遊びと人間 (講談社学術文庫) [Kindle]

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感想・レビュー・書評

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  • 「遊び」にはルール、規則がつきもの。子どもの遊びのそれは法律のように明文化されているわけでもなく、「規則を守ろうという意志によってだけ、規則は維持されている」。これが大人でももし破れば顰蹙を買うし、場合によっては法律違反よりもかえって悪印象を与えることもある。
    遊びの規則の本質は「法」よりも「マナー」だとか「社会規範」に近いのかもしれない。最近は飲食店で非常識な行動を取った映像がSNS上にアップされての大炎上が頻発している。このようなものでなくても、身近に「こういうことをしてはいけない」という共通認識を踏み越えた不正はそこかしこにある。
    そういったものを目撃した時に感じる不快感と、「遊びの規則」を破った人に感じるそれは、同種のものなのではないかと思った。現代語風に言うと、「シラける」「ドン引き」みたいな。人によっては違法行為で捕まるよりもリスキーに感じるかもしれない。(炎上した件は訴訟問題にまで発展したけど)
    法律と対比したけど法の意義なんかの理解が皆無なので、今度はその辺についても学んでじっくり考えたい。
    (正直に言うと序盤だけ読んで思ったことを書いたので、もしかしたら後のページでこの感想のテーマについて言及されてるかもしれない。)

  • > 本書は一九五九年に出版された。これはシラーの預言者的直感とJ・ホイジンガのみごとな分析『ホモ・ルーデンス』のあとを受けつぐものである。(日本語への序文 p.3)

    本書でカイヨワは遊びについての有名な4つの区分、アゴン(試合、競技)、アレア(さいころ、賭け)、ミミクリ(真似、模倣、擬態)、イリンクス(渦巻)を提案する。

    全体で二部構成になっており、第一部では遊びの4分類について、第二部ではそれぞれの分類の可能な組み合わせについて主に論じる。

    アゴン、アレア、ミミクリ、イリンクスはそれぞれを詳しく記述されていくが、とても示唆に富んだ内容になっている。例えば、アゴン(試合)と正反対にあるアレア(賭け)についての説明は以下のようである。

    > ここでは、相手に勝つよりも運命に勝つことの方がはるかに問題なのだ。言いかえれば、運命こそ勝利を作り出す唯一の存在であり、相手のある場合には、勝者は敗者より運に恵まれていただけということだ。...アゴンとは反対に、アレアは勤勉、忍耐、器用、資格を否定する。それは専門的能力、規則性、訓練を排除する。(第一部 二 分類 p.47)

    遊園地のアトラクションなどにあるイリンクス(眩暈)についてもおもしろい記述をしている。

    > 快楽というべきであろう。このような熱狂を気晴らしと名づけるのはためらわれる。それは娯楽よりも痙攣に近いものだ。(第一部 二 分類 p.61)

    遊びの社会性についての章では、遊びの活動が個人的なものに終わらずに集団的な交流と喜びの表現媒体となる場合について書かれていて、共感できる。

    > 一般に、遊びをしていて本当に満ち足りた気持ちを味わうのは、その遊びが周囲の人たちをまきこむ反響を生んだ時だけである。...遊びには、共感をこめて注目してくれる慣習の存在が必要なのだ。いかなる範疇の遊びも、この法則の例外をなさないようだ。(第一部 三 遊びの社会性 p.81)

    さらに、遊びが持つ特性が日常生活をまじりあったとき、遊びが堕落するという表現を使い、以下の問題提起をする。

    > 遊びは次のような活動ー(1)自由な、(2)隔離された、(3)未確定な、(4)非生産的な、(5)規則のある、(6)虚構の活動ーであることを明らかにした。...日常生活の散漫でいいかげんな法則と、遊びの観念的な規則とを分離する厳密な仕切りがもしもぼやけてきた場合、遊びはいったいどうなるのか。(第一部 四 遊びの堕落 p.85)

    遊びの各特性についての堕落が述べられるが、例えばミミクリの堕落に関する表現は以下のように興味深い。

    > 模擬がもはや模擬と見なされなくなるとき、仮想人物が自分の演じている役、仮想服、仮面を本物と思い込むとき、それは起こる。彼は自分が扮するこの他者をもはや演じてはいない。彼は自分が他者であると信じ、それに従って行動し、本当の自分を忘れる。表面だけでなく奥深いところで自分が自分でなくなる。この自己喪失は、他人の個性を借りる楽しみを、遊びの範囲内に抑えられない者に対する罰なのである。これはまさに疎外ともいうべきものだ。(第一部 四 遊びの堕落 p.93)

    また、第一部の最後では、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』を引用して、自身の目的を明らかにしている。これは第二部の全体に渡ってより詳細に議論されていく。

    > 私は単に遊びの社会学を考えているのではない。遊びを出発点とする社会学の基礎づけを考えているのである。(第一部 五 遊びを出発点とする社会学のために p.117)

    第二部の最後では、著者の遊びに対する立場がよく書かれている。

    > 遊び、しかも束縛されない遊びがなければ、また意識的につくられ、自発的に尊重される約束ごとがなければ、文明というものは存在しない。...〔立派な遊戯者〕としてフェアに勝負を行うこと、もしこういうことができず、望みもしなければ、文化というものはありえないのである。結局のところ、一切の倫理、一切の相互信頼、他者の尊重はありえない。(第二部 三 遊びと聖なるもの p.294)

  • 難しい、
    なんとか読めたという感じでした。

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著者プロフィール

(Roger Caillois)
1913年、フランスのマルヌ県ランスに生まれる。エコール・ノルマルを卒業後アンドレ・ブルトンと出会い、シュルレアリスム運動に参加するが数年にして訣別。38年バタイユ、レリスらと「社会学研究会」を結成。39–44年文化使節としてアルゼンチンへ渡り『レットル・フランセーズ』を創刊。48年ユネスコにはいり、52年から《対角線の諸科学》つまり哲学的人文科学的学際にささげた国際雑誌『ディオゲネス』を刊行し編集長をつとめた。71年よりアカデミー・フランセーズ会員。78年に死去。思索の大胆さが古典的な形式に支えられたその多くの著作は、詩から鉱物学、美学から動物学、神学から民俗学と多岐にわたる。邦訳に、『戦争論』、『幻想のさなかに』(以上、法政大学出版局刊)『遊びと人間』、『蛸』、『文学の思い上り』、『石が書く』など多数。

「2018年 『アルペイオスの流れ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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