- Amazon.co.jp ・電子書籍 (643ページ)
感想・レビュー・書評
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昔、友人にすべては01(ゼロイチ)で表現できると言われ、進路変更したことがある。でも、その後、転回することになる。現在の友人には、霊の話を聞かされているが、今の私には、その道に行くモチヴェーションもない。結局、科学主義が私の現状である。今、統計の勉強をしているのも、そのためだ。以前、『統計学が最強の学問である』というシリーズ本で、人工知能は人間には理解されないが、統計は人間に理解されやすいようになっている、という利点が書かれていた。
でも、サピエンス(人間)に理解されるかどうかがもっとも重要なことなのかと問われると、困ってしまう。自分がサピエンスであるから、その視点でしか物事を見えないような気がする。それが現状である。
知能と意識を区別していたところに感銘を受けた。確かに、人工知能は時代の申し子であるが、人工意識はあまり聞いたことがない。私は昔から、自己意識は必要ないという路線で生きてきた。意識もまたどこまで必要なのか不思議に思ってきた。本当のところを言うと、知能も必要ないのではないかとさえ思っているのだが、とにかく、万事が万事、うまく動けばいいという発想だった。それが、知能で動くのか、意識で動くのか、それはどうでもいい、そう考えてきた。しかし、結局、何かで動くと考えなければならない気もする。意識の価値を少しでも知りたい。
そういえば、チャーマーズの『意識する心』という本もあった。仮に、すべてをコピーすることができるとするならば、意識の価値はなくなってくる。なぜなら、全く同じ意識なら、もうここにあるのだから、さらにもう一つは必要ない。また、他のすべてはコピーされるけど、意識だけコピーされないのであれば、そして、まともに動くなら、意識なんか必要なかったということになる。
つまり、要約すれば、「意識は共有されず、知能ばかり共有される」:そこがポイントかも知れない。
霊を信じている友人は、きっと、意識も共有されると信じているだろう。テレパシーの話もよく話した。だが、どういう要件を満たせば、テレパシーが成功したと言えるだろう。
だがしかし、神を絶対視していた時代があったとすれば、これからの時代も変わりつつあるはずだし、価値をどこにおくかも変わってくるだろう。そのとき、何がいちばん大事なのかを深く心に刻んでおきたい。
その変化というのも、カタストロフィのようにやってくるのでなく、徐々にやってくるというのがこの本を読んでの読後感である。 -
サンプルを読みとても興味を魅かれ、合本kindle版が安くなっていたので入手。(2021.11.15)
※2021.10.30購入@amazon、kindle版 -
Kindleで読み始めたのだが、なかなか進まず、そのままになっていたのを、オーディブルで流し聞き。
飢餓や感染症ではなく飽食で死ぬ時代。
技術進歩が良いのか悪いのか、これからどんな時代になっていくのか。何もかも「データ」で判断する、データに支配される世界になっていくのか。
そんなことをぼんやり考えながら聞きました。日本で翻訳が発売されてから4年。また、少し時間を経て読んでみても面白いのかも知れない。 -
人類のこれからの歴史について。
人間至上主義、データ至上主義とかキーワードがいろいろあり、特に後半が面白い。 -
サピエンス全史の最後の方で、サピエンスは自然選択の法則を打ち破り、生物学的に定められた限界を突破し始めているため、サピエンスはいずれシンギュラリティ(特異点)に至るとハラリ自身が言及していました。
ホモ・デウスはその内容の延長線上が中心という感じで、人類が将来的に進化していく可能性についてまとめられています。
将来起こりうる可能性があり、その影響を受けてしまいかねない世代だからそう感じたのかもしれませんが、サピエンス全史とジャレドダイアモンドの銃・病原菌・鉄を事前に読んで面白いと思った人にはとくに勧めたい本だという印象です。 -
【要約】
人類の未来に対する予測を書いた本。
過去、人類は飢餓・疫病・戦争を徐々に克服してきた。
