テロルの決算 [Kindle]

著者 :
  • 文藝春秋
4.17
  • (9)
  • (16)
  • (4)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 141
感想 : 11
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・電子書籍 (332ページ)

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 『危機の宰相』に続いて対をなすように読みました。『危機の宰相』は1960年の奇跡の成り立ちを描いてるとしたら『テルロの清算』は悲劇の完成がテーマです。
    そして2作品を通して感じることは時代という時間の流れが持つベクトルとそのベクトルが変化する特異点の存在。俯瞰しないと確かめることができないそのベクトルと特異点に作用するのは小さな個人のエネルギーでした。ある個人のエネルギーが最大化するとき、もう一つの個人のエネルギーが消滅する。自然の摂理を証明していくかのようなノンフィクションでした。
    そして“あとがき”が抜群にいいです!あとがき文学とやらがあったとしたら賞ものだと思います。様々なエピソードをピックアップしてつくりあげて人物像を描く本篇の綴り方は、露骨なメッセージ性や説教臭さを意図的に控えています。だからこそ作者による“あとがき”整理が読後に沁みこみます。文庫版が絶対にオススメです!

  • 運命の瞬間に向かって収斂していく2人のドラマ。
    点が面へと広がりを持つ快感。

  • (2023/154)昭和35年の浅沼稲次郎刺殺事件を、犯人である17歳の右翼少年テロリスト山口二矢と、被害者である社会党委員長浅沼稲次郎の両面から描き切ったノンフィクション。丹念な取材に裏打ちされた描写は両人を細かく描き出し、小説よりも遥かにのめり込む。45年前(1978年)に刊行されたということが全く気にならず、今でも十分読む価値がある。政治的信条は兎も角として、安倍晋三元総理の事件を思い起こさずにはいられない。これは読んだ方がいい。

  • 昭和35年10月に起きた社会党委員長・浅沼稲次郎の刺殺事件。この事件を扱った沢木耕太郎の「テロルの決算」は以前から関心があったが、10年程私の本棚で積読状態だった。今回やっと読み終えた。

    今では風化して、若い世代は全く知らない事件であると思うが、当時は小学生だった私でさえも大きな衝撃を受け、連日新聞に大きく取り上げられていた記憶がある。

    本書では、余り触れられていないのだが、事件の起きた昭和35年というのは、所謂「60年安保」の年であり、日本全体が政治に揺れていた年であった。後に保守の論客となる、江藤淳、石原慎太郎、黛敏郎、浅利慶太までが、「反安保・反政府」を叫んでいた。そして岸信介首相の孫であった安倍晋三が、意味も分からず「アンポハンタイ!」と首相官邸のリビングの中を走りまわっていたという。

    その年の6月の安保闘争で樺美智子さんが死亡し「反安保・反政府」運動はピークに達したが、7月には安保条約の批准をし終えた岸内閣が倒れ、替わって「所得倍増」を掲げた池田内閣が登場し、時代は変わろうとしていた。

    かなり前置きが長くなってしまったが、本書では、そのような政治の季節と呼ぶ時代が変わろうとしていた中で、17歳の山口ニ矢と、61歳の野党第一党の社会党委員長の浅沼稲次郎が、この年の10月に日比谷公会堂でなぜ交錯していくようになったかを、豊富な資料とインタビューによって、二人の人生の軌跡をきめ細かく丹念に、著者特有の硬質な文体で見事に描かれている。

    久々に骨のある本を読んだ気がする。もっと早く読めば良かった。力作である。

  • 沢木耕太郎が描く、1960年。 第一作、危機の宰相、次いで、テロルの決算。17歳のテロリストと61歳の政治家が交錯した、1960年10月12日の出来事。著者は、テロリスト 山口二矢への`想い`を掘り下げつつ、政治家`浅沼稲次郎`の孤独、そして繊細さをも浮き上がらせます。安保闘争はすでに終わり`所得倍増`を唱える池田内閣が力を持ち始めた時代を描いた`名作`であります。

