問いの立て方 (ちくま新書) [Kindle]

著者 :
  • 筑摩書房
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感想・レビュー・書評

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  • 問いが重要だと最近思っているので、
    良い問いの立て方、問いとは何かを
    考える材料とすべく購読。

    ・存在こそが大前提。
     デカルトの「われ思うゆえにわれあり」とは、
     「徹底した懐疑の末にどうしようもなく認めざるを
      得なかったのがこの自分」という意味。

    ・ある課題についての深い問いとは、
     単に、どうしたらよいか、などではなく、
     「なぜその課題があるのか」
     「それを解決するとはどういうことなのか」

    ・自分の願いについての問いを深めていくと、
     「自分はどうあるべきか」
     「幸せとは何か」
     にいきつく。

    ・例えば地域活性化について、
     「そもそもなぜ活性化させる必要があるのか」
     という問いをし、そして出た答えは意味のあるものだ。

    ・バックキャスティングに対する批判として、
     「現在の延長上でしか未来を創造できない」というものがある。

    ・歴史を顧み、そもそも論をする。

  • 【印象に残った話】
    ・人間の会話の中で意見が対立することは往々にしてあるが、両者の意見が前提としている「そもそも」の観念の領域まで踏み込んで議論をすると、両者が共有している考え方は間違いなく存在する
     ・リーダーとメンバー間で、仕事の割振りに関して、一方は「割振っている仕事量は妥当だ」、一方は「仕事量が多すぎるから減らせないか」と対立する
     ・そもそも仕事を割り振っているのは、納期通り品質を確保して納品するためである(両者間で共有している観念)
     ・納期通り品質を確保するためにはどのように作業分担したら良いか、という観点で再度議論してみる

    ・「生きる」こととは、常に内省をして、自分は何者かを疑い続けることだ

    ・違和感を持つとは、自分を持つことである
     ・違和感とは、「対象」と「自己」との差異であり、違和感の基準は、私たちが持つ「考え」だ

    【アクションプラン】
    ・直近で感じた違和感から、自分の考えを知る

  • タイトルがあってない。
    このタイトルで手に取った人の希望は叶えられない本のように思う。

  • 「問いの本質とは何か」、自身と哲学とともにその深淵部分に外と内の両面から迫った一冊。

  • 論文お作法本を期待している人には合わない本だと思う。これは自分を徹底的に問い直すことを突き詰めた本と言える。哲学書のような感じである。

    以下読書メモ
    ーーーーー
    ・一八世紀にリンネにより定義された「ホモ・サピエンス」という単語は、人間というのは知恵を持つ動物であるという人間観から生まれた。ホイジンガは文化の持つ遊びの要素を重視し、人間を「ホモ・ルーデンス(遊戯人)」とするなど、人間とは何かという観念が具体的な名付けとして表出している良い事例です。

    ・第二に、問いや意見を発するということは、たとえそれが愚痴や小言、あるいは反社会的な内容であろうと、何かしらの変化という希望を意図するものだからです。どのような変化であれそれが目的であるなら、より事象に対して効果的な影響力を与えられるほうがよく、であれば、枝葉一つ一つではなくそれが束になって存在する幹のほう、つまり(文字通り)根本に作用させるほうがよいからです。

    ・自分が在るからこの世がある。自分が無くなればこの世も無くなるのかもしれないし、そうはならずに自分がないままこの世が続くのかもしれないが、それは無くなってみないとわからないこと。間違いなく、最低限、最小限において確信できるのは、今自分が「それを考えている」という事実のみ。同意にて、「自分とはこの世界のこと」という事実のみ、、、。いうまでもなくこれはかの有名なデカルトのコギトです。自分というものを確固たるものと信じた結果の「我思う故に我あり」ではなく、徹底した懐疑の末にどうしようもなく認めざるを得なかったのがこの自分(=世界)だったということに注意を払わねばなりません。つまり、エゴや我の「私」ではなく、純粋に「考える」形式としての「私」です。

    ・わかることなど大したことないと言い放ったのはヘーゲルでした。我々がわかるためには一度人間をやめなければならないのでしょう。「人間、死んでから人生」(文学者・磯﨑憲一郎氏)とはこのことでしょうか。

    ・研究者の方は、いい問いとは詰まるところ本分であるという言に、される方も多いかもしれません。学問を担う大学の研究たるもの、誰かに言われて「する」ものではなく「してしまう」もの、だからです。

    ・無私とは消極的に何かを手放すということでは断じてなく、あてがわれた個性と対峙して積極的に自分と戦い、結局なんなのかと問うた徹底の先にある生き様のことですから。そうして結果的にそれがその人物の思想と呼ばれる類のものになるのでしょう。歴史を見れば明らかなように、「学者」は研究対象が「研究者」は(ほぼ)ならないのもこの理由によります。

