ホモ・ルーデンス 文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み (講談社学術文庫) [Kindle]
- 講談社 (2018年3月11日発売)
- Amazon.co.jp ・電子書籍 (389ページ)
感想・レビュー・書評
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NDC10版
209 : 世界史.文化史詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
人間活動の本質が遊びであり、文化の根源には遊びがあることを説いた本。
「遊びのおもしろさとは何か」、「どうして人は遊びに熱狂するのか」を歴史や文化、民族、言語などさまざまな視点から読み解いていきます。 -
2022/7/24
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言語学・歴史学・民俗学の統合という試みには圧倒される。とりわけ言語への造詣の深さは、語源論の一つ一つにさらなる研究が必要ではあろうが(実際に存在しているが)、本書に重厚さを加えている。
以下疑問点。
「真面目」と「遊び」を対立的に論じるふしがあるが、「遊び=真面目でないこと」と筆者が否定したい議論を意識しすぎて筆者自らが足を取られているような印象を受ける。どこまでが高貴な遊びであり、どこからが低俗で偽りのものなのかというのでいいのではないか。
文化に遊びがまだ多く見られる文化を「原始古代的文化」「未開文化」と呼んでいるが、この定義が積極的にされていない。いわゆる近代社会と何が違うのか。可逆的なものなのか。
祭祀、裁判、戦争、…と遊びとの関係が考察されてゆくが、連想論法・いわゆる金平糖論法(金平糖はまるい、まるいはうさぎ、うさぎは白い…が金平糖=白いになってしまう)になっていないか。これによって遊びの定義が緩くなってしまって、遊びとはなにか分からなくなってくる。闘技は遊び、裁判は闘技、よって裁判は遊びで文化も遊びといった感じがする。遊びは聖なるもの、聖なるものは遊び、闘技・祭祀etc. は聖なるもの…と言うように。
シュミットをちゃんと読んでいないので恐縮だが、友敵理論をやや曲解しているむきもあるのではないか。たしかにホイジンガの指摘するように、シュミットは国家同士は必ず敵になるとしている。しかし、シュミットは敵であると認識することによって、相手の人間としての尊厳を踏み躙らないという一線を引いている。この辺は特に勉強し直したい。