くらしのアナキズム [Kindle]

著者 :
  • ミシマ社
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感想・レビュー・書評

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  • アナキズムを手放しで肯定するつもりはないが、確かにこんな政府なら無いほうがマシって思う時多々ある。墨入れだらけの公開文書。キックバックに脱税疑い。甚大災害地への支援策の迷走ぶり。あまりにも不毛すぎて、考えてる時間が勿体ない。

  • ふむ

  • 素晴らしい

  • 求めているのは
    「ひとつの正しさ」が押し付けられないこと

    革命は、打ち倒した国家よりも強権的な国家を創り出すだけ。

    暮らしの中にアナキズムを取り入れる。
    国家は暮らしのための道具に過ぎない。
    暮らしの中で嫌なことに対してちゃんと不真面目になること。

  • おー。そっかー。
    アナキズムの、
    というか、
    ずっと心を奪われているアジールの、
    一番わかんないところである
    「法的拘束力や警察権力のないところで、トラブルが起こったときにどうするか」という問題のヒント。
    それは、実際に、国家権力とはあまり関係のないところで生きてる人たちに学ぶといい。

    文化人類学を、そういう風な目で見たことはなかったけれど、考えてみれば、文化人類学のステキなところは、異文化に学んで、自分が当然だと思っている価値観を相対化するってとこだもん。
    「権力とは何か」にじっと目を凝らしてみるという意味でも、文化人類学の研究に学ぶところはあるよね。

    タンザニアのインフォーマルセクターについて調査し重慶大厦のアフリカ人について書かれた小川さやかさんの本にしても、
    先日読んだ、プナンの社会について書かれた本にしても、
    古くは、パパラギにしても。
    そして、本だけじゃなくて、
    わたしが日本から脱出する大きな理由の一つが「わたしが日常生活を送っているこの社会の常識を疑う」ということだったよね、昔は。

    さて。アナキズム。
    読後感としては、うむむ〜、国家権力の力を借りずにやっていくのは、なかなか面倒でストレスフルだな〜、という…。
    だってそれ、いにしえの村社会そのものやん。
    …うぐぐ。

    とはいえ、この人は都会育ちなのか、それを希望に満ちて書かれているので、わたしも希望を持って読み、付箋貼りまくりだったのでした。

    以下には、付箋貼った箇所からの抜き書きを、これからおいおい追加していきます。

    「公の仕事の負担そのものが報酬」。そう思えない人には、そもそもリーダーの資格はないのだ。p.85

    リーダーが決断して意思決定するだけであれば、それは民主主義とほほど遠い。首長たちは弁舌によって人びとを説得し、納得させようとする。つまり決断を下すのではなく、人びとの同意を得ることがリーダーの仕事になる。それは、みなが同意できる状況をつくれなければ、集団としてのまとまりを維持できなくなるからだ。p.93

  • 贈与の経済、たしかに一理はあるが、規模が大きくなると実現が困難ではないか。性善説を前提としたアナーキズム

  • 「アナキズム」という言葉は、テロリズムと似ていて不穏なイメージがあるので身構えて読み始めたが、生活に密着した話だった。いざという時に国や政府が、どう役に立つのか。それよりも身近な隣人とのつながりの方が大事ということを人類学の見地から説明している。アフリカなどの民族の研究から、国や政府に頼らない生活を知ろうという趣旨なのだが、本当に平等な世界だったのか、私たちは、過去と未来のどちらに自由な世界を夢見ることができるのかと考えさせられた。

  • 国家が成立しても、自由で平等な空間は失われていない。それは失われたように見えるだけで、生活空間に埋もれている。この本ではそうした空間を「安心できる空間」と呼んでおり、未開社会にこの空間を取り戻すためのヒントがあると言う。それは互酬と真の民主主義である。リーダーは富を独占しない。もらったら返すということが徹底されている。そこには、権力の源泉はあくまでメンバーの同意にすぎないということがある。そして、メンバーは徹底的に話し合う。少数派の意見が反映されない多数決はしない。ここから分かるのは、リーダーが権力とは何かを分かっていること、そして一市民は自分の生活を脅かすルールや出来事に直面したときに共に声を上げる仲間を作っておくことということだろう。

