世界史とつなげて学べ 超日本史 日本人を覚醒させる教科書が教えない歴史 [Kindle]

著者 :
  • KADOKAWA
3.85
  • (12)
  • (32)
  • (12)
  • (3)
  • (1)
本棚登録 : 291
感想 : 21
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・電子書籍 (351ページ)

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 世界の動きとの関係で日本史を読み解いた書。古代から江戸時代までを概観している(近現代は描かれていない)。

    面白かった点を幾つか。

    古代において、「諸民族が興亡を繰り返したユーラシア大陸から見れば、東シナ海と日本海によって守られた日本列島は、いわば「最後の避難所」だった」。

    古代日本には、福井県から新潟県にかけて出雲と並ぶ強力な地方王権「越の国」が存在しており、「大陸からもたらされる情報や交易ルートの権益をもっていた」。

    壬申の乱は、単なる皇位継承の争いではなく、「親唐派」勢力(大友皇子側)と「親新羅派」勢力(大海人皇子側)の政争だった。

    平安時代、「中央政府は藤原氏によって私物化され、地方長官は任地に赴かず、地方では無政府状態が続いてい」た。「いわば、いまのシリアやソマリア、アフガニスタンのような状態のなかで、有力者が武装して自警団を組織し、これが武士団に発展していった」。

    「徳川家は、一国一城令、武家諸法度などを次々に発して江戸幕府の体制(幕藩体制)を固める一方、諸大名が西欧人との交易で強力な火器や硝石を手に入れることを恐れました。そのためには貿易を一元化し、徳川家の強力な管理下に置くことが必要でした。これがいわゆる「鎖国」の最大の動機です。」

    「大坂の陣のあと一六二〇年代にかけて、日本人傭兵が東南アジア諸国で大きな役割を果たし、イギリス、オランダ、スペイン、ポルトガルの覇権争いにも彼らが動員され」た。


    日本外交は、冷徹な計算に基づくリアリズム外交を基本としつつ、時々無謀で危うい対外積極策を採ってきたんだな。この辺の歴史の流れがなんとなく掴めて良かった。

    本書中で言及されている『アダムの呪い』(ブライアン・サイクス)、『異形の王権』(網野善彦)、読んでみたいな。

  • 日本では、社会科教育において、「日本史」と「世界史」が明確に分離されてきた。そのせいもあろうが、日本の歴史は、すなわち世界史の一部であるという意識を持てたのは、つい最近のことのように思う。
    やや大げさにいえば、このような意識改革をもたらしてくれたのは本である。例えば出口治明の『哲学と宗教全史』や『全世界史』であり、内藤博文の『地政学で読む近現代史』であった。そして、この『世界史とつなげて学べ 超日本史』もその系譜に連なる一冊である。

    鎖国を経て、開国した後の近代以後の日本史においては諸外国との接点も見えてくるが、中世以前の日本史(特に学校で学ぶ「日本史」)は文字通り日本の歴史だけを語っている。だから、聖徳太子が17条憲法を制定したり、律令国家を目指したのも、そこにどう外国が関与していたのかを理解しようとはしなかった(できなかった)。聖徳太子は偉い人で、賢明だったがゆえに、このような制度を生み出したのだと理解していた。
    だが、どうしても拭えない一つの疑問があった。江戸時代の「鎖国」制度において、欧州諸国の中でオランダとだけ通商を認めていたのはなぜなのか? この疑問は、長い間ずっと頭の中でくすぶっていたように思う。これは、鎖国しているのにどうしてオランダとだけは貿易ができたのか、ということではない。貿易の対象が、私の中ではより強国だと思っていたイギリスでも、フランスでもなく、むろんアメリカでもなく、「オランダ」だったことが疑問だったのである。
    日本史の教科書もその部分だけは丹念に読んでみたことがあったが、書かれていたのは「江戸時代、幕府は鎖国政策をとった。対外貿易は、長崎の出島に限られ、貿易相手もオランダと中国に限定された」という無味乾燥な解説だけであった。

    歴史とは、過去に起きた(歴史的)事実をたどることにあるのだろう。だが、事実をたどるとき、そこには本来さまざまな因果関係の連鎖が存在する。ある史実を理解しようとしたとき、その因果をたどることが必要だとすれば、そこに「なぜ(Why)?」という疑問がわくのも当然だろう。
    この「なぜ(Why)?」を解き明かすためには、日本史を俯瞰する必要がある。日本史とは、あくまでも「日本」を中心として、日本と諸外国との関係を歴史的事実の中で理解することにある。そう思い、そのようなコンセプトの本を探した。
    そして巡り合えたのが本書だと思っている。長年の鎖国にまつわる疑問も、本書によって解消された。鎖国からイメージされるような、日本は世界から「閉じた」国などではなく、古代、中世、近世、そして近代、いつの時代も諸外国と関係を持ちながら日本という国家を維持してきたのだということが、本書のような本を読むことで理解できる。
    その意味で本書のタイトルとなっている『世界史とつなげて学べ 超日本史』は、看板に偽りなしと言える。日本史のイメージをドラスティックに変える一冊である。

  • 入り込めず、途中放棄

  • 日本だって昔はヤンチャだった…!!

    西洋史だけ見てると日本は全く違う世界線で動いてるんだと思ってた。鎖国ってたし。開国までは我が道を行くで暮らしてるんだと思ってた。

    中国、韓国…モンゴルやインド。しっかり日本は鍔迫り合いで渡り合ってました!
    日本人は昔から日本人だった…これだけ記録残すのとかマメだし、韓国ほぼなんものこしてないのがらしすぎる!
    日本:娘を嫁がせても技術を習得しようとして、鉄砲は一年で大量生産、国内戦デビューー!
    韓国:死蔵  えーww
    中国の方も中国らしいなぁって感じだし。。


    日本も昔それなりに倭寇もいたりしてイケイケだったんだけど、地政学的には捨て置かれてたのが、かえって混乱に巻き込まれず今に至る…
    大陸や半島からしてみればそりゃ小国で後回しになるわ。


    日本は植民地にならず運がよかったという話になっていたと思ってきたけど、しかるべき性質、性格、気質、地政があって今の日本があるんだろうなと考えた一冊でした。
    太平洋戦争の開戦のバックグラウンドについては、最近、「海賊と呼ばれた男」ではからずしも出光佐三氏の生涯で知ったので個人的には繋がっていきました。

    面白いやん!歴史!!
    ってなった本でした。学生の頃にこういうの教えてくれてたらなぁ。丸暗記教科としか思ってなかった。教師もこんな授業は時間なさすぎで無理だろうけど(笑)

