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感想・レビュー・書評
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日本の文芸批評史に大きな足跡を残した中村光夫の代表作である。発表は戦後間もない1950年、中村39才の時であるが日本の私小説的伝統への痛烈な批判の書だ。中村の苛立ちは日本の私小説に見られる「他者の不在」に向けられる。そこに描かれた「他者」は作家の自己を写し出す鏡に過ぎず、ナルシスティックな自閉空間における脇役でしかない。現実の世界では人は必ずしも自己の思い通りにならず、時に自己の存在を否定する生身の「他者」との抜き差しならぬぶつかり合いの中で、自己を直視し、幻滅し、絶望もすれば、生まれ変わりもする。ヨーロッパ文学の伝統を踏まえた中村が文学に求める「思想」とは、こうした「他者」とのリアルな相克の中で鍛えられるものだ。
この本を最初に読んだ時の衝撃は今も忘れられない。評者にとって以後小説を読む際の立脚点になったとさえ言える本だが、改めて読み返すと良くも悪くも近代的自我の確立を最大の課題と見定めた戦後批評の一典型として、やや突き放した評価も必要だろうと思う。 中村の理想としたヨーロッパ近代が生み落とした孤独な自己、それは我々が近代という道を歩み出した以上、好むと好まざるとに関わらず、引き受けねばならない宿命なのか。それとも近代が歴史的・相対的なものであるとするならば、各々の文化には各々の自己の「かたち」があり、「他者」との関係性もまた然りと言うべきなのか。
これは中村も参加したかの座談会『 近代の超克 (冨山房百科文庫 23) 』のテーマでもある。もちろんそう簡単に答の出せる問題ではないが、中村の立場は座談会に提出した論文『「近代」への疑惑』に比較的明瞭に示されている。要点を言えば、近代の超克を語る前に、超克すべき近代が日本にあったのかを直視せよ、さもなければ借物の西洋崇拝を借物の西洋否定で置き換えたに過ぎぬ・・・。私小説批判の文脈に引き戻せば、近代的自我の何たるかを骨身にしみて理解しない者がその克服を安易に語るべきでない、ということになる。
「近代の超克」が可能であるとすれば、近代を己が血肉と化した上で、体内から沸き上がる矛盾を克服するかたちでしかそれはあり得ないというのが中村の真意だろう。だがそうした論理自体が西洋的知性を身に付けた知識人の指導性・特権性を暗に想定するものであり、庶民の現実感覚から遊離していると反撃することもまた可能だ。「文学」が「思想」を鍛える場として自明視された中村の時代ならまだしも、今日では社会における「文学」の位置づけも大きく変わっている。中村の課題意識が今なお「文学」が引き受けるべきテーマとして有効と言えるのか。問いは開かれたままである。詳細をみるコメント0件をすべて表示