ガリツィアのユダヤ人: ポーランド人とウクライナ人のはざまで

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  • 人文書院 (2008年9月1日発売)
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目次

第1部 ポ・リン―ガリツィア・ユダヤ人社会の形成
貴族の天国・ユダヤ人の楽園・農民の地獄
オーストラリア領ガリツィアの誕生;ヨーゼフ改革とガリツィアのユダヤ人
ヨーゼフ没後のガリツィアのユダヤ人
第2部 両大戦間期東ガリツィアのポーランド人・ユダヤ人・ウクライナ人
一九一八年ルヴフ
ポーランド人とユダヤ人
ウクライナ人とユダヤ人
第3部 失われた世界―ガリツィア・ユダヤ人社会の消滅
独ソ戦前夜のOUNの戦略
一九四一年ルヴフ
ルヴフのユダヤ人社会の消滅

史料・文献目録
人名索引

概要
旧ハプスブルク帝国領内のガリツィア地方を中心とした、ポーランドとウクライナに於けるユダヤ人と反ユダヤ主義の歴史。十字軍以来のドイツにおける反ユダヤ主義の高まりからポーランドに逃れてきたユダヤ人が、ポーランド貴族と農民の間で中間搾取者となり、ポーランドとウクライナ双方のナショナリズムから敵視されるに至る様子を通時的に描く。

マルクスとエンゲルスとレーニンはポーランドのナショナリズムに好意的に反応し、レーニンに至っては、10月革命後にポーランドを「放棄」するに至ったことは周知の通りである。しかし、そのポーランド国家が独立直後の1918年11月22日に行ったのが、ルヴフのユダヤ人の虐殺(ポグロム)であった(111-113頁)。

他方、農民として被支配者の立場にあったウクライナ人の側の反ユダヤ主義も劣るものではなく、1941年の独ソ開戦後にナチス・ドイツと同盟した反ソ的なウクライナ民族主義者は、1941年7月25日-27日にかけて、ルヴフの街で死者2000人を出すユダヤ人虐殺を行っている(188-190頁)。

ソ連のスターリン主義が決してユートピアではないことは周知の通りだし、独ソ不可侵条約がポーランドへの野蛮な分割であり侵略だったことは疑いないと私は思う。しかしながら、ポーランドから分割されてソ連領になった地域では、戦間期のポーランドの激しい反ユダヤ主義から多くのユダヤ人が解放され、ポーランド時代には考えられなかった、党や国家の要職に就き、統治機構に入ることさえも理論的には可能になったのである(144-147、183-184頁)。130年前にナポレオンのフランス軍の侵略によってドイツのユダヤ人が解放されたような事態が、またしても繰り返されてしまったのである。

しばしば小国・小民族のナショナリズムはその大国・大民族への抵抗の姿勢から理想化されがちだが、本書は歴史的に抑圧されてきたポーランド人やウクライナ人のナショナリズムが、醜悪なユダヤ人虐殺と共に存在したことと、そのような環境にあってはスターリン主義もまた解放の思想にも成りえたことをどのように考えるかという、一筋縄では行かない問題提起を行っている。2022年の2月に始まったロシアのウクライナ侵略以後、日本国内でも抵抗者であるウクライナのナショナリズムが強く持ち上げられる様子を目にしている。軍事力を先に行使したロシアのやり方を私は非難するものだが、ユダヤ人虐殺に至ったウクライナのナショナリズムが無垢で美しいものであるかのように考えることが非常に危険であることと、全てのナショナリズムへの原則的な反対を、改めて主張しなければならないと感じた。