  • 日本史・東洋史・西洋史を俯瞰して見て、日本史を解釈するという本です。
    非常に面白い本になります。
    惜しむらくは江戸時代半ばまでの記述になるので、江戸時代後期以降も読みたいと感じました。

  • アンリミテッドにて読了。非常に面白かった。予備校の先生との事。古代から幕末あたりまでの日本史のおさらい。

    こういったジャンルでは自己最高評価の星四つ。

    下記にハイライトした個所をコピペ:

    110
    オレンジ色のハイライト | 位置: 24
    あらためて勉強し直してみると、この国の歴史はじつに特異なもので、中国文明でもなければ西洋文明でもなく、サミュエル・ハンティントンが『文明の衝突』(集英社) で的確に評したように「日本文明」としかいいようのないものであることを、再認識しました。


    黄色のハイライト | 位置: 27
    最新の分子生物学の成果によれば、日本人に受け継がれる縄文人のDNAは、中国人・韓国人よりもチベット人に近く、アジアの最古層に属することがわかりました(第1章〔*〕)。


    黄色のハイライト | 位置: 164
    日本神話では、九州から大和へ向かう「 神武 東征」の際に、 八咫烏 が道案内をした、あるいは敵の 長髄彦 と戦う神武天皇の杖に、黄金の 鳶 がとまって敵の目をくらませた、といわれてい


    黄色のハイライト | 位置: 381
    縄文人の祖先であるDは、従来いわれていたように東南アジアから島伝いにやってきたのではなく、氷河時代に地続きだったシベリア方面から日本列島(当時は日本半島) に渡ってきたの


    黄色のハイライト | 位置: 385
    縄文人と大陸から渡来した弥生人の混血が、現代の日本人であるという「混血説」が、DNA研究によって証明されたわけ


    黄色のハイライト | 位置: 389
    母系のミトコンドリアDNAから見るかぎり、 1.日本人は「北東アジア人」の一つである。 2.アイヌ人、本土日本人、沖縄人は同じ系統に属す。  ということになり


    黄色のハイライト | 位置: 495
    現在、勤労感謝の日と呼ばれている祝日(十一月二十三日) は、かつては 新嘗祭と呼ばれる祭日で、稲作の収穫祭でし


    黄色のハイライト | 位置: 578
    三輪山には登山道があり、小学生でも山頂まで登れます。 麓 の社務所で名前を記し、神主さんから注意を受けます。「一木一草、小石一つ持ち帰ることも、写真撮影もできません」。山中で何を見たかもいっさい、語ることはできません。山そのものが御神体だから


    黄色のハイライト | 位置: 580
    筆者も登らせていただき、何を見たかは申せませんが、神々の存在を身近に感じまし


    黄色のハイライト | 位置: 581
    この大神神社を創建したのは第十代 崇神天皇である、と『日本書紀』にはあります。崇神天皇の和風 諡号(帝王や貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名) は「はつくにしらすすめらみこと」。「初めて国を治めた天皇」という意味


    黄色のハイライト | 位置: 585
    神話上は、神武天皇が最初の天皇とされているのに対し、崇神天皇は 実在した最初の天皇 ともいわれ、『古事記』に記す崩御の年である 戊寅 年は、西暦二五八年、あるいは三一八年と推定されてい


    黄色のハイライト | 位置: 596
    日本の天皇も、在位中は「 御門」「お上」と呼び、死後は業績を称える諡号で呼んだ。初めは「はつくにしらすすめらみこと」のようなやまとことばの和風諡号が贈られたが、奈良時代の学者である 淡海三船 が神武天皇に遡って、漢字二文字の漢風諡号を定め


    黄色のハイライト | 位置: 672
    ここで重要な役割をするニギハヤヒは、 物部 氏の祖先神です。 「もののべ」は、 武士部 と語源が一緒で、軍事集団を意味します。天皇家に仕えた物部氏は、軍事と祭祀を担当する最有力氏族でしたが、のちに蘇我氏や藤原氏と争い、歴史の表舞台から消えていき


    黄色のハイライト | 位置: 680
    日本最古の神社として知られる奈良県の 石上神宮は、この十種神宝を御神体として祀り、物部氏の武器庫としても使われていまし


    黄色のハイライト | 位置: 688
    ・弥生時代、日本列島各地に王権が成立し


    黄色のハイライト | 位置: 688
    ・出雲の王権はその中心的な地位にあり、大量の銅剣を製造する技術をもち、オオクニヌシを祀ってい


    黄色のハイライト | 位置: 690
    ・その一方、ヤマトの三輪山の山麓には、ニギハヤヒを祀る物部氏の王権があり、これを中心にヤマト国家連合が形成されてい


    黄色のハイライト | 位置: 691
    ・北九州の王権(神武王権) が移動し、ヤマト国家連合への合流を試みた(「神武


    黄色のハイライト | 位置: 693
    ・そのとき、ヤマト国家連合の内部で対立が起こり、神武王権との合流を拒絶する勢力(長髄彦) が滅ぼされ


    黄色のハイライト | 位置: 695
    ・三世紀に崇神天皇が即位し、神武王権とニギハヤヒ王権との統合が完成した。そこで物部氏は、皇室に仕える最有力氏族となっ


    黄色のハイライト | 位置: 714
    伊勢神宮は「築二十年」にすぎませんが、建築技法は二千年以上継承されてい


    黄色のハイライト | 位置: 715
    これが日本文明の特色


    黄色のハイライト | 位置: 735
    天武天皇は 壬申 の乱(六七二年) のとき、伊勢神宮に向かって勝利を祈願しています。この時代に伊勢神宮は皇祖神を祀る特別な神社としての地位を確立し、次の持統天皇のときに最初の式年遷宮が行なわれています(六八八


    黄色のハイライト | 位置: 809
    このときオロチの尾に当たった剣が刃こぼれしたのでよく見ると、尾のなかから新たな剣が出現します。これこそが 天叢雲剣──またの名が草薙剣なの


    黄色のハイライト | 位置: 811
    三種の神器のうち、鏡と勾玉は高天原起源の宝物であることは説明しましたが、この剣だけは出雲製なの


    黄色のハイライト | 位置: 1,048
    中国では、「 大秦」はローマ帝国、「大秦寺」はキリスト教会を意味します。ローマ帝国で迫害されたネストリウス派キリスト教徒が、ペルシア経由で中国の唐王朝に流れ込んでいるの