  • くらしのアナキズム

    著者:松村圭一郎(岡山大学文学部准教授)
    発行:2021年9月28日
    ミシマ社

    どうしてこの本がこんなに注目され、読まれているのか。「くらしのアナキズム」ってどういうことだ?と疑問を持ち、訳の分からない本を買う気も無く、けっこう長期間待たされて図書館で借りた。

    アナキズムっていわれると、暴力や革命みたいな大仰なイメージを持ってしまうし、反体制や抵抗運動のなかでもルールのないはた迷惑なイメージすら持ってしまいがち(本当はそうではないのでしょうけど)。それなのに、「くらしの」がつく世界って?日常に無政府的な暮らし方をしてみるの?あるいは、民藝運動的な感じ?いろいろ予想して読む。

    民藝はちょっと近いかもしれない。
    民主主義の原点はローマやギリシャにはない。現在の民主主義は多数派のための数による「民主主義」なのであって、多数派以外を抑圧する制度でもあるというようなことがこの本には書かれている。では、ほんまもんの民主主義はどこにあるか?それは「未開社会」や素朴な田舎の社会、あるいは我々の家族や仲のいい友人間に存在し、知らない間にそれを実践しているということが、読んでいると実感できてくる。

    著者を含め、人類学者たちが実際に行ったフィールド調査でそれが証明されている。未開社会でも日本の田舎でも、なにかことがあると徹底的に話し合う。当然、意見の違いがある。でも、そこで多数決をしてしまうと、現在の「民主主義」と同じになってしまう。少数派の不満は残り、対立したままとなる。そうではなく、とにかく話し合い、少数派がそれなら賛成でもいいというまで話し合う。黙諾でよい。形の上で全員一致となれば、対立はなくなり、人間関係も崩れない。

    そのようにして自分たちの力でもっと決めて実行しよう、国や自治体などの公権力などあてにならないから。大震災が起きた時、公的なお助けはあてにならず、みんなが力を合わせて危機を乗り越えてきたのがその証拠だ、とする。

    しかし、それは昨今「自助」を強調する政府の思うつぼではないか?という疑問がわく。それに対しても著者は明確に答えている。下から自治を取り戻そうとする動きは、国家を補完するような自治ではない。むしろ国の動きを牽制し、分け与えるよう求め、主導権を取り戻すための自治である、と。


    1.人類学とアナキズム

    ・人類学者デヴィッド・クレーバーは実際に無政府状態を経験。1989年からの2年間、マダガスカルで現地調査を行ったが、彼がいた小さな町では実質的に地方政府が機能停止していたものの、それに彼が気づいたのは生活開始半年後だった。
    ・人々は役所に行き、公的書類に署名し、伐採許可を取ったり、葬式後の埋葬許可を取ったりしていたが、公務員は書類の紙を自分で買っていた。おそらく彼らは書類発行の手数料を受け取りながら役場の仕事を続けていたのだろう。

    ・人類学はかつて「未開社会」を研究する学問として始まった。近代国家ではあたりまえの政府や警察がなくても無秩序にならないのは何故か?無秩序になるという「通念」が真実でないことを、人類学は証明してきた。

    ・アメリカの人類学者ジェームズ・スコットによると、メソポタミア地域で最初期に誕生した国家(DC3300年ごろ)の成立と、文字が歴史上初めて登場した時代はぴったり一致する。国家はつねに官吏、職人、兵士、聖職者、貴族階級といった非生産者を食べさせるために、農作物や畜産物といった余剰食糧を必要とした。穀物の運搬、賦役、請求、領収などの継続的な記録・管理が必要不可欠なため文字が必要だった。最初期のメソポタミアでは、ほぼ簿記のためだけに文字が使われていた。