メモ
“ 「あなたの論文を読んで、ユダヤ人が嫌われる理由がよくわかりました。」
 東ガリツィアのユダヤ人問題に関して、ここ数年の私の仕事を評して言われた言葉である。誤解のないように断れば、これは褒め言葉だったのだが、私には、おそらく言われたご本人が意識されないまま、私が書けないでいることも突いているように感じられた。
 本書の主要な舞台となる東ガリツィアは、一八世紀末のポーランド分割でオーストリア帝国領となったガリツィアのサン川以東を指し(第一部第二章の地図1参照)、第二次世界大戦まで、ウクライナ人、ポーランド人、ユダヤ人という、宗教と言語を異にする人びとの混住地域だった。ここ数年、東ガリツィアのユダヤ人問題に取り組むにあたって私が自分に課した課題は、嫌われる原因となる事柄が、しばしばその地で自分たちが生き抜くための唯一の選択肢であるような、そんなユダヤ人マイノリティがポーランド人、ウクライナ人と切り結んだ関係のあり方を描ききること、そのユダヤ人という存在がホロコーストで抹殺されたことの意味を考えることだった。ガリツィアのユダヤ人に関する歴史研究は、日本ではほとんど手がけられず、この地域の民族問題に関心を持つ日本人研究者が比〈←1頁2頁→〉較的アプローチしやすい英語やドイツ語による研究文献も、きわめて豊富とは言い難い。そのような研究状況にあって、先の評者の言葉を信じるなら、前半の課題に関して私の仕事は、ポーランド語やウクライナ語の史料や文献を使いこなしていない不十分さを承知の上でなお、先駆的な情報提供のやくわりを果たすことができたのではないかと思う。”
(野村真理『ガリツィアのユダヤ人――ポーランド人とウクライナ人のはざまで』人文書院、京都、2008年9月30日初版第1刷発行、1-2頁より引用)

“ 旧東ガリツィアの中心都市リヴィウでは、一九八八年になって、ナチ・ドイツ占領期のユダヤ人ゲットー跡に本格的な記念碑を建設するための運動が始まった。建設費の大半は、この街からイスラエルに移住したユダヤ人やアメリカのユダヤ人の寄付でまかなわれ、記念碑は一九九二年八月に完成した(第三部第三章の図26参照)。記念碑の石碑には「リヴィウのゲットーの一三万六八〇〇人のユダヤ人が一九四一年から一九四三年にかけてこの死の道を通り、ドイツ・ファシスト占領軍の手によって虐殺された」と記されている。同様に一九九〇年代に入ってから、旧東ガリツィアの各地で、ナチ・ドイツ占領時代に起こった出来事を祈念する石碑が、強制収用所跡やユダヤ人の虐殺現場、あるいは破壊されたシナゴーグの跡に建てられるようになった。
 しかし、シニカルな言い方をすれば、だからどうだというのだろうか。なるほど、リトアニアやラトヴィアがヨーロッパ連合(EU)に加盟するにあたって、いわゆる過去の克服、すなわちかつての自国の反ユダヤ主義を反省し、ホロコーストへの加担者が存在したことを認めて謝罪する態度と実践は必須であった。一九九一年に独立したウクライナもヨーロッパへの仲間入りを望むなら、過去の克服の努力は避けられない。しかし、過去の克服とは何だろうか。現在の独立ウクライナが歴史を遡り、事後的に「ウクライナ国民の歴史」を意味づけようとするとき、「貴族の天国・ユダヤ人の楽園・農〈←5頁6頁→〉民の地獄」(本書第一部第一章)といわれた時代や、東ガリツィアでポーランド人とユダヤ人が政治と経済の中枢を握り、かたやウクライナ人は貧農といった時代は屈辱の時代であり、起こるべくして起こったウクライナ民族運動によって否定されるべき時代である。そうした時代はもはや再来してはならず、それゆえユダヤ人についていえば、その時代のユダヤ人口がもはやウクライナに存在する可能性がなくなったかぎりで、かつてのユダヤ人の虐殺を悼み、記念碑建立のために小さな敷地を提供することが許されるのである。現在のウクライナにとって過去の克服は、過去の再現ではないかぎりで、死んだ者たちにお詫びと反省を繰り返してもたいして実害はない。
 この事態をユダヤ人はどう考えるだろうか。現在のウクライナで、殺されたユダヤ人のための記念碑に無惨に落書きされたナチの鉤十字は、記念碑の存在さえ気に入らないウクライナ人がいることを示している。だからシオニズムなのだと、リヴィウで私を案内してくれたユダヤ人の女性は言った。彼女の心情を理解できないわけではない。しかし、ホロコーストの意味をイスラエルの分離壁に囲まれた生活へと収斂させてよいのかといえば、私はそうは考えない。が、再びしかし、東ガリツィアの歴史のあらゆる場面において当事者ではない日本人の私が、何の権利があってウクライナ人やポーランド人やユダヤ人の民族的心情に手を突っ込みあれやこれやと腑分けし、肯定したり否認したりするのか。
 研究助成金の申請書で必要とあれば、もっともらしく「研究目的」や「研究成果」の欄を埋めることはできる。ヨーロッパ型の近代国民国家の古典的なひとつの定義を「ある程度の民族的均質性を備えた国民が国家の担い手とされる体制」であることに求めるなら、かつてその定義を体現してきた西〈←6頁7頁→〉ヨーロッパのイギリス本国、フランス、ドイツといった国々は、現在、自国籍を持つ国民のなかに民族的出自を異にする多数の人びとを抱えている。そして法の下での全国民の平等とは裏腹に、民族的出自の違いによって厳然たる社会的差別、経済的格差が存在する。皮肉にも現在、先の近代国民国家の古典的定義が実現されているのは、第二次世界大戦まで多民族国家であった東中欧の諸国である。日本の近未来であるかもしれないこれら多民族国家化した西ヨーロッパ諸国の行く末を見据えようとするとき、かつての東ガリツィアにおいて民族の混住に終止符を打った民族的心情の力学とでもいうべきものを検証する作業は、無駄ではないだろう。しかし、この様に書きつつもなお私は、私が自分に課した後半の課題について、あるいは外国史の研究者に本質的につきまとう越権者の「ためらい」から逃れることができないでいる。”
(野村真理『ガリツィアのユダヤ人――ポーランド人とウクライナ人のはざまで』人文書院、京都、2008年9月30日初版第1刷発行、5-7頁より引用)