    黄色のハイライト | 位置: 1,202
    冠位十二階、十七条憲法、遣隋使など「聖徳太子の業績」として教科書に載っている改革は、当然ながら蘇我馬子の承認を得たものでした。馬子・太子の「二人三脚」政権下で進められた改革が「聖徳太子の事績」とされたのは、馬子を「逆賊」として描きたい『日本書紀』の編纂者の意図が働いているから


    黄色のハイライト | 位置: 1,213
    隋と唐を建てた一族は純粋な漢民族ではなく、北魏を建てた北方遊牧民の鮮卑が、漢人と混血したものでし


    黄色のハイライト | 位置: 1,214
    だからこそ、逆に漢人王朝としての正統性を示そうと躍起になった隋は、古代の漢王朝の復興を意識した政策を実行しました。国家公務員試験である科挙を創設して儒学を試験科目にしたのはそのためですし、高句麗遠征もその一環と考えられ


    黄色のハイライト | 位置: 1,387
    満洲人、オロチョン人、エヴェンキ人などと呼ばれる彼らは、満洲からシベリア・極東にかけての広大な地域に住み、共通の言語を母語とする「ツングース系民族」と総称され


    黄色のハイライト | 位置: 1,389
    かつての高句麗人、隋唐時代に中国東北部に存在した 靺鞨 人、十二世紀に中国の北半分を支配した金を建てた 女 真人も、ツングース系と考えられてい


    黄色のハイライト | 位置: 1,434
    文武天皇の遣唐使は、渤海問題を抱える武后政権に「日本」の国号を認めさせたのです。「日本」は対外向けの国号として、八世紀初頭にデビューしたの


    黄色のハイライト | 位置: 1,599
    律令制度のもとでは、班田(国有地) を貸与された農民に納税と兵役の義務を負わせ、軍団を編制するという建前がありました。しかし、田村麻呂の遠征を最後に軍団──すなわち正規軍の編制さえも困難になったの


    黄色のハイライト | 位置: 1,603
    しかし海に守られた日本は、大陸国家からの侵攻を免れ、武家政権が登場する十二世紀まで、「非武装国家」として存続できたの


    黄色のハイライト | 位置: 1,625
    イラン系のソグド人を父とする安禄山は、コーカソイド(白人) の容姿をもつ体重百数十キロの巨漢でした。数カ国語を自在に操り、さかんに賄賂を贈って玄宗に気に入られ、 幽 州(北京) 周辺の三つの節度使を兼ねて一八万人の傭兵隊を指揮するに至りました。やがて中央政界進出の野心を抱き、 宰相 の座を狙います。  ところが玄宗の寵愛を受けた 楊貴妃 の一族に出世を妨げられたために逆上し、「楊氏打倒」を掲げて部下の 史思明 とともに挙兵したのです。これが安史の乱


    黄色のハイライト | 位置: 1,706
    八九四(寛平六) 年、翌年に出発予定の遣唐大使に任命されていた 菅原道真 が、遣唐使の廃止を建議します。第五十九代 宇多天皇はこれを採用し、二百年続いた遣唐使はついに廃止されまし


    黄色のハイライト | 位置: 1,722
    いずれにせよ、最後となった第一九回遣唐使(八三八年) 以降、中国文化の影響は急速に薄まり、かな文字が広まります。これがいわゆる国風文化


    黄色のハイライト | 位置: 1,725
    宇多天皇の書簡には、草書体の漢字を崩した現在のひらがなの祖ともいうべき「 草仮名」が記されています。  次の 醍醐天皇の命を受けた 紀貫之 が、『 古今和歌集』を編纂し、序文(仮名序) を記したのは九〇五(延喜五) 年でした。唐が滅亡する二年前


    黄色のハイライト | 位置: 1,733
    紀貫之が最初のかな文字日記『土佐日記』を書いたのは九三五(承平六) 年ごろ。このとき関東では武士団の大反乱が起こっていました。 平将門 の乱


    黄色のハイライト | 位置: 1,753
    とはいえ、「律令国家体制」という東アジア・グローバリズムをそのまま古代日本に導入することは、木に竹を 接ぐような無理な試みでし


    黄色のハイライト | 位置: 1,755
    律令国家もたちまち形骸化していきました。  それに代わって、土台の「木の幹」から、新たな枝が伸びてきたのです。  武士(サムライ) の台頭


    黄色のハイライト | 位置: 1,757
    「サムライ」が日本の象徴とされるのは、これが他の東アジア諸国には見られない現象だから


    黄色のハイライト | 位置: 1,761
    七九四(延暦十三) 年の平安遷都から一世紀が過ぎ、坂上田村麻呂の東北遠征を最後に、財政難に陥った朝廷は、徴兵制に基づく常備軍(軍団) を廃止しまし


    黄色のハイライト | 位置: 1,763
    政府による保護を期待できなくなった東国(畿内以東) の開拓農民や「俘囚」と呼ばれた蝦夷の末裔らは、自分の土地を守るために武装し


    黄色のハイライト | 位置: 1,801
    桓武天皇が皇子たちに「 平」の氏を与えたのが「桓武平氏」、清和天皇が皇子たちに「源」の氏を与えたのが「清和源氏」の起源


    黄色のハイライト | 位置: 1,819
    常陸 国(茨城県)、 上総 国(千葉県中部)、上野国(群馬県) の関東三カ国は、親王(皇子) が「守」に任命される 親王 任国 です。親王は現地に赴任せず、代理人を「介」に任命して現地に派遣しまし


    黄色のハイライト | 位置: 2,022
    初めて院政を敷いた白河上皇の護衛を務めて寵愛された 平忠盛 は、越前守(福井県知事) に任ぜられ、若狭湾に来航した宋の商人から日宋貿易の利益について学びまし


    黄色のハイライト | 位置: 2,028
    海賊追討作戦を通じ、忠盛は瀬戸内海賊の首領たちを自らの配下に組み込み、見返りとして関税徴収権を与えていきまし


    黄色のハイライト | 位置: 2,031
    その功を認められた忠盛は、「 地下人」と蔑まれていた武士の身分でありながら、高級貴族の特権であった宮中への 昇殿 を認められたの


    黄色のハイライト | 位置: 2,034
    忠盛の子である平清盛は、 安芸 守(広島県知事)、 播磨 守(兵庫県知事) を歴任して瀬戸内における父の基盤を継承し、安芸の宮島で海上交通の女神である 市 杵 嶋 を祀る 厳島神社の大社殿を造営して、平氏の氏神としまし


    黄色のハイライト | 位置: 2,091
    商業を蔑視する農本主義の儒学が隋唐帝国のイデオロギーであり、儒学が官僚資格試験の科挙の科目となったことが、帝国の性格を規定しました。それは、国家が市場も管理しようとする国家社会主義であり、毛沢東時代の中華人民共和国とよく似た体制でし