  • 61歳の社会党委員長浅沼稲次郎。
    17歳の右翼の少年山口二矢。
    安保闘争で右翼と左翼が激しく交差した時代。
    生き急いだ少年とゆっくりと歩み続けた老齢の政治家。
    解散総選挙直前、日比谷公会堂三党首演説会。
    そこで二人の人生が交錯する。

  • いつぞやかの新聞で沢木耕太郎の文章を初めて読み、彼の「文体」に興味を持ったので、手に取ってみた。
    そういえば「ノンフィクション」は初めてかも。エッセイとも研究とも異なる書き方には不思議な魅力がある。書かれていることはすべて事実のハズなのに、フィクションを読んでいると錯覚してしまうかのような構成と筆運び。思わずすべてにすんなりと首肯してしまいそうになる。
    本書が出版された時、私はまだ生まれていなかった。だから、事件も登場人物たちもまったく知らない。それでも、一般的なイメージと、そこには表れない様々なこと、そして偶然の奇妙さが丁寧な筆致からとてもよく読み取れた。

  • テロルの決算

    著者:沢木耕太郎
    発行:2008年11月10日
       文春文庫(新装版)
    *旧文春文庫1982年2月9日、単行本1978年9月

    今年4月にキャパの十字架(2013年刊)を読み、そういえば沢木耕太郎のノンフィクション作品って、読んでいないなあと気づいた。小説は少し読んでいるが、彼の本職はノンフィクション作家。少し読んでみよう、とりあえず出世作の「テロルの決算」(大宅壮一ノンフィクション賞)あたりから、と。しかし、運悪く図書館が閉鎖。そんな時はブックオフで検索してお取り寄せ購入。古い本だと100円か200円で買える。読んだのは6月下旬だった。

    1960年、立会演説会中に日本社会党委員長・浅沼稲次郎が刺殺された歴史的な事件。犯人は17歳の右翼少年、山口二矢(おとや)だったが、彼はどこかの右翼団体のヒットマンだったのではなく、彼自身が考え、思い至って犯した行為だった。赤尾敏に心酔し、赤尾が高校を卒業してからでも遅くないと忠告するのにも拘わらず大日本愛国党に入って活動、過激な行動で検挙、釈放を繰り返していた。しかし、党の主要メンバーに不満をいだいて若手3人で脱党、自分たちでグループを作っていたが、そのメンバーとも関係ない、まったくの単独犯だった。

    彼は、自分が完全に殺さなければいけない相手として、6人の政治家をリストアップした。日教組委員長・小林武、共産党議長・野坂参三、社会党委員長・浅沼稲次郎、自民党容共派・河野一郎、同じく石橋湛山、社会党左派・松本治一郎。さらに、反省を求める相手として三笠宮崇仁(たかひと)の名も。
    6人のうち、河野、石橋は大きな邸宅に住み秘書なども多いので殺害は難しいだろうと判断、松本は住所が分からなかった。残る3人に絞ったが、小林は引っ越した直後で住所が不明だったため、新宿生活館にやってくる野坂の殺害を決意する。ところがその前日、浅沼が三党立会演説会(自民、社会、民社の三党)に参加することを知る。野坂は周囲に共産党員がいて党員でもない彼が新宿生活感に入るのは難しいだろうと判断し、結局、浅沼殺害を決めた。

    浅沼は、社会党の構造改革派から流れた右派であり、彼自身の体質や考え方、人柄などから右翼にもウケがよかった。それなのに、山口のリストに挙げられていた。浅沼は、戦前に左翼だったが、圧力がかかると右に転向し、戦後にまた左になった、そんな日和見主義ぶりが山口には気に食わなかったようだ。