    ・歴史的に見ると、国家は人民を守る仕組みではなく、人々から労働力と余剰生産物を搾り取り、戦争や疫病といった災厄をもたらす存在だった。当然、反乱を起こしたり逃げたりする物が出てくる。東南アジア国家の盛衰史は、絶えず流出する人口を戦争捕虜で補う歴史だった。できなければ滅んだ。国家から逃れた人々の多くは、支配が及びにくい険しい山奥へと逃れた。ジェームズ・スコットの本「ゾミア」とは、そんな広大な非国家空間が広がる中国南部から東南アジア大陸部の山岳地帯のことで、今もたくさんの少数民族がいる。スコットによれば、それらの民族がいずれも繰り返し国家の領域から逃れてきた多様な人々の層で構成されているという。

    ・日本では、柳田國男「遠野物語」冒頭に描かれた人々。例えば、宮崎県の椎葉村。彼らは富を平等に均分している。柳田は驚いた。


    2.生活者のアナキズム

    ・国や行政がつねに全国どこでも完全にカバーしているなんて幻想にすぎない。2019年9月の台風15号では、千葉県を中心に一週間たっても約7万戸で停電がつづいた。2018年の大阪北部地震と台風21号で被災した家のなかには、一年以上たったあとも屋根がブルーシートで覆われたままのところもあった。そもそも国という制度は国民全員の生活を支え、保障してくれる万能の仕組みではない。

    ・花森安治『灯をともす言葉』(62-63頁)
    おそらく、
    一つの内閣を変えるよりも、
    一つの家のみそ汁の作り方を
    変えることの方が、
    ずっとむつかしいにちがいない。
    内閣は、三日や一週間なくても、
    別にそのために国が亡びることもない。
    ところが、暮らしの方は、
    そうはゆかない。
    たとえ一日でも、
    暮らすのをやめるわけには、
    ゆかないのである。

    ・台湾のデジタル担当大臣、オードリー・タンは「保守的アナキスト」を名乗っていることで知られる。「保守的である」ことは進歩の名のもとにこれまでの文化を犠牲にすることなく、多様な伝統的価値を大切にすることであり、「アナキズム」を「暴力や権力で威圧できる、既得権益などを独占している、ただそれだけの理由で他者を従わせてはならない」と定義している。

    ・タンは言う。既存の政府という行政機構も、使い方次第でアナキズム的な状態を達成する手段になりうる、その鍵は「透明性」と「説明責任」が揃うこと。国家の仕事を国民が見通せるようになり、信頼関係が生まれる。
    一国のリーダーが自分の言葉できちんと政策の意義や中身を説明しない(できない)、情報公開請求すると真っ黒に塗られたものしか公開されない(するつもりもない)、そんなどこかの国とは大違い。


    3.「国家なき社会」の政治リーダー

    ・クロード・レヴィ=ストロースは、アマゾンに暮らす先住民ナンビクワラの首長について、首長は「公の仕事の負担そのものが報酬」と考えている、と主張。そう思えない人にはそもそもリーダーの資格がないとは、本書の著者。

    ・レヴィ=ストロースは、「同意」こそが権力の源であると同時に、その権力を制限するものだ、としている。政治家が主権者によって選ばれ、その同意の範囲で政治的な役割を果たす。それを真の意味で実践していたのは現代の民主主義を掲げる国家ではなく、「未開社会」とされた国家なき社会だった。

    ・民主主義の実践はさまざまな国家から外れた場所にみられた実践でもあった。デヴィッド・クレーバーは18世紀の海賊船に例をあげる。海賊船では、船長が選挙で選ばれただけでなく、有事である追跡や戦闘の間は全権を与えられるが、平時になると一般の乗組員と同等の扱いに戻った。全般的な権力が認められる海賊船もあったが、そうした船では船長をいつでも解任できる乗組員の権利が重視されていた。海賊船では、どんな場合も、究極の権力は、全員参加の挙手による多数決で運営される「総会」が持った。


