ワーニャ伯父さん/三人姉妹 (光文社古典新訳文庫) [Kindle]

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  • 【はじめに】
    村上春樹の短編集『女のいない男たち』に収録された『ドライブ・マイ・カー』を原作とした映画『ドライブ・マイ・カー』の中で主人公が演出家として上演するのがこのチェーホフの古典『ワーニャ伯父さん』。カンヌ映画祭で脚本賞を獲得した世間での評価も高いとても素敵な映画だったが、その中で印象的な形で使われていたこともあって読んでみた。

    戯曲として舞台上で役者によって演じられるセリフが書かれているので、慣れないからか最初は捉えにくい印象が続いた。誰(どのような立場の人物)がそのセリフをしゃべっているかがわからないのである。ロシア語の登場人物の名前が覚えられないという点もあったかと思う。実際に動く人がこのセリフを話しているとずいぶんと違う印象にはなると思っている。
    一方で解説で主人公が存在しない劇であるという評価もあり、誰に感情移入すればよいのかも明確でないところも最初のとっつきにくさがある原因ではなかろうかと思われた。

    【概要】(ネタバレ注意)
    ロシアの田舎町で亡くなった妹の夫で、引退した教授セレブリャコフの面倒を見るワーニャは、過去には崇拝していた教授への幻滅と将来の希望のなさから荒んだ気持ちを持て余している。教授の年若く美しい再婚相手のエレーナに恋心を抱きながらも体よく断られる。教授の担当医アーストロフもエレーナに恋心を抱いているのだが、その担当医にはワーニャの姪のソーニャが恋をしているという関係。
    これまで不満を募らせてきたセレブリャコフの言葉に切れたワーニャが暴れて発砲騒ぎを起こして最後はワーニャとソーニャを残して皆がばらばらになるという粗筋。

    【所感】
    暗い話である。そしてまず、この劇の観客として想定されていた当時のロシアの上流層は、神様の存在をどこまで信じていたのかが気になるところ。そして、チェーホフ自身がどこまで神を信じていたのか。なぜならそれによってこの戯曲がどのように受け止められたのかが大きく変わるような気がするからである。

    最後にソーニャがワーニャに対して語る次のセリフ。これが神の存在を信じていればこそ何かの救いのように聞こえるが、神の存在を信じないものにとっては最後の最後まで救いのない悲喜劇となると言ってよいのではないか。

    「ワーニャ伯父さん、生きていきましょう。長い長い日々を、長い夜を生き抜きましょう。運命が送ってよこす試練にじっと耐えるの。安らぎはないかもしれないけれど、ほかの人のために、今も、年を取ってからも働きましょう。そしてあたしたちの最期がきたら、おとなしく死んでゆきましょう。そしてあの世で申し上げるの、あたしたちは苦しみましたって、涙を流しましたって、つらかったって。すると神様はあたしたちのことを憐れんでくださるわ、そして、ワーニャ伯父さん、伯父さんとあたしはうれしくなって、うっとりと微笑みを浮かべて、この今の不幸を振り返るの。そうしてようやく、あたしたち、ほっと息がつけるんだわ。伯父さん、あたし信じているの、強く、心の底から信じているの・・・。そうしたらあたしたち、息がつけるの!」

    「的を外し続ける」 ― それが、自分がこの戯曲をまとめる表現として浮かんだものである。ワーニャのエレーナへの恋心はまったくかすりもせず、ソーニャのアーストロフの恋心も一顧だにされず、そのアーストロフのエレーナへの思いも実る希望もない。ワーニャのセレブリャコフへの長年の崇拝や行動は、ワーニャ自身によって今では否定されており、セレブリャコフにはおそらくワーニャが思うほどには届いていなかった。セレブリャコフの土地を売って都会に行くという提案はワーニャを始め誰からも賛同を得られるものではなく、それどころかワーニャの思いを逆なでするものであった。そして、ワーニャがセレブリャコフに向けて放った弾丸が的を外しまくる様子は、「的を外す」というテーマを劇中で象徴するものとしていかにも唐突に導入されたようにも思われた。
    そして、そういった流れの中で最後のソーニャのセリフこそがワーニャに対する慰撫としては大きく「的を外す」もので、およそ多くの人が感じるのと違う意味で最後を締めるに相応しいものにも感じられた。

    ワーニャはかつてセレブリャコフを神様のように崇めて、その末に崇める価値がないと悟って絶望していた。崇める価値がないと知らなければよかった。そうすればこんなに苦しむこともなかった。さらにはセレブリャコフが彼にとって崇拝の対象から滑り落ちたとしても、神様さえ信じ続けていられれば、人生の価値もそれほど損なわれなかったのではないか。彼の苦悩は、この時代の神の喪失とセットではないのかとも思われるのである。

    その意味で、ソーニャはワーニャの苦悩をまったく「分かっていない」のかもしれない。そしてだからこそチェーホフはワーニャに「このぼくのつらさがお前に分かればなあ!」と言わせたのだ。
    この最後のソーニャの言葉を希望の言葉として聞くのか、ソーニャの無邪気であるがゆえの空疎な言葉として響かせるのかによって、この戯曲から得られる読後感は大きく違うのだろう。自分はひねくれものなのかもしれないが、そういう解釈が成り立つのではと考えて読み解く作業がとても心地よく感じる。それが古典というものなのかもしれない。

    そして、帝政ロシア末期のこの時代において、知識人であるチェーホフはどのように考え、そしてその読者・観客はどのようにこの戯曲を楽しんだのだろうか、ということを改めて知りたくなった。一読して自分が「暗い話」だと感じた以上に複雑でリアルな感情を抱いていたのだろうな。