    黄色のハイライト | 位置: 2,189
    領土的野心をもつ隣国に対し、軍事対決を避けて経済協力を行なうことで平和を保つという方法がどこまで効果があるのか、宋の事例を教訓にすべきでしょ


    黄色のハイライト | 位置: 2,281
    何度も使者を送ってくるのは、日本側の防衛体制の偵察を兼ねているのです。  この二通目の国書はフビライ本人ではなく、最高官庁である中書省が発行したものですが、一通目と同じく日本に服属を要求し、もし従わない場合には、「出兵を命じ、万艘の軍船が王城(京都) を制圧するだろう」という恫喝で終わってい


    黄色のハイライト | 位置: 2,284
    今回は後深草上皇の意を受けて、日本の太政官から元の中書省に宛てた返書を菅原(高辻) 長成 が作成しました。あの菅原道真の子孫


    黄色のハイライト | 位置: 2,291
    およそ天照皇太神(天照大神) の天統を耀かしてより、今日の日本皇帝(亀山天皇) の皇位継承に至るまで、聖明の及ばぬところなく、歴代天皇の鎮護は明らかで、四方の異民族が治まり、乱れがない。ゆえに国土を昔から神国と号すので


    黄色のハイライト | 位置: 2,295
    (竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編第十四巻、筆者による現代語


    黄色のハイライト | 位置: 2,296
    なかなかの名文です。神国思想が元寇の前からあったことがわかります。しかしこの国書は鎌倉幕府の反対で、モンゴル側に手渡されませんでし


    黄色のハイライト | 位置: 2,301
    九世紀(貞観年間) に新羅人が襲来した際、朝廷は対馬に俘囚(帰属した蝦夷) を配備して備えた。このとき伊勢神宮に捧げた祈禱文のなかで、「わが日本の朝は 神明 の国なり」と記したのが古い例。同時に朝廷の支配地域を「王土」、その外側を「穢れた地」とする王土王民思想が形成された。元寇以後、この神国思想が民衆レベルにまで浸透

    Note:神国思想について。

    黄色のハイライト | 位置: 2,310
    高麗では、日本遠征に消極的抵抗を続けてきた高麗王の元宗が没し、その太子で人質としてフビライ・ハンの宮廷で育てられ、娘婿となっていた忠烈王が高麗に帰国して、王位を継承し


    黄色のハイライト | 位置: 2,360
    元軍の指揮系統の乱れを察知した日本側は鷹島への総攻撃を開始し、南宋兵三万ほどが捕虜となり、残りのモンゴル兵、高麗兵はすべて殺されました。生き残った兵士が帰国して指揮官が率先して逃げたことを報告したため、激怒したフビライ・ハンは范文虎らを一族皆殺しにしてい


    黄色のハイライト | 位置: 2,371
    「日本国」の南方中国語読み「ジーベンクオ」が訛って、「ジパング」「ジマングー」となったよう


    黄色のハイライト | 位置: 2,380
    預かった 質草(担保) を保管する蔵を建てたので、やがて彼らは「 土倉」と呼ばれるようになります。酒造業者も金融業を営んだので、鎌倉・室町時代に「土倉・酒屋」といえば、金融業者のこと


    黄色のハイライト | 位置: 2,385
    訴えを聞いた鎌倉幕府の第九代執権である北条貞時は、一二九七(永仁五) 年、債務を帳消しにする「永仁の徳政令」を発布します(日本で初めての徳政令)。これが平氏政権であれば、幕府が低利融資をするなど、もう少しまともな方法を考えたでしょ


    黄色のハイライト | 位置: 2,445
    後醍醐天皇には、移動生活を続ける山の民、海の民(海賊衆) が多く付き従っていたことを明らかにしたのが、網野善彦(一九二八〜二〇〇四年) の名著『異形の王権』( 凡社ライブラリー)


    黄色のハイライト | 位置: 2,583
    永楽帝は側近の 鄭和 に南海遠征を命じ、南シナ海、インド洋沿岸諸国にも勘合を支給して、朝貢を促しました。 「遠征」とはいっても派遣されたのは大型商船団で、絹や陶磁器を満載した移動見本市でした。貿易の利をエサに朝貢を促したのです。結果は大成功で、艦隊は各国の朝貢使節を伴って帰国し


    黄色のハイライト | 位置: 2,603
    亡父の義満に朝廷が「太上天皇」すなわち「上皇」の称号を贈ろうとすると、義持はこれも謝絶し、日本国の君主は万世一系の天皇であり、足利将軍家はその臣下であるという立場を堅持しまし


    黄色のハイライト | 位置: 2,621
    六代義教は恐怖政治をやりすぎたために恨みを買います。次は自分が粛清されると疑心暗鬼になった守護大名の赤松満祐 は、一四四一(嘉吉元) 年、将軍義教を宴席に招いて 斬殺 しました(嘉吉の


    黄色のハイライト | 位置: 2,625
    守護大名の合議により、義教の遺児で幼少の 義勝 が七代、義政が八代将軍に擁立されて将軍権力は有名無実化し、赤松氏討伐に功績があった山名氏、細川氏が幕府の実権を握りました。やがてその細川と山名の勢力争いに義政の継嗣争いも加わって、全国に争いが拡大したのが応仁の乱です。ここから世は戦国時代に突入し


    黄色のハイライト | 位置: 2,890
    スペインのイサベル女王が派遣したコロンブス艦隊が新大陸に到達すると、スペイン・ポルトガルはカトリック国同士の紛争を避けるため、一四九四年、大西洋の真ん中に分界線を設定し、西側の新大陸をスペイン、東側のアフリカとアジアをポルトガルの勢力圏とすることで合意しました(トルデシリャス


    黄色のハイライト | 位置: 2,952
    遣欧使節四人のうち若くして病死した伊東マンショを除き、一人は処刑、一人はマカオ追放、一人は棄教という過酷な運命をたどり


    黄色のハイライト | 位置: 2,963
    彼らの大半はアメリカ大陸へ輸出され、大農園で酷使されたのです。  白人が黒人狩りをしたのではなく、ベニン王国(現・ナイジェリア)、アシャンティ王国(現・ガーナ) など黒人国家が積極的に奴隷狩りを行ない、白人商人に売りつけて巨利を得たの


    黄色のハイライト | 位置: 2,976
    弥助はモザンビーク出身の巨漢で、信長は彼を非常に気に入って武士に取り立てました。本能寺の変が起こると、弥助は主君である信長を守って奮戦しますが捕らわれます。明智光秀は彼の命を助け、京の南蛮寺(カトリック寺院) に預けました。弥助のその後の消息は不明


