日銀と政治 暗闘の20年史 [Kindle]

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  • 朝日新聞出版
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  • 良書。日銀に独立性などなく、金融政策がいかに政治に振り回されてきたかがよく分かる。
    バブル崩壊後のバランスシート不況の中、不良債権処理と公的資金注入が遅れたため、金融システムが安定せず、財政出動も散発的になったため、日本の経済成長は止まってしまった。その中で、経済成長は金融政策によって成し遂げられるという主流派マクロの考えのもと、政治家のプレッシャーを受けながら日銀がどのような政策を行ってきたかが克明に描かれている。
    本書は政治視点が多いので、白川方明氏の著書『中央銀行』など日銀視点で書かれた本も読むと、よりこの時代の政治・金融を理解できると思う。以下、要約。

    ❶まえがき

    ①日本のデフレについて、政治家は『日銀のバブル潰しが遅れたせいで日本はデフレに陥った。また、デフレになってもリフレ政策をしないためデフレから抜け出せない』と主張する。
    一方、日銀は『デフレの要因は金融政策のみが原因ではない。少子高齢化や人口動態の変化など潜在成長率の低下の影響も見過ごしてはならない』として、どちらかというと構造問題を重く見ている。

    ❷『独立』した日本銀行

    ①日銀法の改正は強過ぎる大蔵省の権限を弱める目的がキッカケであった。大蔵省本体も財務省と金融庁に分割されたが、その前段階で、大蔵省の影響力が大きかった日銀も変える目的で日銀法の改正が行われた。

    ②旧日銀法は大蔵大臣の監督権が強かった。日銀総裁の解任権、業務命令権など幅広い権限を有していた。

    ❸ゼロ金利解除の失敗

    ①バブル崩壊後、CPIが初めて前年比でマイナスになったのは1998年である。

    ②1999年2月にゼロ金利政策の採用、そして、4月の決定会合でフォワード・ガイダンスを世界で初めて導入した。

    ③当時の速水総裁の思想として『強い円は国益』という思想が根底にあった。なので、1999年のG7会合で円高是正の声明が出された後も、否定的な態度をとってしまった。

    ④2000年8月にゼロ金利解除が決定された。議決の際は日銀法制定後初めて議決延期請求が行使された。この決定に至る過程で、政府と日銀の間に大きな溝ができてしまった。この時、官房副長官だったのが後に首相になる安倍晋三である。

    ⑤日本の金融政策を語る上で外せない人物が東大の小宮隆太郎氏である。小宮ゼミのOBには、白川方明日銀総裁、副総裁の中曽宏、岩田規久男、山本幸三等がいた。この中で、山本と岩田は後にリフレ派の筆頭として、白川率いる日銀にマネタリーベースの拡大を強く求めることになる。

    ⑥マネタリーベースとは市場に出回っている現金と銀行が日銀に預けている当座預金の合計である。一方、マネーサプライとはそれよりも広い範囲を指し、中央銀行と金融機関を除いた国内の経済主体が保有する通貨の合計である。

    ⑦リフレ派は、財政政策より金融政策こそデフレ脱却の有効な手段であると主張していた。

    ⑧2000年8月にゼロ金利政策の解除をしたものの、日本の経済拡張は11月には早くも息切れを始めた。キッカケは米国のITバブルの崩壊であった。

    ⑨2001年3月、CPIが2年連続で下落している状況を踏まえ、政府で初めて公式にデフレ宣言を行った。

    ❹量的緩和の実験

    ①日銀は2001年3月に政策金利を0.25%から0.15%に利下げをしたうえで、量的緩和政策を採用することになった。ポイントは以下。まず、金融調節のターゲットを金利ではなく、当座預金残高5兆円に設定した。次に、物価が安定的にゼロ%以上になるまで続けることを約束した。いわゆるフォワード・ガイダンスである。最後に、必要があれば銀行券ルールの範囲で長期国債の買い入れを行うことも決めた。

    ②理論的な効果として、金利低下、ポートフォリオリバランス、期待形成に与える影響を挙げた。

    ③5ヶ月前の会合でゼロ金利を解除して半年足らずで再び金融緩和に戻る状況で、当然、速水総裁の責任論が出た。

    ④2001年4月には小泉首相が就任。掲げたのは『小さな政府』と『構造改革』であった。財政政策は『緊縮』であった。

    ⑤2001年の就任当時、景気は良くなかった。デフレや不況の時は財政政策を執ることがセオリーであったが、小泉内閣は『緊縮財政』と『構造改革』を掲げた。

    ⑥小泉政権の頭は『構造改革なくして景気回復なし』とデフレ対策より構造改革を優先する姿勢であった。

    ⑦未だに銀行の不良債権は残ったままであった。当時の金融担当相であった柳澤は自分の責任問題になるため、公的資金注入を拒否した。背景には、1999年に公的資金を注入したばかりで、不良債権問題に終結宣言まで出したことがある。