“ さらに貴族領主にとってユダヤ人は、領主の直営地や特権の有能な賃借人でもあった。一定の広さ以上の領地を持つシュラフタや、とりわけポーランドのあちこちに広大な領土を持つマグナートは、みずからは直接、領主直営地の経営にあたらず、直営地を分割し、それぞれ、その経営権を賃貸する方法をとった。領地をめぐるアレンダで、賃借人は、賃借した領地に対して賃借料を前払いするかわりに、その土地からあがる収益を自分のものにする。……”
(野村真理『ガリツィアのユダヤ人――ポーランド人とウクライナ人のはざまで』人文書院、京都、2008年9月30日初版第1刷発行、31頁より引用)

“ アレンダ契約では、領主はできるかぎり賃借料を引き上げようとし、アレンダールはできるだけ安く値切ろうとする。契約をめぐってアレンダールの側に競争者が現れると賃借料はせり上がり、その分、アレンダールの経営は苦しくなる。さらに天候不順による不作や、農産物価格の変動によって賃借料にみあう収益をあげられなかった場合、原則的にはアレンダールが損失をかぶらなければならず、賃借料が払えなくなったアレンダールには、賦役に従わない農民と同様、鞭刑や投獄という厳罰が待っていた。だからアレンダールは、まずアレンダ契約にありつき、貸借した領地や特権から必死になって利益を稼ぎだそうとした。そのしわ寄せがどこにゆくかは明らかであろう。農民にとってのユダヤ人は、種蒔きもしなければ、耕しもせず、農民を食い物にして稼いでいる者たちであり、貴族の領地経営の片棒を担ぐユダヤ人は、農奴制にあえぐ農民の恨みを買わずにはいなかった。
 一六四八年のボグダン・フメリニツキの反乱は、ポーランドにおいてユダヤ人の楽園時代に終止符を打つ。一六四八年春、フメリニツキに率いられたウクライナ・コサックがポーランドの支配に対し〈←34頁35頁→〉て反乱を起こすとルーシン人農民の多くがこの反乱に合流した。反乱軍は、いたるところでポーランド人と、その手先としてのユダヤ人を虐殺する。ユダヤ人の犠牲者は一〇万人から一二万五〇〇〇人ともいわれ、ウクライナのユダヤ人社会は壊滅的な打撃を被った。”
(野村真理『ガリツィアのユダヤ人――ポーランド人とウクライナ人のはざまで』人文書院、京都、2008年9月30日初版第1刷発行、34-35頁より引用)

・36頁にポーランド=リトアニアの没落シュラフタが、小作貴族、賦役貴族、サンダル履き貴族と馬鹿にされながらマグナートの使用人として扱われたり、賦役に出ていたことが述べられている。

“ プロピナツィアの権利の賃借料は比較的高額であった。アレンダールは元を回収しなければならないから、農民に対し、ときには混ぜものをした粗悪な酒を売りつけ、農民が現金で酒代を払えないときは、つけで酒を売った。そのためアレンダールのユダヤ人は、農民に酒を飲ませ、酒のせいで借金に借金を重ねさせ、酒そのものの害毒と借金とで農民を破滅させる張本人とされる。プロピナツィアとユダヤ人の深いかかわりは第一部第二章で再述することとし、ここでは、ポーランドの貴族とユダヤ人と農民との関係を端的に表現したハインリヒ・ハイネの一文を引用しておこう。ハイネは一八二二年にポーランドを旅行し、旅行記『ポーランドについて』を著している。