    黄色のハイライト | 位置: 2,982
    一五七一年には布教への悪影響を懸念したポルトガル王セバスティアン一世が日本人奴隷禁止の勅令を出しますが、守られませんでし


    黄色のハイライト | 位置: 2,995
    こうして大村純忠は領民六万人を強制的に改宗させ、改宗を拒む者を「異教徒」として弾圧し、奴隷としてポルトガル人に売り払いました。純忠の行為は、西アフリカのベニン王国がやったことと大差ありませ


    黄色のハイライト | 位置: 3,000
    アジア各地や中南米に残る裁判記録から、ポルトガル名やスペイン名を名乗る日本人奴隷が無数に存在したことを明らかにしたのが、東京外国語大学のルシオ・デ・ソウザ氏です(『大航海時代の日本人奴隷』岡美穂子氏との共著、


    黄色のハイライト | 位置: 3,013
    実利中心だったポルトガルに対し、スペインの新大陸征服は、カトリックを世界へ広める「聖戦」として行なわれました。「異教徒の蛮族を救済する」という名目で続けられたの


    黄色のハイライト | 位置: 3,044
    安土城は、熱田神宮の宮大工だった岡部又右衛門親子が設計に参画しました。戦国時代の城としては異例なことに防衛施設がほとんどなく、信長の政治権力を誇示するための象徴的な建築


    黄色のハイライト | 位置: 3,049
    信長に案内されて安土城天主に登ったヴァリニャーノは、異様な光景を目にします。八角形の五層の 襖絵には大日如来を中心とする諸仏が、方形の六層(最上階) には孔子、老子など中国の聖人が描かれ、その中心に信長が座す──神仏が「最高神」信長を礼拝するかたちになっていたのです。  城内に併設された 摠見寺 は日本仏教を統括すると同時に、信長を崇拝させる寺院でし


    黄色のハイライト | 位置: 3,060
    信長は、安土に登城する諸大名に摠見寺参拝を義務づけ、信長の誕生日には庶民にも、摠見寺を拝せば利益があるといいまし


    黄色のハイライト | 位置: 3,061
    信長よりやや遅れて一五六〇年に即位したインド・ムガル帝国の君主アクバル帝は、イスラム教・ヒンドゥー教・キリスト教を融合した「 神聖宗教」を創設し、彼自身を神格化しまし


    黄色のハイライト | 位置: 3,082
    イエズス会が日本征服計画、さらにカトリック化した日本軍を使った中国征服計画を検討していたことについては、慶應義塾大学の高瀬弘一郎氏が『キリシタン時代の研究』(岩波書店) で明らかにしてい


    黄色のハイライト | 位置: 3,135
    この伴天連追放令の二日前、秀吉は日本人向けの「 覚」を発しています。これを読めば、秀吉の意図が明確になるでしょ


    黄色のハイライト | 位置: 3,136
    ・キリシタン入信は個人の自由(「その者の心次第となす


    黄色のハイライト | 位置: 3,140
    ・中国、南蛮、朝鮮へ日本人を売ることを禁ず。人身売買の


    黄色のハイライト | 位置: 3,169
    マニラ港を出港したガレオン船のサン・フェリペ号は、日本近海で暴風にあい、航行不能となって土佐(高知県) に漂着しました。土佐の大名である 長宗我部元親 は、不審船として乗組員を拘束し、秀吉に報告しました。  秀吉は五奉行(前田玄以、浅野長政、石田三成、 増田長盛、 長束正家) の一人である増田長盛を土佐に派遣して乗組員を尋問し、積荷の没収を通告します。水先案内人(航海長) フランシスコ・デ・オランディアはこれに憤り、世界地図を示してスペイン領土が広大であること、日本が小国であることを語ります。 「スペインはいかにかくも広大な領土をもつに至ったか?」という長盛の誘導尋問に対し、オランディアは「スペイン王はまず宣教師を遣わし、布教とともに征服事業を進める」と口を滑らせまし


    黄色のハイライト | 位置: 3,182
    オランディアの証言は日本側の記録にはなく、長崎のイエズス会士が組織した調査委員会の証言として出てきます。フェリペ二世はたしかに日本征服を計画していましたが、無敵艦隊の壊滅で実現不可能になっていたのは、前述のとおり


    黄色のハイライト | 位置: 3,185
    殉教者はすべてスペイン系のフランシスコ会士と日本人信徒であり、イエズス会は一人の逮捕者も出していません。つまりこの事件は、日本布教を独占してきたイエズス会と、スペインの野心を疑う秀吉によってフレームアップされ、フランシスコ会弾圧に利用されたというのが真相だったよう


    黄色のハイライト | 位置: 3,366
    軍事大国日本の台頭は、イエズス会とスペイン王室によるアジア征服計画を挫折させました。十七世紀に入ると新教国オランダ・イギリスが東アジアに来航し、日本では新たな統治者となった徳川家がこれと対峙し


    黄色のハイライト | 位置: 3,410
    しかし大坂城でアダムズとヨーステンを尋問した家康は、彼らを外交顧問として採用します。イギリス人のアダムズは、十二年前のアルマダ海戦でフランシス・ドレークの配下として従軍したベテラン航海士でし


    黄色のハイライト | 位置: 3,412
    スペインの暴虐に関する彼らの報告は、スペインの世界支配に協力してきたイエズス会宣教師の口からは聞けない話でした。日本の政策担当者が、初めて客観的な世界情勢を知った瞬間といえるでしょ


    黄色のハイライト | 位置: 3,419
    東京駅東口の「八重洲」という地名は、ヤン・ヨーステンの屋敷跡に由来してい


    黄色のハイライト | 位置: 3,495
    台車は近江国友の鉄砲鍛冶につくらせ、また堺の鉄砲鍛冶である 芝 辻 利 右衛門 に命じて、カルバリン砲をモデルに砲身三メートルの大砲をつくらせました。東京の靖国神社の 遊就館 にフランキ砲と並んで展示されているのが、この芝辻砲で、国産大砲の第一号といわれています。このほかに、携帯用の「抱え 大筒」三〇〇丁が集められまし


    黄色のハイライト | 位置: 3,529
    大坂城にあった大友氏のフランキ砲「国崩し」は幕府に接収され、幕末に北方防衛のため蝦夷地へ送られましたが、ロシア軍に奪われました。現在、サンクトペテルブルクの軍事博物館に展示されているフランキ砲には、大友宗麟の洗礼名「ドン・フランシスコ」を意味する「DF」の刻印があり