今後、人類は不死・幸福・神性を目標にするかもしれない。そして人類は自らをアップデートし、一部の人類がホモデウスとなるかもしれない。そしてテクノロジーの進歩とともに馬が車に取って代わられたように、ホモデウスにとって多くの人類は無用の長物となるかもしれない。
【感想】
AIが作成した音楽の存在は全く知らなかった。人間の情動的側面はAIでは代替できないと思っていたが、人間をアルゴリズムと考えれば代替しうるのだというのは、衝撃的だった。
本筋とは関係ないが、本書のあとがきで書かれている「歴史を学んでも、何を選ぶべきかはわからないだろうが、少なくとも、選択肢は増える」という言葉が印象的だった。歴史は興味を持って勉強している分野の一つなので、更なる動機づけになった。 -
歴史学者として、これまでの人類史を総括しつつ、現在の先端テクノロジー、特に人工知能とそのアルゴリズムが人の脳を凌駕するかも知れないタイミングで、今後を冷徹に展望する。
あくまで西洋的な視点とは感じる。特に宗教については、その功罪もふくめて厳しいコメントが多い一方で資本主義の功績を高く評価している。その結果、もしくはその延長線上として、人類が制御できないほどAIに傾倒し、逆にその呪縛に支配されるような見方のようだが、果たしてそうだろうか。人知及び人類の「宗教的」な思想は、そう単純ではないように思う。確かに脳の動きは究極的にはアルゴリズムで説明できるかも知れないし、今までのところ人類(とその「アルゴ」)はまだ効率性と物質的豊かさを最優先しているように思う。それが続けば、脳より優れたアルゴが登場すれば、人間はその軍門に降るのかも知れない。
しかし、人類の次の進化は、異なる可能性もあると思われる。奇しくもコロナが起こり、SDGsの方向性も出現している。人類は自らの傲慢さを振り返る謙虚さも持ち合わせている。日本人や日本の伝統的企業は特にそうではないだろうか。 -
生物工学と情報工学の発達によって資本主義や民主主義、自由主義が崩壊すると予見する。本書はディストピアを予見した書籍と位置付けられている。
権力や財力を持った一部の人間が生命工学を駆使して自分達をアップデートする可能性を予見する。これは一部の人々に大多数の人々が支配されるディストピアである。一方でもう一つの予見であるデータ教については、それほどディストピアと感じなかった。一部の人間のアップデートと異なり、全てがデータに過ぎないデータ教は万人に対して公平であるためである。むしろデータの民主化という好ましい方向になる。
一部の人間のアップデートというディストピアの背景には医療の概念的な変化がある。20世紀の医療は病人を直すことを目指していた。ここには誰もが享受でき、享受すべき心身の健康の標準的な基準があることを前提としていた。もし誰かがその基準を下回ったら、その問題を解決し、その人を他の誰とも同じになることを助けるのが医師の仕事であった。これに対して21世紀の医学は健康な人をアップグレードにすることに狙いを定めつつある。これは一部の人々を他の人々よりも優位に立たせようとするエリート主義とつながる(下巻185頁)。
これは林田医療裁判(平成26年(ワ)第25447号損害賠償請求事件、平成28年(ネ)第5668号損害賠償請求控訴事件)で考えさせられる。林田医療裁判では診療義務を果たしていないとして患者の長女が長男夫婦と病院を訴えた裁判である。患者の長男は「延命につながる治療を全て拒否」した。病院は長女に確認せずに、それをキーパーソンの判断とした。
長女側は病院側には標準的な医療を行う義務があるとの主張に力点を置いていた。長男が何を言ったかは無関係に、標準的な治療水準というものがあり、それを果たしていない病院は義務違反という論理を強調していた。これは『ホモ・デウス』の20世紀的な医療観である。
しかし、判決では一標準的な治療水準は問題ではなく、長男が「延命につながる治療を全て拒否」する意向を出している中で、その意向に従うことが是か非かという問題意識で議論していた。裁判後に林田医療裁判を取り上げた第12回「医療界と法曹界の相互理解のためのシンポジウム」でも病院がキーパーソンを誰にするか家族各人に確認しなかった点や病院側も主治医一人ではなくチーム医療や倫理委員会で判断しなかった点に問題があるのではないかとの意見が出ている。標準を定め、それを普及させたり、標準のレベルを押し上げたりするのではなく、個々人の意思に合致するかを重視する傾向が21世紀に強まっていることを感じる。