   わずかな例を除くと、ポーランドのすべての飲食店もユダヤ人の手中にある。そして彼らの数多くの火酒醸造所は、国にきわめて有害である。そのせいで農夫たちが乱酔へと走るからである。とまれ、火酒の痛飲がいかに農夫の昇天[死亡]に貢献しているかは、すでに先で示したところである。
   貴族はみな、村あるいは町に、それぞれユダヤ人を一人抱えている。ファクトールと呼ばれ、主人のすべての委託業務、売買、照会などを行っている。これはひとつの独創的な仕組みで、ポーランド貴族たちの安逸志向を十全に示すものである。”
(野村真理『ガリツィアのユダヤ人――ポーランド人とウクライナ人のはざまで』人文書院、京都、2008年9月30日初版第1刷発行、39頁より引用)


“ 実際、ユダヤ人の身の安全は、彼らがこうして要求される金を支払うことができるかどうかにかかっていた。”
(野村真理『ガリツィアのユダヤ人――ポーランド人とウクライナ人のはざまで』人文書院、京都、2008年9月30日初版第1刷発行、43頁より引用)

“……ところが、債権者であるオーストリアの前に現れたユダヤ人のカハウは、イエズス会のほかにも、教会や修道院やマグナートに対する負債で、ほとんど破産寸前の状態だった。ガリツィアのユダヤ人社会全体が抱える借金は、一七七〈←54頁55頁→〉七年から一七七八年当時で一〇〇万六八一九グルデンで、全ガリツィアから上がる税収の九〇万グルデンを上回っていた。帝国宰相ヴェンツェル・アントーン・カウニツが一七七二年にマリア=テレジアに報告したように、ガリツィアのユダヤ人は、みずからは何も生産せず、農民を犠牲にして生活しているが、にもかかわらず、彼らは「総じて非常に貧しく、いわば聖職者と貴族が搾り取るスポンジ」でしかなかったのである。
(野村真理『ガリツィアのユダヤ人――ポーランド人とウクライナ人のはざまで』人文書院、京都、2008年9月30日初版第1刷発行、54-55頁より引用)

“ ポーランドは、西ウクライナ人民共和国の樹立を黙って見てはいなかった。独立ポーランドが最初にしたことは、東ガリツィアに出現したウクライナ人の国家を叩きつぶすことであった。ルヴフでは、反撃に出たポーランド人部隊とウクライナ人部隊のあいだで、街を二つに割っての戦いが開始される。そして一一月二一日の夜から二二日の夜明けにかけて、最後のウクライナ兵が街から退却するまで、戦闘は約三週間にわたった。そのあいだ、ユダヤ人の中立は守られたのか。”
(野村真理『ガリツィアのユダヤ人――ポーランド人とウクライナ人のはざまで』人文書院、京都、2008年9月30日初版第1刷発行、106頁より引用)