    4.市場(いちば)のアナキズム

    ・15~17世紀のヨーロッパの市(いち)に関する、フランスの歴史家フェルナン・ブローデルの研究。市は都市とともに成長する。市が必要とされたのは、食料生産をしない都市が発達したから。数が増える市を同コントロールするか問題となった。道は通行不能になり、鯖の内臓が路上に捨てられる・・・月に1回、年に1回などの大市はさらに賑やか。芸人や占い師、軽業師、手品使いなども登場。だが、18世紀以降は祝祭的な大市も衰退する。市に対抗する「反-市場」の力が増大した結果だとみる。自由な空間であった市場を壊したものこそが資本主義だった。

    ・ロンドンの人口は1600年に最大でも25万人、しかし1700年には50万人に。都市の拡大は周囲の農村を豊かにした一方、伝統的なオープン・マーケットを解体した。零細な生産者や仲介業者が担い、生産者と消費者が直接対面する大衆に開かれた市では、都市人口をカバーできなくなった。そこで商人が農村と都市をつないで供給する方式が主流に。専門化も。大規模な商人が農家の台所まで穀物や家畜を前金で買い付けに出向く。「村落へ向かって市が溢れ出す」(ブローデル)。市に運ばれる手前で独占商人が品物を安く買い占めたので、都市の食料品価格の高騰にもつながった。

    ・市場(いちば)が小規模な「商い」と「安定した日々の仕事」の場だとしたら、資本主義は大きな資本をもとにリスクをとれる者だけが膨大な利潤を手にできる「投機」の場であるとブローデルはとらえた。

    ・社会学者のマックス・ウェーバーは、国家を物理的な暴力の行使を正当に独占することに唯一成功している共同体だと定義(『職業としての政治』)。

    ・今、自治体は国家機関の末端のように考えてしまうが、むしろ既に人々の手によって築き上げられてきた自由で平和な自治の空間が国家統治に組み込まれ、支配のために利用されてきた。自治の共同体は、もともと国家機関の一部ではなく、自由で平等な自立した空間だった。


    5.アナキストの民主主義論

    ・我々は問題が起きたら、すぐに行政や警察などに頼る。不審者をみつけたら警察に電話、駅で倒れている人がいれば自分で声をかけず駅員を呼ぶ。でも、自分たちで秩序をつくったり、維持したりして、ずっと自分たちで問題に対処してきた。こんなことしたらそれができっこない。アナキズムを考えることは、どうしたら身のまわりの問題を自分たちで解決できるのか、そのためになにが必要かを考えることでもある。

    ・対馬の「寄りあい」。民俗学者・宮本常一の研究(1850年に調査訪問)。何か課題があると、老人やら区長やらみんなで話しあう。しかし、無理はしない。腹が減ると家から弁当を持って来て食べ、夜になって眠くなると寝る人がいる、とにかく時間をかけて話し合う。機が熟すのを待つ。グレーバーの言う「(反対する者でも)受け身の黙諾を与える気になるようにと計らう」通りのやり方だった。無理をしない。村人の関係を壊さない配慮。

    ・2019年参議院選挙で自民党の得票数は全有権者の19%にすぎない。ほとんどの有権者はつねに自分の意見が「完全に無視された」状態におかれる。かつて日本の隅々で繰り返されてきた「寄りあい」は、もっとずっと民主的だった。被差別民や村八分など意志決定から排除された人がいたのも事実だが、民主的な自治、アナキズム的な自由と平等を維持するときに欠かせないなにかがあった。

