非常に深みのある金言が並ぶ書であった。
江戸時代の平和ボケした武士たちに対し、
襟元を正させるような1冊であったのだと思った。
しかし少々難解ではあるので、
現代人に響く物言いに言い換えることで
さらに価値は増すと思った。
下記に特に刺さった部分を引用する。
p.97
武士のあり方を一言で言うならば、まず第一に、自分の身命を惜しみなく主君に差し上げるということが根本である。このうえで何をするかというと、身を修めて智・仁・勇の三徳を備えることだ。三徳兼備などというと、普通の人間にはとてもできないことのように思われるが、難しいことではない。
智とは、人と相談するだけのことである。これが計りしれない智なのだ。仁は、人のためになることをすればよい。自分と他人を比較して、いつも他人が良いと思うようにしてやりさえすればそれですむ。勇は、歯をくいしばることだ。前後のことを考えないで、ただ歯をくいしばって突き進んでゆくまでのことである。これ以上立派なことは考えられない。
つぎに、外見のことを言うと、風姿・言葉遣い・筆跡が大切だ。しかし、これは日常のことであるから、ふだんよく稽古をすればできることだ。全体として物静かであるが強さがにじみ出ているように心得ることである。こうしたことが身についたならば、お国の歴史や伝統などの学問をするように心がけ、そのあとで気晴らしに諸芸を習ったらよかろう。よく考えると、奉公など難しいものではない。いまの時代、少しお役に立つ人というのは、外見上の三ヶ条が身についた者であって、それ以上の者はない。
p.98
「大器晩成」ということがある。二十年も三十年もかかって仕上げるようでなければ、大きな功績はなしとげられない。
奉公についても同じことで、自分の功を急ぐ心があるときは、自分の役目以外のところまで首を出して、若いがなかなかやり手だなどと言われると、ますます調子に乗って無作法になり、いかにも得意気に敏腕家ぶっているうちに、追従・軽薄の気持ちも出てきて、人から軽蔑されるようになる。修行をするには苦労をして、立身するには他人から引き立てられるような者でなければ役に立たない。
若いうちから立身してお役に立っても、立派な仕事はできないものだ。どのように聡明な生まれつきであっても、若いうちはその才能も十分に実らず、他人も信用しないのである。五十歳ごろから、ゆっくりと才能を磨き上げたのがよい。そのようにしている間は人々の目には立身が遅いと思われるくらいの人が立派な仕事をしているのである。また、そうした人は失敗して家を傾けるようなことがあっても、自分のために不正を働いたのではないから、すぐに立ち直るものだ。
p.104
恋の悟りの究極は忍ぶ恋である
p.108
才能-十のうち三つか四つは「しまっておく」
p.145
人よりすぐれた境地を得ようとすれば、自分のすることについて、他人の意見を聞くことである。一般の人は、自分の考えだけで動くから、一段高いところに到達できない。人と相談する分だけが一段高くなるところだ。ある者が役所の書類について私に相談された。彼は私よりも立派に書き調える能力を持った人である。人に添削を頼むところが人よりもすぐれているのだ。
とくに大事な相談事は、関係のない人とか、世間を捨てた出家などに、こっそりと批判してもらえばよい。誰の味方でもないから、よく道理が分かるものだ。同じ組の者たちに相談すると、自分の利益を考えて発言するものである。これでは役に立たないということである。
p.147
己のわずかな知恵だけで万事を行うから、すべてが私心となって天道にそむき悪事をなすのだ。
p.148
たとえば、大木に根がたくさん生えているようなものであり、いかにも安定している。一人の知恵は、ただ突っ立っている一本の木のようなものだ。不安定このうえもない。
p.148
せっぱつまって、他人に相談もしていられないとき、よい判断を下すには、四誓願に引き合わせてみると、自然にそれが浮かんでくるものである。それ以上に出ようとは思わぬことだ。
p.196
ある剣の達人が老後に次のようなことを申されたそうである。
「人間一生のあいだの修行には順序というものがある。下の位は、修行してもものにならず、自分でも下手と思い、他人も下手と思う。これではものの役には立たない。中の位は、まだ役には立たないが、自分の不十分さがよく分かり、他人の不十分なところも分かるものである。上の位は、すべてを会得して自慢の心も出て、人が褒めるのを喜び、他人の十分でないところを嘆くという段階である。ここまでくれば役に立つ。その上の上々の位になると、知らぬ顔をしている。しかし、他人も上手だということをよく知っている。だいたいはこの段階までである。
この上をさらに一段とび越すと、普通では行けない境地がある。その道に深く分け入ると、最後にはどこまで行っても終わりはないということが分かるので、これでよいなどと思うことができなくなる。自分には不十分だということを深く考えていて、一生これで十分だと思うこともなく、また自慢の心も起こさず、卑下する心もなく進んでゆく道である。
柳生殿は『人に勝つ道は知らず、われに勝つ道を知りたり』と申されたそうである。今日は昨日より腕があがり、明日は今日より腕があがるというふうに、一生かかって日々に仕上げるのが道というもので、これも終わりがないのである」
p.198
立派にやってのけたと思うと間違いができる。努力は一生だと考えられよ