“ 一一月一日に不意をつかれたポーランド側は、緒戦でこそ苦戦したが、後に援軍を得て、一一月二一日の夜までにルヴフを制圧する。街から最後のウクライナ兵が姿を消したのは一一月二二日の朝、まだ暗い四時頃である。ポーランド人は、今日という復讐の日が来るのを待っていた。夜が明けると、ユダヤ自警団はポーランド人部隊によって武装解除され、団員の多くが逮捕、投獄される。ユダヤ人は丸腰にされたも同然となる。ユダヤ人街に通じる街路の端には機関銃が据えつけられた。「整然と」〈←111頁112頁→〉ポグロムが開始されたのは、八時から九時にかけてである。ポグロムは将校に率いられた兵士のほかに、男も女も、多数の住民が加わっていた。同日の夕刻にはユダヤ人街に火がかけられ、一帯は地獄と化す。消火は行われず、燃えさかる建物から逃げ出そうとするユダヤ人は、銃や銃剣で火の中へ追い返された。
 兵士たちは口々に叫んだ。
 「おまえらユダヤ人は、ポーランド人に向かって発砲し、われら戦士たちに熱湯や灰汁を注ぎかけ、毒入りのたばこを売りつけた。そして、ウクライナ人には数百万の金を与えたのだ。おまえらはポーランドの敵だ。ポーランド人は、もはやユダヤ人に我慢がならない。今日おまえらには、みな死んでもらう。」
 「おまえらは三人の兵隊を殺した。おれたちは三〇〇人のユダヤ人どもに、その貸しを返させてやる。」
 ユダヤ人側の記録は、ポグロムは四八時間という期限つきで、ポーランド人部隊の司令部から文書あるいは口頭で指令されたと主張するが、そのような文書は残されておらず、口頭の指令については、いまとなっては存在を確認しようがない。しかし、いずれにせよ、将校も兵隊も指令の存在を確信していた。フジャノフスキ報告によれば、ユダヤ人から強奪した金に対し、ポーランド人兵士が発行した領収書が存在している。強奪者は、自分の行為が指令によるものであることを示すつもりだったらしい。指令が存在するという将校や兵士たちの確信をうち消すための措置は、いっさいとられなかった。一一月二二日にポグロムが始まると、ユダヤ人の代表者はルヴフの当局とポーランド人部隊の司〈←112頁113頁→〉令部に対し、ポグロムの鎮圧を要請した。しかし戒厳令が公表されたのは、ポグロム開始から四八時間たった二四日の朝である。ルヴフの消防団員の証言によれば、彼らは二二日の朝から四八時間のあいだ、消火活動を禁じられていた。要するに四八時間のあいだ、ポグロム鎮圧のために働いた者はなく、ユダヤ人は、略奪、暴行、殺害、放火にさらされていたのである。
 テネンバウムによれば、翌年一九一九年一月までに判明した犠牲者は、死者七二人、負傷者四四三人、火災にあった建物は三八棟で、そのうち二八棟は完全に消失した。フジャノフスキ報告によれば、被害は最小に見積っても次のとおりであった。死者と焼死者は少なくとも一五〇人。二階ないし三階建ての建物で消失したもの五〇棟。ユダヤ人街の商店で徹底的に略奪されたもの五〇〇舗。家を失った者は推定で二〇〇〇人近く。ポグロム後に結成されたユダヤ救助委員会が把握している孤児、約七〇人。強姦された女性、数十人。殺害、暴行、略奪など、一二月一三日までにユダヤ救助委員会に届出のあった被災者、約七〇〇〇家族。
 ルヴフでは一一月のポグロム後も一九一九年の一月初めまで、武器の押収を口実にユダヤ人に対する暴行や略奪が繰り返された。うち続いた迫害により、ルヴフのユダヤ人約七万人のうち、二万五〇〇〇人が住むところも生活の手段も失ったという。”
(野村真理『ガリツィアのユダヤ人――ポーランド人とウクライナ人のはざまで』人文書院、京都、2008年9月30日初版第1刷発行、111-113頁より引用)

“ みずからの国を失い、各地に離散して居住するユダヤ人は、ハナニヤの戒めどおり、安全な生活を保障してくれるかぎりで、つねに居住地の支配者に忠誠を誓ってきた。ポーランド人にとってそんなユダヤ人は、ガリツィアの支配者がドイツ人であったときはドイツ人に、支配がポーランド人の手に移ればポーランド人の方へとすり寄る者たちであった。
 第一次世界大戦直後の混乱期にポグロムが発生したのは、ルヴフだけではない。コーエンの報告書が数えあげているように、第一次世界大戦終了後、一九一八年秋から一九一九年一月にかけて、ガリツィアおよび旧ロシアの支配下にあったポーランドの全域で、ユダヤ人に対するポグロムや、何らかの暴行事件が発生した町や村は一三〇をくだらない。数人の死者が出たところから、略奪のみで終わったところまで、被害の程度はさまざまである。とくにポーランド軍とウクライナ軍のあいだで戦闘が起こった地域では、ポグロムにポーランド人兵士が関与し、そのなかで最大の惨劇となったのがルヴフであった。
 これらのポグロムに対してあがった国際的非難の声の大きさは、ポーランド政府をあわてさせる。一部のユダヤ系新聞では、ルヴフのポグロム犠牲者は二〇〇〇人から三〇〇〇人、いやそれどころか八〇〇〇人から一万人という推定まで添えて報道されていた。すでに述べたように、事実関係を調査するため、ポーランド外務省はフジャノフスキらをルヴフに派遣する。しかし国際的非難の声が高まれば高まるほど、当初のポーランド政府の当惑は、ユダヤ人に対する理不尽な怒りに変わる。一一月二七日のポーランド清算委員会は、ユダヤ人に対して次のように警告した。〈←120頁121頁→〉
 ユダヤ新聞で報道されている「いわゆる組織的に計画されたポグロム」は、ポーランド国民の怒りを挑発するものである。「もしユダヤ新聞が、これ以上世界に向かって不当にもポーランド人を中傷し続けるなら、ポーランドの当局は、怒れる民衆をもはや押しとどめることはできないであろう。そのときは、流布された中傷のなかでいわれていること[ポグロム]が、現実に起こるであろう。”
(野村真理『ガリツィアのユダヤ人――ポーランド人とウクライナ人のはざまで』人文書院、京都、2008年9月30日初版第1刷発行、120-121頁より引用)