    黄色のハイライト | 位置: 3,534
    「元和偃武」──「元和」は年号、「偃武」は「武器を収める」。大坂の陣により、戦国の世が最終的に終わったことを意味する言葉


    黄色のハイライト | 位置: 3,548
    伴天連追放令の翌年(一五八八年)、秀吉は刀狩令と海賊 停止 令を発しまし


    黄色のハイライト | 位置: 3,628
    オランダとイギリスの東インド会社の植民活動が、日本人傭兵と日本製の武器に依存していたことは、東京大学史料編纂所の加藤栄一教授の研究(『幕藩体制の形成と外国貿易』校倉書房) が明らかにしまし


    黄色のハイライト | 位置: 3,648
    オランダからの請願もむなしく、秀忠の禁令は貫徹されます。松浦氏によって平戸での外国船臨検が強化され、多くの武器が没収されまし


    黄色のハイライト | 位置: 3,662
    当時はオランダが世界貿易の五〇%を握る経済大国であり、弱小国家だったイギリスは、オランダを恐れて東南アジアから撤収し、インド貿易に専念します。この事件の影響で平戸のイギリス商館も閉鎖され、オランダが対日貿易を独占することになり


    黄色のハイライト | 位置: 3,839
    ポルトガル人が去った出島には、平戸からオランダ商館が移され、細々と貿易を続けました。東南アジアでは暴虐の限りを尽くしたオランダ人が、長崎に来るとおとなしくなり、オランダ商館長は毎年、江戸まで出向いて将軍のご機嫌をうかがい、幕府に国際情勢に関する報告書( 阿 蘭 陀 風説 書) を提出していたのです。日本征服は不可能であり、貿易による利益を確保したほうが得策と判断したからでしょ


    黄色のハイライト | 位置: 3,856
    のちに「鎖国」と呼ばれるこの政策は、外国船の襲来時にはいつでも大軍を動員できる圧倒的な軍事力が背景にあることで、可能となったの


    黄色のハイライト | 位置: 3,858
    「鎖国」時代の日本は、重武装中立国家でした。幕府の中枢では、オランダ人から得た情報で、フランス革命も、ナポレオン戦争も、アヘン戦争も知っていましたし、ペリーが来ることも事前に知っていたの


    黄色のハイライト | 位置: 3,867
    一七三三(享保十八) 年旧暦五月二十八日、八代将軍徳川吉宗は江戸の隅田川で慰霊祭を行ないました。前年の「享保の大飢饉」の犠牲者を弔うため川には灯籠が流され、両国橋周辺では花火が打ち上げられました。  のちに「両国の川開き」と呼ばれ、浮世絵にも描かれた花火大会の始まり


    黄色のハイライト | 位置: 3,900
    一七一一(正徳元) 年には、六代将軍家 宣 の命を受けて隅田川で「流星花火」を打ち上げ、一七三三(享保十八) 年に始まる「両国の川開き」でも、主役を務めたのは鍵屋弥兵衛でし


    黄色のハイライト | 位置: 3,903
    屋号の「鍵屋」は、お 稲荷 さんの狐がくわえている「鍵」と「玉」に由来するもので、のちに暖簾分けした番頭の清七は「玉屋」と称します。  こうして両国橋を境に上流を鍵屋、下流を玉屋が担当し、花火を競うようになったの


    黄色のハイライト | 位置: 3,908
    一七四九年、オーストリア継承戦争の講和を祝う式典と花火大会が、ロンドンのテムズ河畔グリーン・パークで開かれました。  この式典のためにヘンデルが作曲したのが「王宮の花火の音楽」です。ヘンデルは、イギリス王としてドイツから迎えられたハノーファー選帝侯に仕える宮廷作曲家で、主君に従ってイギリスに渡り、帰化していまし


    黄色のハイライト | 位置: 3,959
    中華文明は換骨奪胎されて日本文明となり、武士団という大陸国家にはない戦士階級を生み出し、元寇の際には独力でこれを撃退しまし

    Note:個人的な体験で、台湾人と話してこれを実感。中華には武士階級がなく、なぜ武士が政権を取れたのかときかれた。

    黄色のハイライト | 位置: 3,960
    大航海時代という「ヨーロッパ人の襲来」に際しては、鉄砲という新兵器をたちまち国産化し、西欧諸国を凌駕する軍事大国になることで、「鎖国」を可能にしまし


    黄色のハイライト | 位置: 3,962
    日本が太平の世を謳歌していたあいだに、イギリスを筆頭とする西洋諸国は軍事革命にいそしみ、十九世紀半ばには日本との技術差が完全に逆転しまし


    黄色のハイライト | 位置: 3,965
    ここから始まる日本の近代は、十六世紀に起こったことと同じでした。最先端の軍事技術をマスターし、半世紀のあいだ、軍事的劣勢を挽回すべく日本人は死にもの狂いで近代化に奔走しまし


    黄色のハイライト | 位置: 3,971
    なぜアジアで日本だけが植民地化を免れ、先進国の一員となれたのか?  すでに十六世紀の戦国時代、日本人は欧州列強と肩を並べる軍事技術を手にしており、「鎖国」というブランクを経ても潜在能力は変わらなかったから

