先日、宮沢賢治学会イーハトーブセンターの夏季特設セミナーに参加した。
セミナーのテーマは「心象スケッチとは何か」。
その中で名前が出たのがこの本である。
ん?私これ持ってるかも。
というわけで家に帰って調べたら、あった!
『宮沢賢治 異界を見た人』 栗谷川虹 (角川文庫)
ちょっとだけ読んで挫折したまま積読本になっていた。
ほんとすいません。
奥付を見ると、平成九年の初版だった。
セミナーで話を聞いた「心象スケッチとは何か」という問題に密接にかかわっていた“神秘主義”について書かれた本に、私は21年前に出会っていたのだった。
「見者(ヴォワイヤン)の文学」「気圏オペラ第一部」「気圏オペラ第二部」「未来形の挽歌」という四つの論考が収められている。
「いきなり結論から言いますが、宮沢賢治はわが近代唯一の神秘主義の詩人でした。」
で始まる。
神秘主義……
怪しすぎる……(笑)
「人々は“神秘主義”という言葉を怖れている、あるいは何か忌まわしいものとして避けようとしている。」
と著者は言う。
そうそう。
“神秘”という言葉じたいのリアリティーのなさ。
超能力、まじない、霊的なもの。
特異な環境の中にいる特異な人が語る非現実の世界。
これを宮沢賢治にあてはめるとな。
楽しみだ。
賢治は、『春と修羅』の序においてこう書いている。
「そのとほりの心象スケッチです」
「たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで」
本人が何回もそう言っているのに、人々はそのままの意味で受け取ろうとはしなかった。
なぜか。
それは、「そこに描かれたものがあまりにも奇怪な現象であった」という単純な理由による。
賢治の言っていること(そのとほりの心象スケッチ)をありのまま受け取ろうとしなかった私たちは、これを“詩”として読み、そこに他の作家にはない空前の新しさを見る。
そうか。
だから深読みしてしまいがちになるのか。
何かものすごく難解で崇高なこと言ってるから理解しなきゃ、と。
素直に読めばよかったんだ。
ユリアとペムペルは、彼のとなりを本当に歩いていたのだ。
『小岩井農場』の、現実と幻想が交互に現れる感じを、今まで私は何となく自分を混乱させながらも、どこかで納得させようとして読んでいたのだけれど、こんなふうに“神秘”という言葉に出会ったことで視界がクリアになり、難解だと思っていた賢治の詩が、不思議と近しいもののように思われる。
あの『河原坊(山脚の黎明)』だって、今までは狂気を感じて読むのがちょっと怖かったものが、おぉこれは賢治さんが見たままを書いているのかぁ、そうかぁ、こりゃすごい、と素直に読めたりする。
「階段を降りることと昇ること」についての言説が興味深い。
精神病に行きつく“下降”ではなく、豊かな世界への“上昇”について、哲学者で心理学者のウイリアム・ジェイムズの言葉を引いて説明されている。
賢治の書く幻想は、階段を降りているのではなく、昇っているのか。
へえー。
これはすごい。
幻覚を見るような人というのは特別な人で、もっと言っちゃうとヤバい人で、その人が作った作品を見る時、つい“自分は普通”というフィルターを通して見てしまってはいないか。
目線を下げて“理解してあげよう”という気持ちで見てはいないだろうか。
本当は、その理解しづらいものは、自分の目線の上にあった!
ハッと気づかされる。
宮沢賢治という人に、私たちがまだ追いついていないだけなのか !?
そうなると、賢治作品がまた違った魅力をたたえて目の前に現れてくる。
賢治自身、超感覚的な知覚を持つ自分と、物理の法則に則って現実社会を生きる自分とのはざまで揺れていた、と「気圏オペラ第二部」では書かれている。
「これ以上はもう進めないと感じた時、賢治はこの二重生活に終止符を打とうとした。」
そして賢治が現実の生活を選んだのは、
「三次元と四次元の接点で消えかかっている自己をみんなの三次元に据え直し、その延長上に四次元を接続するため」
だった。
この諦めていない感じ、いいぞ。
神秘主義を理解することはやっぱり難しい。
けれども、“未知なるもの”を発信し続けた詩人は、亡くなったあとも私たちの心を動かし続けている。
それは確かだ。
やっぱり面白いな、宮沢賢治。
彼自身は、「あれはさうですね」と、幾人かの同感者に言ってもらいたかっただけなのだけど。
本書に収録されている論考の初出は、なんと40年ほど前なのだそうだ。
古くなってもいつまでも輝きの消えない、こういう本に出会えることは、すごく幸せなことだと思う。