    この本は、山口二矢のおいたちから犯行にいたるまでの人生、そして犯行の詳細などをルポルタージュしていることはもちろん、浅沼稲次郎についても、子供の頃からの話や殺される当日にいたるまでの多忙な毎日などを詳しく紹介しているのが特徴だ。どちらのノンフィクションかわからないほど。しかし、個人的にはそうした詳細をしのいで最も興味深かった点がこの本にはある。刺殺の様子を生々しくとらえた写真、ピュリツァー賞を受賞したあの写真を撮影できたのが、毎日新聞の長尾靖だけだったということについてのルポルタージュだ。

    なぜ、毎日新聞の長尾だけがあの瞬間を撮影できたのか。それは一言でいうと、彼の「ずぼらさ」だと書いている。彼は、当日、毎日新聞で一人だけ暇そうにしていたカメラマンだったという。カメラマンを連れて行くほど重要な取材ではなかったが、そんな彼が誘われて立会演説会に出張っていった。しかし、大したやる気もなく、決められた報道記者席に座ったままだった。一方、仕事熱心なカメラマンたちは、席を離れ、浅沼の演説に対して激しい野次と怒号を繰り返す赤尾敏を含めた愛国党メンバーの近くへと集まっていた。なにかあるかもしれないという〝期待〟からだった。ところが、愛国党メンバーを含めた誰しもが予想だにしなかった事態が起きる。ノーマークだった少年が単独で舞台に駆け上がって、本来の主役であるはずの浅沼に小型の日本刀を向けたのだった。記者席に残っていたのは数人いたが、毎日新聞にしかなかった高性能のカメラの、最後の1枚で長尾が撮影したのがくだんの写真だった(帰社するまで写っているかどうかも不明だった)。

    ***************

    二矢(おとや)という名は姓名判断をした上で父親がつけた名で、姓名判断上では完璧な名だった。それほどの名を持った少年が、あのような運命を辿らなければならかったことについて、後に日本易学連合会の席上で大御所の一人は「姓名学はまだまだ研究の余地があると思います」と嘆かざるを得なかった。

    山口二矢の父親の晋平は、若い頃は演劇を志し、「日本の新劇は俺がつくりだしてやろう」という気負いすらあった。

    二矢が通っていた玉川学園高等部は、中等部から上がっていった者と外から入って来た者との間の溝が深かった。二矢は外から入り、しかも地方からの転校生。彼の右翼的言動もあって、結局、途中でやめて愛国党に入った。

    父親が何らかの方法で二矢を大東文化大学に入学させた。本来なら高校三年生である年齢で大学1年生であり、犯行に及んだ年齢でもある。

    浅沼は、死の一週間前、花森安治に、学生時代の自分の心境を説明しようとした。「世の中を変えたい。幾分でもいい世の中にしたい、自分がどうなるかはしりません。目的はいい世の中にしたいという・・・」

    1945年9月22日、社会党をつくるべく新党結成準備会が開催された。この時に大活躍したのが浅沼だった。彼が新党発起人の選考をした。その時の呼びかけ文はおよそ社会主義政党とは思えない。「かしこくも終戦の大詔を拝し、降伏条項の調印を了し、わが国は未曾有の一大転換期に遭遇することと相成り候。冷厳なる敗戦の現実を直視し、光輝ある国体擁護のもと、新日本建設に挺身するは、今後における我等国民大衆の責務なりと痛感致し候・・・」で始まるものだった。
    会の司会をつとめた浅沼が開会の挨拶の中で国体擁護を主張し、出席していた荒畑寒村を啞然とさせた。その上、最後には賀川豊彦(三長老の一人)が天皇陛下万歳の音頭をとった。

    浅沼の遊説はすさまじかった。東海道本線の夜行で朝、神戸に着く。夜11時まで演説をし、深夜連絡船に乗って高松に渡る。朝6時に岸壁に着くと同時に演説、10時の船でとんぼ返りをして岡山に向かい、そこで夜12時まで選挙応援のためにぶちまくり、そのまま夜行に乗って広島に向かう。そして、朝5時、駅頭で演説を始める・・・あまりの強行軍に、随行の記者団の方が先に参ってしまう。

