- Amazon.co.jp ・電子書籍 (226ページ)
感想・レビュー・書評
-
学術文庫入り■「為義」家格低落するも摂関家に祗候し、列島各地に流通拠点の武士団を組織化「義朝」院近臣で王家領荘園の立券に協力し、軍事権門に成長「頼朝」流刑直前に若年で得た官職から貴種と認められ、実力支配の拡大と王朝権力への従属により国家的軍事権門に、武家的道徳観念を育成する「義経」平泉藤原氏と深く関わり、在京の源氏御曹司として院軍事力の担い手に■『武家の棟梁』義家の神格化は、頼朝、得宗家、足利一族、徳川家によって遡及的に、再生産され続けた。承久の乱前の鎌倉とは右大将家の家政機関だったのだろう(2012年)
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
武士は生産・流通に依拠する都市的な存在であり、中央との繋がりによって地方社会に君臨した。
構想する為義ー列島ネットワークの構築ー
為義は郎党を保護するあまりその狼藉の責を負い、院近臣としての地位から疎外され、摂関家に臣従する。摂関家の武力機関としてだけでなく、子息を鎌倉の義朝、鎮西の為朝のように各地へ送り込み、全国的な主従関係の形成・拡大に努めて軍事貴族としての独立も目指した。
調停する義朝ー坂東の平和と平治の乱ー
院政下において摂関家の地位は低下したため、国衙の在庁官人の盟主として振る舞い院権力へと伺候する。上総曹司として育ち、鎌倉を拠点とした義朝は軍事貴族の地位を活かし坂東各地の武士の調停者として振る舞い棟梁となる。
立ち上がる頼朝ー軍事権門「鎌倉殿」の誕生ー
流刑の中でも遠流の地には、伊豆の他に佐渡や隠岐、土佐や薩摩があった。隠岐は義親、鎮西は為朝が濫行をはたらいた前例があるため避けられ、頼朝は伊豆に、同母弟の希義は土佐に配流された。
中世武士の動向は、御恩と奉公という利害に応じた契約的な主従関係だった。頼朝はこれに対し、御家人支配を強化するために、東国武士団と八幡太郎義家との繋がりを強調し、また自分をそれになぞらえることで代々の主従関係を演出した。後の足利や徳川も自らの正統性を訴えるために武家棟梁たる源氏を演出した。
頼朝は東国王に擬せられるが、独立を志向したわけではなく、あくまで天皇家の軍事代理人としての立場を崩さず、京都朝廷における既存秩序の枠内での権力確立を図った。
京を守る義経ー院近臣の「英雄」ー
貴種源氏の御曹司として義経は奥州平泉の藤原氏に受け入れられる。京都を追放後も、頼朝に対抗しうる他方の勢力の旗頭を見込まれ再度平泉へ受け入れられるが、泰衡の代になると鎌倉の恫喝に屈され討たれてしまう。著者は最後に、頼朝が作り、家康が拡大再生産した武士の滅私奉公に対して苦言を呈し、アンチテーゼとして義経を再評価する。完全に趣味嗜好が入っているように思える。
なぜ頼朝か、なぜ鎌倉か
頼朝は公卿にもなりうる右兵衛権佐に初任され、その貴種性は源氏の中でも一頭地を抜いていた。鎌倉は、武威を損なった平直方が婿として源頼義を迎え入れた際に譲った地であり、義朝も鎌倉に勢力を扶植していた。これらの要素が、頼朝・鎌倉を他より有利にさせ、鎌倉幕府が成立した要因だという。