    ⑧竹中は日銀にインフレターゲットの採用とアコードの締結を迫ったが、この時は実現できなかった。

    ⑨2003年の1月に新しい日銀人事が決まった。この時のプロセスとして、元首相の宮沢喜一が福井俊彦を日銀総裁に推し、財務相の塩川が元大蔵次官の武藤敏郎を推し、竹中が岩田一政を推し、小泉は言われた通りの人事を通した。

    ⑩福井総裁は就任後、量的緩和の規模を拡大し、またABSの買い切りオペも始めた。

    ⑪量的緩和の解除に最初に言及したのが2005年9月であった。10月公表の展望レポートでは2005年、2006年の物価見通しをプラスに改訂し、条件を整えた。

    ⑫2006年3月に量的緩和政策を解除。それと同時に、『中長期的な物価安定の理解』を公表。数値を『概ね1%程度』とした。

    ⑬政府はデフレ脱却宣言をする材料として、CPIだけでなく、需給ギャップ、ユニットレーバーコスト、GDPデフレーターを加えることになった。これにより、宣言のハードルを自ら上げた。この後、日銀利上げ後、デフレ脱却宣言をすべきかという判断時に、物価のみプラスということをもって宣言見送りを決めた。

    ⑭7月の日銀短観で、大企業製造業の設備投資計画がバブル期の1990年以降の2桁増を記録。この数字を受けて、14日の決定会合でゼロ金利政策を解除した。

    ⑮2007年1月に入ると日銀内で追加利上げの声が高まる。18日の会合では否決こそされたが、利上げの議案が出された。
    2月の会合で0.25%の利上げが決定。岩田一政副総裁が反対、また政府関係者では内閣府の出席者が反対意見を出した。

    ❺リーマンショックと白川日銀

    ①2007年7月に自民党は参議院議員選挙に大敗。ねじれ国会となった。この結果、2008年3月に日銀総裁・副総裁の人事を民主党に握られることになった。民主党の財金分離の原則のもと、大蔵省出身者の人事が次々と否定され、副総裁指名されていた白川方明が総裁に就くことになった。

    ②9月15日にリーマンショックが発生。金融システムが崩壊する中で、欧米が協調利下げするが、日銀は動かず。(これが円高の要因と著者は書いている)

    ③10月31日の会合で0.2%の利下げを決定。過度な利下げは金融市場の機能を低下させ、金融システムに影響を与えるという理由であった。

    ④非伝統的金融政策には、負債を利用した『量的緩和』、資産側を利用した『信用緩和』の2つがある。両方合わさって『量的緩和』と呼んでいる感はある。

    ⑤12月にFedは0〜0.25%に利下げし、事実上のゼロ金利政策を開始。MBSの買い入れも発表し、QE1を始めた。日銀も12月の政策決定会合で0.2%の利下げを決定。ドル円は1ドル80円が定着。

    ⑥2009年8月の衆議院選挙では民主党が大勝。ここから首相が1年毎に変わる政治に突入する。政府と日銀のコミュニケーションも急速に悪化していく。

    ⑦2009年11月に経済財政相の菅直人は『デフレ宣言』を行う。一方で、日銀はその後の金融政策決定会合で現状維持を決めたに留まらず、景気判断を3ヶ月連続で上方修正し、政府と見方が大きく分かれた。

    ⑧白川氏の著書と照らし合わせて考えると、政府と日銀のコミュニケーション不足を前提として、菅直人の能力不足によって生じた事件だと推察される。

    ⑨11月27日に財務相の藤井裕久が白川と会談の場を持つ。白川の考えに寄り添いつつ、政府のデフレ宣言に歩調を合わせるよう、白川に要請し白川が受け入れ、30日の講演でデフレという言葉を使うに至った。

    ⑩12月1日には臨時の会合を開き、10兆円規模で国債や社債、CPを担保に0.1%で融資を行う新型オペを発表した。政府の追加経済政策と歩調を合わせる形となった。

    ⑪2010年6月に鳩山が辞任、菅直人が首相になった。しかし、7月の参議院選挙では大敗。ねじれ国会となる。

    ⑫8月のジャクソンホールシンポジウムでバーナンキ議長はQE2の発動を示唆。それに合わせて、日銀も追加金融緩和を行なった。

    ⑬9月に入り、1ドル82円台まて円高が進んだところで、15日に6年半ぶりに為替介入を実施した。

    ⑭10月には日銀が包括緩和を発表。しかし、翌11月には11年6月末までに6000億ドルの長期債を購入するQE2を正式に発表し、日銀の金融緩和効果は打ち消されてしまった。

    ❻日銀批判のマグマ

    ①2011年8月に野田佳彦が首相に就任。2012年8月に消費増税法案を可決。

    ②2012年1月にFedは2%のインフレターゲティングの政策を導入した。日銀は翌2月に『中長期的な物価安定の目処』を公表し、2%以下のプラスで中心値は1%と置いた。

