「高学歴ワーキングプア」からの脱出 (光文社新書) [Kindle]

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  • 高学歴ワーキングプアシリーズ三部作の最終章。「人事は選ぶ側の論理」なのだから、それを前提に生きることが何よりも大切。この考え方は、教育に限らず、あらゆる業界に通ずるものだと思う。

  • (2022年8月28日 日曜日記述)

    「高学歴ワーキングプア」からの脱出 2020
    2020年5月30日初版1刷発行
    2020年5月29日電子書籍版発行

    水月昭道氏による著作。
    水月 昭道(みづき しょうどう、1967年 - )は、日本の環境心理学者・評論家・浄土真宗の僧侶、筑紫女学園理事・評議員。福岡県生まれ。

    略歴
    1967年福岡県生まれ。筑紫女学園の創設者・水月哲英の孫。
    福岡大学附属大濠高等学校卒業後、龍谷大学に進学するが中退。
    その後、バイク便ライダーとして働く。
    1997年長崎総合科学大学工学部建築学科卒業。
    その後、九州大学・研究生を経て、
    2004年九州大学大学院人間環境学府都市共生デザイン専攻博士課程修了
    「子どもの「遊びの場」の構造に関する研究 通学路における道草遊びと道環境とのかかわりから」で、九州大学博士(人間環境学)。
    2006年浄土真宗本願寺派で得度。
    2007年『高学歴ワーキングプア』で、博士号をとりながら就職できない者の激増を指摘し文教政策を批判した。立命館大学衣笠総合研究機構研究員・同志社大学非常勤講師。
    2012年、学校法人筑紫女学園で事務員として勤務。2013年同評議員。

    立命館大学専門研究員を経て、現・立命館大学客員教授。
    学校法人筑紫女学園理事。
    浄土真宗本願寺派西光寺住職

    「この問題は解決しない。うやむやにされて終わるだろう」という帯に書いている文が
    あまりに救いがない。そしてこの問題の未来を実に具体的に暗示している。

    高学歴ワーキングプアモノとしては今回が最後になるのだという。
    まあ、テーマ的には繰り返し指摘されてきた問題であり、まるで解決していない日本の恥部暗部を敷き詰めた感じはある。(外国人技能実習制度と似ている。続けるべきではないが、止めることが出来ない日本という国家の暗部)
    著者は2007年に光文社新書で出された高学歴ワーキングプアという言葉、実態を世の中に広く知らしめた。
    特に文系で大学院に何となく進学すると地獄を見るという実態は大きく変わったとは思えない。

    日本国の研究力低下が時々、ニュースや新聞で報道されるが、時すでに遅し感はある。
    ずっと以前から複雑骨折している所にじりじりと事態が悪化しているのではないか。
    城繁幸氏が2008年頃の本で「君の実家が自営業なら、院に進んでより深い知識を学んでもいい。でもそうでなければ、諦めて就職しなさい」と指摘した。
    状況は今でも大差なのだろうし。その実家が(というか日本の大学生の親たちの貯蓄、収入が)以前よりは伸びていない、下がっている現実がある。だから余計に事態は深刻だ。
    若い世代(1984年生まれの私と近い世代)の教授、准教授も世の中に生まれ、注目を浴びる発信をしている人もいるが、それは相当な幸運に恵まれた結果としてなのだ。

    自浄作用が無いのは何も政治や官界だけではない。アカデミアの方がずっと悪い。
    無責任な綺麗事を世間に述べている分、ずっと悪質だろう。

    唯一の救いは著者が研究道の中で仮に志半ばで(コロナ等で)死んだとしても何一つ後悔は無いと書いている所か。


    印象に残った点

    そしてある日、後ろを振り返ると、できあがった道があり、それに満足感を覚えることができたなら、きっと最高の人生だろう。
    そもそも予定調和などないのが人生の本質だろうが、私達現代人は知らない間に、人生とはゴールを設定してそこに至るものという、本来的に成立しようがない無茶な道を歩もうとしている。

    水月)話を聞いて思ったのが、「高学歴ワーキングプア」が出た2007年とあまり状況は変わっていないということ。やはり悪いまま。その中で生き残っていくためには、自分の研究内容をわかりやすく表現していくのが大事だという点も変わっていません。

    水月)研究者というのは、頭のよさも大事ですけど、熱意やしつこさがないと続かないですね。

    私が長く縁をいただいている立命館大学では「生存学」という領域での研究が盛んである。生き残るコツはなんであろうかとそこで聞いたところ、「生き残るには、少しの厚かましさが必要だよ」と教えられた。なるほど、と目からうろこの落ちる思いであった。

    繰り返すが、試験とは選ぶ側にすべての決定権があるシステムなのだ。そこへどうのこうのと言っているばかりではいつまで経っても合格の芽は出ない。試験に通るための裏技を含めた手を打ちながら大人しく採ってもらうのを待つか、そうでなければ意思決定の場そのものをぶち壊して革命を起こすしか無いということを覚えていてほしい。
    (革命→私大医学部受験における女子選抜問題)

    作家の故・野坂昭如氏は「コラムは3つのミで書く。ねたみ・そねみ・ひがみ」

    なにせ、我々ロンダ組はもとより、旧帝大出身でストレートに博士号を取得した博士であっても、見渡せばコンビニでアルバイトをしていたり、肉体労働に勤しんでいたりといった風景が、その頃(2002年頃)ですらすでに珍しくなかった。当時、世間の誰がそんなことを想像できただろうか。