  • - 日本の歴史の構造を読み取るように語りつつ、世界史の中の関連事象と紐付けて説明したり、世界史の流れがどう日本の歴史に影響を与えたのかを語っており非常に興味深い内容だった。
    - タイトルの「超」「覚醒」がうさんくさく、また序盤の日本人の起源の話が長くて、あれ?トンデモ本かと最初は不安になったのだが、色々論拠を示しながら論を組み立てている感じで途中から印象が変わった。
    - ***
    - 神話が何らかの史実の反映であると仮定すれば、そこでは明らかに「支配民族の交代」があったように思えます。「高天原」を神話どおりに「天界」と解釈すれば、「天津神は宇宙人」となってしまいますが、仮に「大陸」のどこかとすれば、この物語は、大陸から日本列島への民族移動を意味していると解釈できます。
    - それでは、縄文から弥生への交代は、征服だったのか? それとも、平和的な移民だったのか?  征服の場合、先に見たチンギス・ハンの例や、スペイン人の中南米征服の例のように、征服民族のY染色体が先住民のY染色体を圧倒します。また、侵入経路に征服民族のY染色体が濃く残ることになるでしょう。  しかし日本人の場合、先住民にあたるD2(縄文系) が四〇%も残っています。また、大陸からの侵入経路にあたる九州と関東を比較しても、O2とD2の割合に大きな違いはありません。つまり、O2(弥生系) の日本列島侵入はゆっくりした、穏やかなものだったと推定されます。  ミトコンドリアDNAの調査に戻れば、現代日本人は、縄文人と弥生人の中間のパターンを示していました。弥生人は男だけがやってきたのではなく、女性も多く、縄文系の男たちと通婚していたのです。
    - 日本語が多くの漢語を単語として採用しながら、根幹において「やまとことば」を維持してきたことは、大陸国家の征服を一度も受けず、Y染色体D2を維持してきたことと通じます。
    - 「平安」とは、平安京(京都) に都があった時代というだけの意味なのです。中央政府は藤原氏によって私物化され、地方長官は任地に赴かず、地方では無政府状態が続いていました。いわば、いまのシリアやソマリア、アフガニスタンのような状態のなかで、有力者が武装して自警団を組織し、これが武士団に発展していったのです。
    - 律令制度のもとでは、班田(国有地) を貸与された農民に納税と兵役の義務を負わせ、軍団を編制するという建前がありました。しかし、田村麻呂の遠征を最後に軍団──すなわち正規軍の編制さえも困難になったのです。  正規軍をもたない国が他国からの侵略を免れたというケースは、標高四〇〇〇メートルの高原に守られたチベットを別にすれば、ユーラシア大陸の歴史にはありません。しかし海に守られた日本は、大陸国家からの侵攻を免れ、武家政権が登場する十二世紀まで、「非武装国家」として存続できたのです。
    - 古代の日本は、大唐帝国という圧倒的なパワーに飲み込まれまいと、もがきながら国家形成を行ないました。  白村江の戦い(六六三年) と壬申の乱(六七二年) で唐への政治的従属関係(冊封関係) を断絶し、遣唐使の廃止(八九四年) で文化的な自立(国風文化) を達成しました。  この間、隋唐帝国の脅威に対抗しうる中央集権国家を実現するためには、当時のグローバル・スタンダードである律令や公地公民制を採用せざるをえなかったのです。これは、近代日本が欧米列強に対抗するため、欧米化を進めた戦略と類似しています。  とはいえ、「律令国家体制」という東アジア・グローバリズムをそのまま古代日本に導入することは、木に竹を 接ぐような無理な試みでした。竹は木の幹から養分を得られず、枯れてしまいます。律令国家もたちまち形骸化していきました。  それに代わって、土台の「木の幹」から、新たな枝が伸びてきたのです。  武士(サムライ) の台頭です。
    - 宋という国は、国土の半分を失ってもまだ、文治主義を続けていたのです。  領土的野心をもつ隣国に対し、軍事対決を避けて経済協力を行なうことで平和を保つという方法がどこまで効果があるのか、宋の事例を教訓にすべきでしょう。
    - 流通が莫大な富を生むことを学んだ室町幕府が、経済大国である元との貿易に目をつけるのは、自然な流れでした。
    - ・ポルトガル商人と結ぶキリシタン大名が、日本人奴隷を輸出していたこと。 ・イエズス会が、スペイン国王に日本派兵を要請していたこと。  こうした事実が日本史教科書では軽視、あるいは無視されてきたのはどうしてでしょうか。  日本におけるキリシタン研究をリードしてきたのは、ラテン語の文献が読めるカトリック系の大学の研究者たちでした。  彼ら自身の多くがクリスチャンであり、キリスト教という「真理」をこの国にもたらした宣教師たちの苦難と殉教を称賛し、これを弾圧した秀吉や江戸幕府の圧制を糾弾する、という価値観に従って歴史を記述してきたからでしょう。
    - 大航海時代という「ヨーロッパ人の襲来」に際しては、鉄砲という新兵器をたちまち国産化し、西欧諸国を凌駕する軍事大国になることで、「鎖国」を可能にしました。  日本が太平の世を謳歌していたあいだに、イギリスを筆頭とする西洋諸国は軍事革命にいそしみ、十九世紀半ばには日本との技術差が完全に逆転しました。この極東の「征服しえない国」が「征服可能な国」に変わったとき、ペリー艦隊が浦賀沖に 投錨 したのです。
    - なぜアジアで日本だけが植民地化を免れ、先進国の一員となれたのか?  すでに十六世紀の戦国時代、日本人は欧州列強と肩を並べる軍事技術を手にしており、「鎖国」というブランクを経ても潜在能力は変わらなかったからです。弱肉強食の帝国主義の時代に日本が近代化を成功させ、植民地化を免れたのは、こうした長い歴史的背景による必然の結果だったといえるでしょう。

  • この手の通史本は、気になる出来事のキーワードや時代背景、各国の動きの大枠の流れをその都度つまみ食いするように読んでる。ああ、そうだった!そうだった!と記憶の引き出しからアルバム取り出して眺めるように。