    ③この頃は長引く円高もあり、超党派で日銀法改正の機運が高まっていた。

    ④2012年9月の自民党総裁選で安倍が勝つ。同月にFedはQE3を発動。MBSをインフレ率が上がらない限り失業率が下がるまでやるとアナウンス。

    ⑤10月末には、追加の金融緩和を決めると同時に、政府と日銀で『デフレ脱却に向けて』という共同文書を公表。

    ⑥11月15日、野田は衆議院を解散。選挙戦が始まる。この時、自民党の公約が金融政策の転換であり、他国では見られない異例の内容であった。
    12月16日の投票日、自民党は公示前の3倍の議席を獲得し圧勝。

    ❼レジームチェンジ

    ①選挙戦中、安倍に金融政策の転換を公約にされた白川総裁は毅然とした態度で『中央銀行の独立性』を主張したが、これは過去に小泉がよく使った対抗勢力を仕立て上げるやり方にはまり、国民に白川が対抗勢力とされてしまった。

    ②日銀法改正は絶対避けたい白川は政府と『共同声明』という名の『アコード』を結ぶことを選択した。

    ③安倍はリフレ派の考えをもとに、物価は世の中に出回っている貨幣の総量とその流通速度が決めるものだと考えた。一方、白川はその対局で、経済の『需給ギャップ』によって決まると考えていた。つまり、需要がどこまで回復して、かつ供給過剰を解消できるかが大事だと考えた。

    ④黒田は3月の就任会見で『2年で2%』という期限をぶち上げた。副総裁の岩田はもっと過激で、2年で達成できなければ辞めるとも言った。

    ⑤3月18日の日銀人事で、雨宮正桂を企画担当理事にする。その上で、新たな金融緩和政策を作らせた。

    ⑥4月4日の初めての会合で『量的・質的金融緩和』を発表。金融市場調節の操作目標を短期金利からマネタリーベースに変更。138兆円から2年後に270兆円にするとぶち上げた。

    ⑦2013年8月に2014年4月に控える消費増税に向けての考えを聞かれた黒田は、増税を促す旨答える。
    安倍のブレーンは大反対であったが、結局予定通りの増税を決定。

    ⑧2014年10月に消費の落ち込みを受けて、日銀は追加の金融緩和を行った。また、2015年に追加で2%税率が引き上げられる前提であった。マネタリーベースの拡大ペースを60〜70兆円から80兆円に、ETFの買い入れを3倍に拡大した。

    ⑨安倍は11月に消費増税を延期した。

    ⑩2015年4月の展望レポートでは物価見通しを下方修正した。2%の達成目処を1年先送りにした。この時のCPIは前年同月比+0.3%と前年から1ポイント低下した。

    ⑪8月のCPIは前年同月比-0.1%とついにマイナスへ。10月の展望レポートで2%の物価達成目処を2度目の先送り。しかし、追加の金融緩和は行わなかった。

    ❽金融と財政、『合体』へ

    ①2016年1月に日銀はマイナス金利を導入。その結果、10年債金利がマイナスに突入する異常事態が発生した。

    ②5月に安倍は2度目の消費増税を延期。

    ③7月の参議院選挙で自民党が勝つ。経済対策も具体的な数字をあえて出した。その2日後の日銀の金融政策決定会合でETFの買入枠を増額。財政出動と歩調を合わせた。
    注目されたのは、その場で『量的・質的金融緩和の政策効果について包括的検証を行う』という言葉であった。

    ④金融政策は普段、企画局の密室で決められるが、この時は政策アイディアを行内で公募する程追い込まれていた。

    ⑤9月に、検証の結果、生み出した政策がYCCである。金融市場では量的緩和の副作用として、国債市場の流動性低下、金融機関の収益圧迫を通じた金融機能の低下など、金融システムが脆弱化した。
    日銀企画局の調査では、需給ギャップに効く国債の年限は3年、為替に効果があるのは10年までという結果が出た。
    従来は長ければ長いほど、人々のインフレ期待を高めると想定していたがそうではなかった。10年より短いものを買って深掘る方針に転換した。
    そして、マネタリーベースの拡大を80兆円としたものも『80兆円の目処』とし、事実上の撤廃。量的目標から金利目標に再び変更した。
    その後、2018年7月にはYCC導入後の変動幅である±0.1%から±0.2%に変動幅を拡大させた。

  • わかりやすく読みやすい。
    読み終わってみると、日銀に相当配慮して書かれてるんじゃないかと感じる。

    おそらく、政策がどうこう、、ってことじゃないんだろう。

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著者プロフィール

鯨岡 仁(クジラオカ ヒトシ)
朝日新聞記者(首相官邸担当)
朝日新聞記者(首相官邸担当)
1976年、東京都生まれ。1999年、早稲田大学卒業、日本経済新聞社入社。2003年、朝日新聞社に移り、2005年、政治部記者。首相官邸、防衛省、民主党などを担当。2008年、経済部記者になり、日本銀行担当としてリーマン・ショックの取材を経験。社会保障と税の一体改革、内閣府、財務省、自民党などの担当を経て、2014年から、ふたたび首相官邸担当に。TPPやアベノミクス(経済財政・金融政策)の記事を担当。景気循環学会所属。主な著書に『この国を揺るがす男――安倍晋三とは何者か』(共著、筑摩書房、2016年)がある。

「2016年 『ドキュメント TPP交渉』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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