    大学で開講されている科目の半数以上は非常勤講師による

    私はこの問題(高学歴ワーキングプア)はきっとうやむやになって終わるだろうと考えている。その根拠として大きく3つのことを挙げておきたい。
    ①すでに、かつて「高学歴ワーキングプア」の渦中にあった当事者たちは初老の域に達している。残念ながら彼らは社会的な力を持ち得ない状況がずっと続いた。そんな中、自らの苦境をアピールする機会をつくる気力すら萎えつつある。

    ②一方、現在渦中にある若手研究者には情報が行き届いており、十分な覚悟を持ってこの世界に入っている。メンタル面でのマイナスの影響なども以前よりは小さいだろう。すなわち、ここから大きな声があがることもなかろうと想定される。

    ③そもそも、本件は政治マターになりづらい。

    ノーベル賞受賞者らによって、若手研究者の待遇を改善せねば、この国の科学技術に明るい未来はないだろうと機会あるごとに訴えられてきたが、一向に改善される気配はない。

    はっきり言って、大学教員の公募システムはあまりまともには機能していない。そもそも、応募要項も大学間で統一されたものはない。書類に書く内容はどれも同じであるにもかかわらず書式のみが各大学それぞれの形式となっており、毎度、書式設定をやり直さねばならない手間暇ばかり要求される。挙げ句、理由もまったくわからずじまいで落選通知が送られてくる。そんな公募の倍率は平均して100倍なのだから、応募する側の若手研究者の身にもなってほしいところである。
    彼らはただでさえ熾烈な競争を勝ち抜くために論文数などを稼がねばならないのに、しょうもない書類作成に多大なる時間を食われるのは不毛としかいいようがなかろう。それが本当に公平性を保全したものならまだしも、むしろそうでないことが当たり前なのは見てきた通りだ。
    全国各大学の学長さんらは、そのあたりについて統一見解などを共同声明で出されたらいかがだろうか。あまりにも我が国の若手研究者を巡る研究・教育・労働環境は惨めすぎる。このままでは、将来のノーベル賞など夢のまた夢になろう。情けないことにそれだけは自信を持って確かだと言える。


    問題は、それでもなお専任教員への登用が難しいという現実なのである。何しろ、成り上がれずに消えていく人たちの方が圧倒的に多い世界なのだ。それは、相撲やプロ野球などのスポーツの世界にも似ている。いまでは、100人に1人くらいしか正規雇用にありつけない世界。成功するよりも途中で道を変えねばならない人のほうが何倍も多いのだ。
    これがスポーツの世界であれば、プロ野球選手を目指してよいところまでは到達したが、そこで進路変更となった場合、なんらかのツテで会社の一般事務として勤めたりすることは当たり前だろう。あるいは相撲取りなら、ちゃんこ屋を開業するといった、食べていくためのキャリアチェンジは当然のこととされているだろう。ところが、研究者が住む世界ではそれは未だ常識となっていない。
    そうした道を本来模索しなければならないのだが、業界全体での問題意識の共有が不十分なために、ともすれば「こうすればうまくいく」という直線型の方法論ばかりが先立って、その後の(うまくいかなかった場合ー圧倒的多数のケースの)ケアにまで頭が回らず、仕組みそのものもまったく整備されていない。だから、正論ばかりに若手は振り回されてしまいがちだ。
    そうではなく、「まずうまくいかないことのほうが多い」ので、せめてこれくらいのことは頭に入れておくべき、という観点からの若手への語りかけのほうこそが大事になるだろう。


    懇親会に出まくって広く顔を売ったからといって、単純にそれで就職が決まるとは限らないが、そうした場にまず身を置くことからはじめなければ、それこそ絶対に「仕事のご縁」に恵まれるチャンスなども生まれはしないという揺るぎなき事実である。


    研究者というのは、結局のところ「道」なのだ。決して「職業」ではないとおわかりだろう。だから研究とは、これすなわち「生き方」であると、そんなふうに私は今確信するに至っている。

    この道(研究者)に予定調和のルートはない。荒野を、時に道草しながらもまだ見ぬゴールをひたすら目指す。そこに何よりの楽しみと生きている実感を見いだせるのでなければ、やめておいたほうがいい。

    この道(研究者)に入ってもよい者は、過酷な歩みの中にあっても独自の哲学で幸福を見いだせる、いわば特異な精神構造を持つ者に限られる。世間では、そういう人は世捨て人と呼ばれている。研究の道に入るとは、一口に言えば出家するのと同じようなものなのだ。すべてを捨てた生活の中で煩悩も滅却し、涅槃を得ようとするのがその道である。


    確かに昔は研究能力が高い人間を求める傾向が大学には残っていた。しかし、国、公、私立の四年制大学合わせて約750校のほとんどでは、教育能力が高く、また学内行政に積極的に関わってくれる人を歓迎する傾向が強まっている。いわゆる研究大学ー旧帝大、早慶・一橋・筑波・東工大・神戸・広島などを除けば、研究能力だけが高いという人はあまり魅力が無くなっているという。
    学生受けがよく、オープンキャンパスや各地の説明会で、大学の魅力を語れる教員こそが求められている。わかりやすい言葉を用いて、その大学について魅惑のプレゼンテーションを展開できる人が欲しいのであって、世界に通用するような研究者というくくりの人材は、一般的な大学ではとくに必要とされていない傾向が感じられる。

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著者プロフィール

立命館大学衣笠総合研究機構研究員・僧侶。1967年福岡県生まれ。長年、子どもの道草研究に取り組む。無用の用を可視化する作業を通して現代社会文明批評を行い続けている。著書に『子どもの道くさ』(東信堂)、『高学歴ワーキングプア』(光文社新書)他。

「2009年 『子どもが道草できるまちづくり』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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