの歴史分析』には、この時代には三つの「レジーム」――体制構想があったと書かれています。 一つは浜口・井上のワシントン・レジーム。対英米国際協調路線です。そのなかには、グローバルスタンダードである国際金本位制への復帰も入っていました。だから、そこでは政治と経済が非常に密接に結びついていました。これは、財界整理による「構造改革」路線でもあります。 二番目は、石橋湛山の「小日本主義レジーム」。植民地を保有していても得ではないので放棄する。変動相場制、自由貿易志向の体制です。 三番目は「大東亜共栄圏レジーム」。革新官僚とか統制派の軍部がこれを支持します。アジアの盟主日本として君臨し、経済を統制するという体制です。
是清が蔵相を勤めたのは、一九三一年 ~三六年の約四年間です。三六年の二・二六事件で殺されるからです。在任中の実質成長率は七%、インフレ率は二%くらいですから、これらを合わせた名目成長率は九%でした。これはものすごい成果です。 この仕組みがうまくいったのは、最初に日銀は国債を引き受けたけれど、インフレ率が上がりすぎないように、適度に国債を売ったりして貨幣供給量を調整したからです。 また、最近の井出英策氏(慶應義塾大学教授)の研究でも明らかになっているように、国債の直接引き受けは高橋是清の独創ではなく、それ以前から大蔵省・日銀の事務方では検討されていた方法でした。けれども、このデフレ不況から離脱するというタイミングで用いたのは彼の功績でした。
七〇年代の大インフレの主因は石油ショックの影響ではなく、金融を緩和しすぎた結果だといわれています。 固定相場制から離脱しているので、金融政策には自由度がある反面、タガもはまっていません。インフレの鎮圧には苦労するわけです。
ブレトン・ウッズ体制のような仕組みでは、ドルのような基軸通貨が非常に重要になる。金と交換できるのはドルだけだからです。しかし今の変動相場制の世界では、はたして基軸通貨に意味があるのでしょうか。 変動相場制の世界では、ドルだろうがユーロだろうが関係ありません。「基軸通貨」という言葉を好んで使われる方々の〝誤解〟は、ブレトン・ウッズ体制のようなものを頭に置いているために生じているのではないでしょうか。
九〇年代以降のキーワードは大きく二つあります。 一つは、一九八七 ~二〇〇六年の FRB議長である、アラン・グリーンスパン( Alan Greenspan)です。 今でこそ批判されることが多い人物ですが、当時は「天才」と呼ばれ、少なくとも在任期間中の実績はたいしたものです。彼の政策が、リーマン・ショック以降の経済危機に影響を及ぼしているのかどうかは、まだ議論が続いていてよくわかりません。 グリーンスパンの全盛期に、英『エコノミスト』誌が、彼をライフガード風にコラージュして表紙にしたことがありました(図 23)。どこかに何か危険があれば、グリーンスパンが駆けつけてくるということです。「天才」であるグリーンスパンは、自らの裁量だけで金融政策を打っていたのでしょうか。 独立してまったく自由にやるのはまずい、何かの安定性が必要だ、という考え方があるなかで、彼は「テイラー・ルール」という暗黙のルールに従っていた、といわれています。このテイラー・ルールについては、ここでは詳しく説明しませんが、何らかの暗黙のルールを使っていたといわれている、ということは頭の片隅に入れておいてください。 けれどもそのルールから、グリーンスパンはしばしば乖離してもいます。当時のアメリカは、やはりもっとも自らの裁量を残したい国でした。だから「グリーンスパン本位制」といって絶賛する人もいたぐらいです。 もう一つのキーワードは「インフレ目標」です。 アメリカと日本を除くと、変動相場制の下で各国が採ったのは、インフレ目標政策です。最初はニュージーランドという非常に小さな国の中央銀行から始まり、現在では先進国の大部分と開発途上国の一部で使われ、良好な成果を上げたといわれています。 さすがに経済危機のあとでマイナス成長になっていますが、政策採用から経済危機になるまでは、どの国も実質的にマイナス成長はなかったので、驚異的だといわれていました。
大不況から、私たちは何を教訓として学ぶべきでしょうか。 第一に、デフレの懸念を伴う不況に見舞われたとき、その原因がなんであれ、やるべきことは決まっている、ということです。 具体的には、マクロ政策の自由を手に入れて、拡張的なマクロ経済政策を発動することです。ことに変動相場制の国にとって重要なのは金融政策です。国によって政策の強さが違えば、それはパフォーマンスの違いとなって表れます。ただし、回復を見きわめて出口戦略を採るのはとても難しい。だから、この部分はまだ議論が続いています。 第二に、危機の連鎖に注意することです。 危機がやってくると、既存の体制や政策の考え方に批判が集まります。これは当然のことでしょう。しかし、そうなると、これまで自分たちの意見が受け入れられなった人々が、自分たちのアジェンダを推進する機会ができます。危機はチャンスという言葉がありますが、自分たちのやりたいことを実現するチャンスとして、いろいろな政策が実現したり、一番極端な場合は、既存の体制そのものが崩壊したりします。そうやって実現する政策が、今度は別の政策への道を開きます。
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科学的でないにもかかわらず科学を装う、いわゆる"ニセ科学"に関する問題を整理したもの。
ニセ科学なんてのは笑い飛ばしてるくらいがちょうどいいと思うのだけど、それが政治や教育にまで浸透し社会に影響を与え出すのなら、さすがにそれはまずい。
実際、一流大学を出て有名企業でそれなりのポジションについてるような人であっても、義務教育レベルで眉唾とわかるニセ科学に嵌ってる姿はしばしば見受けられるわけで(Facebookとかでもよく見るよね)。そうなると、それはもう個々人の知識の有無の問題ではない。
ニセ科学に対して我々はあるいは科学はどう対応すればいいのか、というのはけっこう難しい話だ。