    ・グレーバーが言うコンセンサスにもとづく民主主義。民主主義の根幹にはコンセンサスがあり、それは多数決による勝敗民主主義とは相容れない。

    ・きだみのる『にっぽん部落』。そこに取材されているある集落の世話役貞三さんの話。
    「部落会議じゃあ、村議会でもそうだが、十中七人賛成なら残りの三人は部落の付き合いのため自分の主張をあきらめて賛成するのが昔からの仕来りよ。どうしても少数派が折れねえときにゃあ、決は採らずに少数派の説得をつづけ、説得に成功してから決を採るので、満場一致になっちもうのよ。部落が仲間吾しちゃあ少数派は元より多数派も茶飲みに行く家の数がへってうまかあねえもの」

    ・「政策」がうまく機能するためには、その意思決定の手前で、時間をかけて政治の現場である暮らしのなかの関係性や場を耕しておくことが欠かせない。


    6.自立と共生のメソッド~暮らしに政治と経済をとりもどす

    ・フランシス・ニャムンジョ(アフリカを代表する人類学者)は、不完全な存在どうしが交わり、相互に依存しあい、折衝・交渉する場合にある論理を「コンヴィヴィアリティ(共生的実践)」という言葉でとらえた。人間が不完全であることを肯定的に評価し、その不完全な状態を問題だと思わなくなる鍵だと指摘している。

    ・コンヴィヴィアルな世界では、「改宗」を迫るのではなく「対話」をすることが異なるものに対する方法となる。

    ・人間が産業主義と機械の奴隷になり、与えられた商品を消費するだけの存在となる。自由や自治が失われる。この生産性を基軸とする産業主義の対極にあるものとして、イヴァン・イリイチは「コンヴィヴィアリティ」を提起した。

    ・人類学の研究で分かったこと。物を売ったり、借ったりすることは二次的で、人々の中心的な関心事ではなかった。

    ・アナキストたちは、国家の支配領域から逃れただけでなく、ときに国家の圧制に抵抗し、不満をぶつけ、自分たちの要求を突きつけてきた。そんなある種のアナキズムがずっと歴史を動かしてきた。ジェームズ・スコットは過去300年における重要な解放運動のすべてが警察権力をはじめ国家の法的秩序と真っ向から対決して始まったと指摘している。

    ・現在の「民主主義」はつねに多数派のための制度。多数派の利益を守る国家の法そのものが抑圧的なとき、法の枠内でそれを改善することは困難だ。黒人への人種差別撤廃に向けたアメリカの公民権運動も、当時の法的秩序からの逸脱なしには実現しえなかった。

    ・僕らは過去の多くの「法律違反者」たちから恩恵を受けている。逸脱者たちを国がねじ伏せようとしてきた歴史はすぐに忘却される。いまの豊で恵まれた状況は、国がつくってくれたものだと勘違いしてしまう。

    ・国民が自分たちでうまく社会をまわすようになってくれた方が、国家にとっては助かる。自助を求める政府のもとで、下から自治を取り戻そうとする動きは、政府の思うつぼではないかという疑問。だがここでの「自治」は、国家を補完するような自治ではない。むしろ国の動きを牽制し、分け与えるよう求め、主導権を取り戻すためのもの。

  • 「無政府主義」とイメージしていたアナキズムについて、公的機関がカバーしきれない問題や緊急事態に対処するための、また希薄になっている都市の人間関係の問題を解決するための概念として機能する、ということを解きほぐして紹介している。

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著者プロフィール

松村 圭一郎(まつむら・けいいちろう):1975年熊本生まれ。岡山大学文学部准教授。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。専門は文化人類学。所有と分配、海外出稼ぎ、市場と国家の関係などについて研究。著書に『くらしのアナキズム』『小さき者たちの』『うしろめたさの人類学』(第72 回毎日出版文化賞特別賞、いずれもミシマ社)、『旋回する人類学』(講談社)、『これからの大学』(春秋社)、『ブックガイドシリーズ 基本の30冊 文化人類学』(人文書院)、『はみだしの人類学』(NHK出版)など。共編著に『文化人類学との人類学』(黒鳥社)がある。


「2023年 『所有と分配の人類学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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