    ・高エネルギー照射による格子欠陥観察の物理研究であろうが、直接または間接関係なく社会に貢献するかどうかを議論する以前に、その研究の意味と意義を、観念的、歴史的、そして存在論的に見つめることが必要である、それこそが研究と学問を分ける境界です。

    ・いい問いとは本質的であるとする本論においてこそ、ここまで真剣に考えることが必要であり、さらには手法や技法的なことだけでなく、その課題がなぜあるのか(歴史性)、それを解決するということはどういうことなのか(存在論)、といった域まで考え詰める必要があるように思います。

    ・「これは本当だろうか」、「これでいいのだろうか」、「これは自分の本分、もしくは本分に通じるものだろうか」、そういう内省が「自分が知らないこともある」という余白を可能性として自分の内に残すことに繋がっています。

    ・死は見えません。見えているのは死体であって死ではありません。じゃあ、生は見えてるのかと言われると、慎重に考えれば生も見えないとなりますが、少なくとも今、自分が存在し本を読んでいるこの事実は疑いがなく、それを生として差し支えないとするなら、生は見えるとしても問題ないでしょう。

    ・その理由について述べる紙面はありませんが、性質として動的平衡がほんとうのこの世、つまりミクロで見れば変化しているが、マクロで見ればトータルとして変わらないこの世において、なんでもあり得るという態度が学問の構えと思っています。今日明日の出来事は研究の対象にはなっても学問の対象にはなりません。ゆえに、何がどう変わるかよりも何が変わらないかの方に関心が向くわけです。たとえ明日地球に宇宙人が攻めて来たとしても、何も驚くことではありません。何があってもおかしくないのはこの世が始まったときからずっとそうですし、なるようにしかならないのもまた、この世が始まってからのことです。

    ・かのピーター・ドラッカーは「最も成果をあげる者は、自分自身であろうとする者だ」と言っています。本書では成功や成果が第一目的ではなく、我が人生への納得あるいは精神の成長・成熟こそを目的とするものですが、ドラッカーもまた成功を述べる際に、同等かそれ以上に自己の成長について語った事実はとても興味深い。

    ・これはこれまでの歴史を見れば自ずと未来もわかるだろうという考え方です。新しいものを生み出すためにこそ過去を見る、というのは逆のように思えますが、単に「歴史から学ぶ」ということではなく、過去を見るとは、――第一章で見てきたように―ーすなわちそもそも論や定義を考えるという不変の域にて考えるということ。定義を変えることはそれこそが新しいことを生み出すことであり、また歴史の経緯を見れば、その微分値として次なる傾向が見えるのは当然ことです(図10)。

    ・ 「調べは尽くした、それでもやる」いい仕事とはそういう覚悟とともにある。
    ・言うまでもなく、考えや行動の結果として、個々人が実際にどう変化したいのか、その具体像を考えておくことは必須のことである。

    ・自身の「間い」は、自身の在り様そのものです。自身への懐疑、内省がそのまま自身の(精神の、人格の)熟度となり、その熟度がそのまま自身の言葉と行動となる。これがいかんともし難しいこの世の常です。

    ・万年単位での人類の生物学的な変化(進化、というのを避けています)による環境対応ではなく、百年単位での科学技術によって環境の側を変化させることで対応する道を進んでしまった人類は、やはりその科学技術こそによって滅びに至るのかもしれません。

    ・日色の世界を塗る営みだと認めるなら、それは、自分の問いの深さ、いかほどのものか、それがそのままその人の人生、生き様となります。その問いが十分深ければ、すなわち本質的であるなら、それは常識的に生きる人を深く納得させることとなり、あるいは納得されなくても何かを感じさせるものになるでしょう。人の生き方に正しいも間違いもないのは、そして勝ちも負けもないのは、あまりに常識。先に、本分であるなら偏りも然りと書きましたが、それはこの理由によります。

    ・「重視」というか、問いを持つことが生きることそのものなのだというのが本書の論理だからです。いやもっと言うなら、「本書の論理」ではなく誰しも論理で考えるとそうなるとい結果(すなわち原理)だからです。換言すれば、生きているということは問いを持っていることであり、つまるところ既にみな何かしらの生き様としての問い(=本分)を持っており、それに気づく、あるいは思い出すだけでいい。それがこの後で述べる「違和感」と「自覚」という方法に繋がります。

    ・ 「世界とは言葉が見る夢である」(ウィトゲンシュタイン)とは上手く言ったものです。この場合においては、言葉だろうが、図だろうが、その形式によってそれぞれ物語があるのだ、言うなら、言葉により世界はできているのだ、ということでしょう。そしてなお面白いのは、結局のところ図で描けない「存在」を言葉では「存在」と書けること。ということは、言葉とは無いことを言うために在る、となります。嗚呼⋯⋯。

    ・ 「考える」とは生きること、生きていることでしたから、この不合理を生きてみる以外に「考える」ことはあり得ません。もっと言うなら、生きることを考え、考えるを考えることが「考える」ということです。

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著者プロフィール

京都大学教授

「2021年 『問いの立て方』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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