  • 私も映画を観て読んだ。チェーホフは短編集やサハリン島は読んで好きだったけど、戯曲は初めて。まだ、ワーニャ伯父さん、しか読了してないけども、可笑しくて哀しくて、やっぱり可笑しい。声出して笑うポイントがいくつかあった。

    不憫さでいうと、ぶっちぎりでエレーナ(美人だから故の不幸、カチンとくる事言われすぎ勝手に決めつけられすぎ)、可笑しさでいうと、アーストロフ(豹変www)でした。2人に比べたら、ワーニャもソーニャも普通レベル、インパクト少なめに思えちゃう。(映画の中の舞台では全く違うのだけど)

    信念なんて死んだ文字で、大切なのは仕事をすること(ワーニャのお母さん)、「みなさん、大切なのは、仕事をすることです。仕事をしなくてはなりませんぞ。」(ワーニャに言わせれば、「空のコップから空のコップへ水を移しかえていた」ようなセレブリャコフ)というのを、思い出して、プププと可笑しくなる。明後日に仕事始めを控えた今夜読めて良かった。笑

  • 「ワーニャ伯父さん」、良かった。テネシー・ウィリアムズの戯曲を読んだ時のような、明るい話ではないのだが、しみじみ心慰められる感じ…。これは戯曲の特性なのか、そういうわけでもないのか。その時スポットが当たっている人のそれぞれの哀しみ、喜びに順繰りに心を寄せられる独特のライブ感があるというか。「中年の憂鬱」に触れた解説も良かった。『ドライブ・マイ・カー』、演劇の場面だけでも観なおしたいな。
    「三人姉妹」はいずれ読む(数ページ読んだものの登場人物の名前を覚える自信が持てぬまま新しい本を何冊も買ってしまったので…)。

  • なかなか難しい。
    村上春樹「ドライブ・マイ・カー」で重要なコンテンツとして扱われていたので読んだ。
    人それぞれの想いや思惑があり、ぶつかりあう。
    映画「ドライブ・マイ・カー」でも、人それぞれは理解しあうことができないが、それでも生きていかねばならないといった問題が扱われていたが、それはこの戯曲にも呼応している。だからこの本が選ばれたのだろう。

  • 『ドライブ・マイ・カー』で使われていたので読むことにした。
    登場人物の名前がまったく覚えられず、何度も人物表を見返しながら読了した。こんなものも覚えられなくなってしまった自分がちょっとつらくなってきた。
    内容としては、正直直接的なリアリティは感じない。田舎で自称知識人のひとたちが、まわりの無知な連中をちょっと馬鹿にしているようなのは、ちょっといやな感じ。

  • チェーホフの戯曲を初めて読んだ。どうも戯曲は苦手だな。沢山の登場人物が話しているのが頭の中でまとまらず、話の筋が見えにくく、疲れてしまった。有名な世界文学だけど、自分には、今は、合わなかっただけと思おう(苦笑)。

  • ワーニャ叔父さん
    すごい悲劇という訳ではない。結ばれない愛、報われない人生、理解し合えない人間関係。やはり、ソーニャに全てが託されている。彼女も報われないから。

    三人娘
    モスクワという全てをリセットする都市への憧れを胸に、ここで生きていかなくてはならない現実。現実、通説の重みはどこまでも逃げられない。

    この本の解説が凄かった。
    現在の空白、中年文学、ディスコミュニケーションとコミュニケーションへの渇望。チェーホフ恐るべし。

  • かなり久しぶりのチェーホフ。話題の『ドライブ・マイ・カー』の補助作品として予習的に読んだ。戯曲もかなり久しぶりだったし、古典もかなり久しぶりだし。でもよかった。
    ワーニャは精一杯良心的に生きたつもりなんだ。でも不遇でみじめな自分が情けなくて、自暴自棄になってしまった。でも理解者のソーニャがいた。最後のシーンで、不作ワーニャを抱きながらソーニャが「それでも生きるんだ」的なことを言うシーンがよかった。思ったよりも短い作品だったが、そこで終わるところが実存的でよかった。

  • 【オンライン読書会開催!】 読書会コミュニティ「猫町倶楽部」の課題本です
     
    ■2021年10月19日(火)20:30~22:15
    https://nekomachi-club.com/events/7e2ba8ac174d

  • 翻訳違いで二読め。最初は面白さがよくわからなかったが、ちょっとわかってきたかも。解説も充実していて良い。チェーホフは坪内逍遙や森鴎外、二葉亭四迷、夏目漱石などと同時期の作家。安雑誌から文壇へ。サハリン旅が転機となったこと。「閉ざされる」「中心の喪失」。中年文学。「間」の多用。空虚なことば、ディスコミュニケーションの芝居。冷ややかな、醒めた目。短編も読んでいきたい。好きな作家になりそう。この翻訳では、『三人姉妹』のナターシャのフランス語の台詞の訳し方が特徴的だった。こういう、おちょくる感じなのかなあ。あと、古典新訳文庫はみんなそうみたいだけど、呼び名が統一されてるんですね。確かに分かりやすくはある。ただ、これ誰だっけー?と人物表をめくりながら読むのもそれはそれで良いものだからなあ(笑)

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著者プロフィール

一八六〇年、ロシア生まれ。モスクワ大学医学部を卒業し医師となる。一九〇四年、療養中のドイツで死去するまで、四四年の短い生涯に、数多くの名作を残す。若い頃、ユーモア短篇「ユモレスカ」を多く手がけた。代表作に、戯曲『かもめ』、『三人姉妹』、『ワーニャ伯父さん』、『桜の園』、小説『退屈な話』『六号病棟』『かわいい女』『犬を連れた奥さん』、ノンフィクション『サハリン島』など。

「2022年 『狩場の悲劇』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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