宗教を「信じる」とはどういうことか (ちくまプリマー新書) [Kindle]

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  • 筑摩書房
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感想・レビュー・書評

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  • キリスト教のことしか書いてませんでした。『キリスト教を「信じる」とはどういうことか』でした。

    さいきん社会問題になっているカルト宗教がらみで、なぜ人は「信仰」に惹かれてしまうのか、とか、古代からの信仰の歴史とか、科学の世の中にあって「宗教を信じる」とはどういう心理的な動きがあるのか……みたいなことが知れるのかと思って買ったのですが、思てたんと違いました。

    一番ショックなのは、目次とかある程度見てから買ったはずなのに気付かなかった自分に対してです。

  • 良かった気がするのでもう一度読みたい

  • 宗教は人間的な営みであり、プラス面もマイナス面もある。
    「信じる」「信じない」の2択にこだわらなくてもよいのではないか。
    というのが本書の要点か。
    この著者は人間が完璧になることは未来永劫ないと考えているが、それは本当だろうか。
    永遠の時間があればいつか人間も完成されると慎重なカントが前向きに書いていたので、この著者の書き振りはずいぶん後ろ向きに見える。
    あってもなくても一緒なら宗教はない方がいいのではないか?とすら思う。
    宗教がなければならない人間の性、マイナス面があっても信じたい性質のようなものが知りたかった。

    40%
    「存在しない神に祈る」
    シモーヌ・ヴェイユ
    『重力と恩寵』
    「浄めのひとつの様態。他の人びとに知られず隠れて祈るだけでなく、神は存在しないのだと考えて祈ること。」

    42%
    「神なしで生きる」
    ディートリッヒ・ボンフェファー
    「われわれは完全に無宗教の時代に向かって歩んでいる」
    「神という作業仮説」の助けをかりずあらゆる問題を処理できる世界→「成人してこ世界」
    「成人した世界はより無神的だが、おそらくそれゆえに成人していない世界よりも神に近いだろう」
    →とても腑に落ちる表現

    43%
    「神を棄てる」「仏を殺せ」
    『臨済録』
    「仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し……そうして始めて解脱するてとができ、なにものにも束縛されず、自在に突き抜けた生き方ができるのだ」

    47%
    「神義論という問い」
    神義論という言葉はライプニッツが作った。
    ヒュームもここ。
    ヒューム云わくエピクロスが提起。
    →神義論
    「世界にはなぜ理不尽な悪や苦難が存在するのか、それに善人が苦しむのをなぜ神は放置するのか」
    についての議論。
    素朴な疑問として
    「信仰を持つ人たちは世界から悪や不幸を除去する責任をなぜ神に丸投げしてしまうのだろう?」
    が浮かんだ。
    それに対するおおまかな答えは
    「万能な創造主が作った世界は初めから平等で善良なものだと信じているから」
    「世界が平等で善良でないとすると創造主の万能性への信頼ができなくなるから」
    だと読んだ。

    48%
    ハロルド・S・クシュナー(ユダヤ教の教師)
    『なぜ私だけが苦しむのか一現代のヨブ記』
    「不幸の理由を説明するいくつかのパターン」
    1. 自分の信仰生活の不備
    2. 神の計画の一部(教育的効果)
    3. 死は苦痛からの解放
    全ての共通点は「苦しみの原因が神にある」という考えに基づく所。
    「なぜ神が私に苦しみと与えるのか」という問い自体が見当違いでは?

    ヨブ記の登場人物の前提
    A 神は全能。世界のすべての原団は神。
    B 神は正義で公平。善人は栄え、悪人は罰せられる。
    C ヨブは善人。
    論理的にA ~Cが同時に真であることはない。
    Cの否定(ヨブは悪人)と考える人が多い。

    51%
    「被害者や犠牲者と悪く言うというのは現代の日本でもしばしば見られる傾向ですが、それは、世界に住みやすいところなのだと……自らを安心させたいからなのかも」

    クシュナーの解釈
    Aの否定
    「神が支配していないことがらもある」
    「神に気に入られている特定の人たちだけが自然法則から除外され、その他の人たちは自分自身でなんとかしなければと汗を流す、そんな世界がより良い世界だと言えるでしょうか」
    「人が身の危険もかえりみずに見知らぬ人を救おうと力を尽くしたり、洪水が引いたあとで自分たちの町を再建しょうと決断することこそ神の行為なのです」

    55%
    苦難により信仰を捨てる例もあれば、信仰が新たに目芽える例もある
    星野富弘一信仰が芽えた例
    『愛、深き淵より』
    「周囲のひとが不辛になったとき自分が幸福だと思い、他人が幸福になれば自分が不辛になってしまう。
    自分に少しもかわらないのに、幸福になったり不辛になったりしてしまう。
    周囲に左右されない本当の幸福はないのだろうか。他人も幸福になり、自分も辛福になれることはできないのだろうか」
    「私のいまの苦しみは洗礼を受けたからといって少なくなるものではないと思うけれど、人を羨んだり、憎んだり、許せなかったり、そういろみにくい自分を、忍耐強く許してくれる神の前(こひざまずさアこかった」
    62%
    三浦綾子の話
    「不満と言って当たり前のような状況でも、何かしら感謝すべきことを探すのは可能で、そうした姿勢が、幸せに生きるコツなのかもしれません。」

    67%
    「イエス自身は一切文章と書き残こさなかった」
    聖書も「古代文書の集合体」にすぎない。

    68%
    「「宗教」というのは、人間にある程度の「規格」を定め、その社会の構成員を「標準化」するための仕組みである、と言ってみることもできるかも」

    95%
    信仰がある人が非暴力、人格者である訳でもない。
    学間ができても、武道ができても、芸術的な才能があっても同じである。
    「私たちは、「人類全体」を愛するのは、わりと簡単なのではないかと思います。……しかし……学校や職場で顔を合わせる一人ひとりに対して、毎日具体的に丁寧に「愛」をもって接することができるかというと、……難しいのではないでしょうか。」

    ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』
    「自分は人類を愛しているけれど……人類全体を愛するようになればなるほど、個々の人間、つまりひとりひとりの個人に対する愛情が薄れてゆく」

    「おそらく普通の人間には、純粋な「愛」なんて無理なのではないでしょうか。本当の愛とは……敵をも愛するような泥臭いものだからです。だからこそ、イエスはあえて「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」と言って、愛を『命令」したのでしょう(ヨハネによる福音書15:17)」
    →定言命法じゃん!!

  • 私が、宗教に対して、違和感を持っていたこと、もやもやしていたこと、受け入れ難いこと、疑問に思っていたことが、ここで筆者がたくさん提示されていてとてもスッキリした。この本は筆者の結論や答えを提示しているわけではないが、考えるきっかけを与えてくれている。

    正しいこれは、一神教的世界観の宗教に関する、疑問を扱っているから、ほかのインド的東洋的宗教思想において信じるとはどういうことかは、本書には当てはまらないことがあると思う。

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著者プロフィール

石川 明人(イシカワ アキト):1974年生まれ。北海道大学文学部卒業、同大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。北海道大学助手、助教を経て、桃山学院大学社会学部教授。専門は宗教学・戦争論。著書に『キリスト教と日本人』(ちくま新書)、『キリスト教と戦争』(中公新書)、『すべてが武器になる』(創元社)など多数がある。

「2022年 『宗教を「信じる」とはどういうことか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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