  • 筆者は日本史専攻の世界史教師(駿台予備校など)という方で、標題の本書を執筆するのに最適な人。この本で日本史を捉え直そうという意図で手に取った。世界の中での日本を見るという視点はなかなか新鮮で得るものが多い。以下、目次に沿った要約。
    <第1章 そもそも日本人はどこから来たのか?>
     縄文人、弥生人;アイヌ民族
     「混血説」「変形説」「二重構造モデル」
     DNA解析:ミトコンドリアとY染色体→「混血説」に軍配
    <第2章 神話と遺跡が語る日本国家の成り立ち>
     稲作伝来は紀元前1000年縄文晩期;周王朝時代
     稲のDNA解析により南西諸島から陸稲;長江下流域から水稲伝来
     「国譲り神話」:オオクニヌシからアマテラスへ平和的政権移行
    <第3章 巨大古墳の時代と「東アジア版民族大移動」>
     西欧:4世紀末のフン族(=北匈奴?)の侵入→ゲルマン民族大移動(375年)→西ローマ帝国の滅亡(476年)→フランク王国による統一(800年)
     中国:黄巾の乱(184年)→後漢の滅亡、三国時代→晋による統一→南匈奴の侵略による永嘉の乱(307~316年)→南北朝時代(北魏、東晋)
     朝鮮:高句麗建国(313年)南下→百済、新羅と朝鮮三国時代
     日本:神功(じんぐう)皇后の三韓征伐(391年);大阪平野の干拓と古墳群
    <第4章 白村江の敗戦から「日本国」の独立へ>
     百済から仏教伝来→蘇我氏の台頭→蘇我馬子+聖徳太子体制→遣隋使派遣
     大化の改新(645年):中大兄皇子+中臣鎌足
     百済滅亡(660年)→百済再興に援軍を送る
     白村江の戦い(663年):唐と新羅連合軍に敗退
     遣唐使の再開(670年):唐と結んで新羅を伐つ外交方針
     壬申の乱(672年):親唐派(大友皇子)と親新羅派(大海人皇子)の戦い→遣唐使中止
     →天武天皇の頃から「天皇」「日本」正式採用→大宝律令(701年)
     →遣唐使再開(702年):国号「日本」をどさくさに紛れて認めさせる
    <第5章 大唐帝国から見た「東方の大国」日本>
     大祚栄(だいそえい)による震国(しんこく)建国(698年)→渤海(713年)へ
     日本はイスラム帝国やチベットと同等の扱い
     藤原仲麻呂の新羅遠征計画の頓挫
    <第6章 動乱の中国から離れて国風文化が開花した>
     平安京と地方の無政府状態
     班田収授法→墾田永年私財の法(743)→荘園と不輸不入
     桓武天皇の改革:坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命
     安史の乱(755-763年)による唐の衰退
     黄巣の乱(875-888年)→朱全忠によるクーデター→貴族制廃止
     →五代十国(907-960年)、耶律阿保機による契丹(遼)独立
     遣唐使の廃止(894年):菅原道真の建議→国風文化の開花
    <第7章 日本史を東アジア史から分かつ「武士の登場」>
     契丹独立→渤海滅亡(926年)
     武士の登場:平将門の乱(939-940年)、藤原純友の乱(939-941年)
     刀伊の襲来(1019年)→藤原隆家らが撃退
     伊勢平氏:平忠盛、平清盛→瀬戸内海賊統率、太政大臣→日宋貿易開始
     以仁王の平氏追討令→源義仲、源頼朝の挙兵→平氏滅亡@壇ノ浦
    <第8章 シーパワー平氏政権vsランドパワー鎌倉幕府>
     中国:国家社会主義(隋唐帝国)→市場経済の復活(五代十国、宋代)
     宋→金・南宋(靖康の変1125-6年)→南宋滅亡(1279年)
     元寇:文永の役(1274年)北条時宗、弘安の役(1281年)
    <第9章 国際商業資本が支えた室町グローバリスト政権>
     鎌倉幕府は経済失政によって滅んだ:永仁の徳政令(1297年)→信用経済の破壊
     建武の新政(1333年):後醍醐天皇
     室町幕府(1338年)と南北朝統一(1392年):足利尊氏→義満
     日宋貿易から続く日元貿易:寺社造営料唐船(東福寺船、建長寺船、天龍寺船)
     明の建国(1368年):朱元璋=洪武帝。倭寇を制圧。
     日明貿易:足利義満;日本独立を捨て朝貢貿易=勘合貿易
    <第10章 ポルトガル産の硝石を求めた戦国大名たち>
     パクス・モンゴリカ(モンゴルの平和)→マルコ・ポーロの『東方見聞録』
     明の永楽帝による鄭和艦隊の西方遠征
     大内氏による石見銀山開発、博多商人神屋寿貞による灰吹法導入
     種子島への鉄砲伝来(1543年)、鉄砲の国産化、火薬原料の調達
     イエズス会によるキリスト教の布教と日本人奴隷の輸出
    <第11章 豊臣秀吉の伴天連追放令と朝鮮出兵>
     イエズス会とスペインによる日本征服計画→秀吉の伴天連追放令(1589年)
     スペインの凋落と日本征服の中止
     秀吉の朝鮮出兵(文禄の役1592~93年、慶長の役1597~98年):明の征服目的
    <第12章 「鎖国」を成立させた幕府の圧倒的な軍事力>
     関ヶ原の戦い(1600年)とキリシタン大名の処分
     スペインの衰退とオランダ・イギリスの台頭
     オランダ独立戦争(1568~1648年)
     アマルダ海戦(1588年):スペイン無敵艦隊の壊滅
     オランダ東インド会社(1603年~);イギリス東インド会社(1600年~)
     ウィリアム・アダムス(三浦按針)とヤン・ヨーステン(耶揚子=八重洲)
     大坂冬の陣・夏の陣(1614-15年):大砲による攻城戦(カルバリン砲と芝辻砲)
     一国一城令、武家諸法度、鎖国→朱印船貿易(1604年)
     田中勝介らの太平洋横断→メキシコのアカプルコ入港
     支倉常長らの慶長遣欧使節団(1613年)→アカプルコ→スペイン、ローマ
     浪人の東南アジア進出→傭兵として活躍;タイの山田長政の活躍と失脚
     秀忠の禁教令(1612-13年)
     家光の鎖国令(1633年~39年):第一次~第五次→ポルトガルとの断交
     島原の乱(1637~38年):ポルトガル独立戦争中のため,スペイン・ポルトガルの支援を受けられず
     重武装中立としての鎖国政策:オランダを窓口とした西洋文化の導入・消化
    <終章 徳川の平和、そして明治維新を可能にしたもの>
     大砲と花火
     徳川の平和(パクス・トクガワーナ)による軍事技術の停滞
     ペリーの黒船来訪(1853年)@浦賀沖
     外国技術の摂取と近代化

  • 日本の誕生頃から明治維新くらいまで。中世までは世界と言えば中国(と朝鮮半島)との繋がり。トピック毎にブツ切れではなく、キチンと流れとして意識された作りはとても読み易い。教科書が教えない歴史は、著者による歴史観というか思想が入り込み、トンデモなのか受け入れられた考えなのかの判別が出来ないところが常につきまとう悩み。色々読んで、日本人として日本の歴史を学ばないとな。

全21件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

茂木 誠(もぎ・まこと)
ノンフィクション作家、予備校講師、歴史系 YouTuber。 駿台予備学校、ネット配信のN予備校で世界史を担当する。著書に、『経済は世界史から 学べ!』(ダイヤモンド社)、『世界史で学べ! 地政学』(祥伝社)、『超日本史』 (KADOKAWA) 、『「戦争と平和」の世界史』(TAC)、『米中激突の地政学』(WAC 出版)、『テレ ビが伝えない国際ニュースの真相』(SB 新書)、『政治思想マトリックス』(PHP)、『「保守」 って何?』(祥伝社)、『グローバリストの近現代史』(ビジネス社・共著)、『バトルマンガ で歴史が超わかる本』(飛鳥新書)、『「リベラル」の正体』(WAC 出版・共著)など。 YouTube もぎせかチャンネルで発信中。

「2022年 『ジオ・ヒストリア 世界史上の偶然は、地球規模の必然だった!』 で使われていた紹介文から引用しています。」

茂木誠の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×