    二矢が立会演説会に行ったのは午後2時半ごろ。1時に開場され、2時2分に演説開始。2時半には来場する者もおらず、入口で面通しをしていた公安のベテラン刑事たちは見切りをつけて会場に散っていた。

    当日、NHKは日本シリーズ第2線を放送、3対2とリードされた大毎は、西本幸雄監督が意表をついてスクイズを命じた。失敗し、併殺でチャンスを逃した。これで西本は監督の座を追われることになるが、NHKテレビに「特別ニュース」が流れたのは、この一打の直後だった。

    社会党における顕教としての構造改革理論が破産した時、転向したはずの上田・不破兄弟が主導権を握った日本共産党に密教として構革理論が定着することになる。

    事件から三週間後の11月2日、練馬の少年鑑別所に送られた二矢は、午後3時45分、夕食をとった。警視庁で差し入れられたすしを特に許されて鑑別所に持って来ていたが、それをきれいに平らげ、さらに鑑別所の夕食である麦飯とカレー汁をほとんど食べた。夕食が4時なのは、職員が6時に帰るためだった。便器の蓋の上で最後の晩餐。
    その日、シーツを細く切り、首を吊って彼は自殺した。

    二矢が第3撃を加えようと短刀を構えた時、刃を素手で掴んだ刑事がいた。刀を引けば刑事の手はバラバラになってしまう。二矢は迷った末、一瞬ののちに短刀から手を離した・・・」そんな伝説が右翼の間で流れていた。
    治療をしたと思われる医師の証言。
    「外科医は掌のことをノーマンズ・ランドと呼んでいる。誰のものでもない土地、神も侵してはならない部分。進化していくプロセスで人間の手は並の動物と比べて非常に発達した。とりわけ掌は微妙な感覚を持つ特別に進化した部分になった。ここを切ったり、縫ったりする時はよほど慎重にしなくてはならない。そうしないと些細なことでも、ひきつれたり、筋が癒着したり、実にやっかいなことになる・・・顔も名も憶えていないが、疵だけははっきり憶えている。それは掌に1本の細い線のような痕が残っているだけの疵でした・・・」

  • 浅沼稲次郎に凶刃を浴びせた山口二矢のノンフィクション作品。

  • 浅沼稲次郎は遠縁にあたる。幼いころに同潤会アパートに毎年正月に訪れた記憶がある。
    おおきな稲次郎さんをおぼろげながら覚えている。だがその記憶より、通夜か葬式だかさだかでないが、同潤会アパートの稲次郎さんのせまい部屋が紫煙にくもり、たくさんの記者たちがただ黙って酒を飲んでいたのが、幼い記憶に鮮明に残る。おねいさん(稲次郎さんの義娘)が動き回り、ちいさな叔母さん(享子)はどこにいたのか記憶にない。
    父に連れられ葬式に行ったらしいが、葬式の記憶はない。
    遠く血のつながる稲次郎が知りたくて読んだが、悩める政治家がそこにいた。

    沢木耕太郎が、「岐路」について語った文章で、山口二矢の実家が読売新聞を購読していたいう。稲次郎の日比谷公会堂での演説会の記事は、朝日にも毎日にも載っていなかったいう。二矢は読売新聞を見て、暗殺を企てた。

全11件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

1947年東京生まれ。横浜国立大学卒業。73年『若き実力者たち』で、ルポライターとしてデビュー。79年『テロルの決算』で「大宅壮一ノンフィクション賞」、82年『一瞬の夏』で「新田次郎文学賞」、85年『バーボン・ストリート』で「講談社エッセイ賞」を受賞する。86年から刊行する『深夜特急』3部作では、93年に「JTB紀行文学賞」を受賞する。2000年、初の書き下ろし長編小説『血の味』を刊行し、06年『凍』で「講談社ノンフィクション賞」、14年『キャパの十字架』で「司馬遼太郎賞」、23年『天路の旅人』で「読売文学賞」を受賞する。

沢木耕太郎の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×