“ ポーランド民族主義者のスローガンが切実な説得力を持ち始めるのは、一九三〇年代に入ってからである。彼らは、ポーランドの経済や高等教育機関からユダヤ人を排除するよう要求した。
 マダガスカル計画は、第二次世界大戦中のナチの荒唐無稽なプランのひとつとして、ホロコースト研究者のあいだではよく知られている。ナチは、フランスから植民地のマダガスカル島を割譲させ、そこへヨーロッパのユダヤ人を大量移送しようともくろんだが、マダガスカル計画の実現可能性を模索したのは、両大戦間期のポーランドの方が先だった。ユダヤ人をマダガスカル島に大量移住させることにより、ポーランドの農村の過剰人口に居場所を作り出そうというのである。農村の過剰人口問題とユダヤ人問題とがリンクされた。
 一九三七年五月、マダガスカル島への入植可能性を調査するため、ポーランド政府はフランス政府の同意を得て、晩年のピウスツキの副官の一人だったミェツィスワフ・レペツキを団長とする調査団を派遣する。フランス政府の同意がどのようなレベルのものであったのか、不明な点も多いが、とにかく一行は、レペツキに、ワルシャワのユダヤ移民援助協会のレオン・アルターとテルアヴィヴの農業技師という二人のユダヤ人を加えた三人で構成されていた。調査の結論は、三人のあいだで大きく異なる。調査後、三一〇ページもの大著を著したレペツキによれば、ヨーロッパ人の入植に適した気候や土壌の条件を満たすのは島の北部の高原に限られ、そこに五〇〇〇から七〇〇〇家族、人数にして二万五〇〇〇人から三万五〇〇〇人が移住することが可能とされた。このレペツキの楽天的な数字に対して、アルターによれば、マダガスカル島が吸収できる入植者はせいぜいで五〇〇家族でしかない。
 いずれにせよ、移住には少なからぬ費用がかかる上、三〇〇万のユダヤ人に対して、この人数では〈←130頁131頁→〉話になるまい。政府の指導者たちは、マダガスカル計画をユダヤ人問題の解決策として宣伝しながら、その空想性を承知していたのではないだろうか。一九三八年が明けるころには、この計画を口にする者はいなくなり、やがて、すべてがうやむやになっていった。しかし、あたかもユダヤ人がいなくなればポーランドの抱える問題のすべてが解決するかのように、ユダヤ人はポーランドから出て行ってほしいという願望は、ポーランド国民のあいだで広く共有されたままだった。
 確かに両大戦間期ポーランドでは、ナチ・ドイツのような、ユダヤ人のみを対象とする反ユダヤ法が制定されることはなかった。そのさい、ポーランド独立の英雄にして、両大戦間期ポーランドのカリスマ的指導者であったピウスツキの威光は無視しえない。ピウスツキは、ポーランドの諸民族の融和を唱え続けた。しかし一九三五年にピウスツキが死ぬと、反ユダヤ主義者の暴挙は過激化の一途をたどった。街なかでユダヤ人に対する暴力沙汰は日常茶飯事となったが、とりわけその舞台となったのが大学である。ユダヤ人排除を唱えるポーランド人学生たちは、カミソリの刃をつけた杖や棍棒でユダヤ人学生を襲い、講義室では、彼らにユダヤ人専用席に座るように強制した。ユダヤ人学生はこれを拒否し、乱闘騒ぎに発展することもしばしばだった。これに対してルヴフの工科大学は、一九三六年初め、大学当局が正式にユダヤ人席を導入する。これにいくつかの大学が続き、反ユダヤ学生の暴挙を追認した。”
(野村真理『ガリツィアのユダヤ人――ポーランド人とウクライナ人のはざまで』人文書院、京都、2008年9月30日初版第1刷発行、130-131頁より引用)

“ 一九一八年一一月のルヴフ争奪戦に敗北したウクライナ民族ラーダは、タルノポルへ移動した後、一九一九年一月初めにスタニスワヴフ(スタニウラウ)で再組織された。そして一月二二日、キエフのウクライナ人民共和国のディレクトーリア政権と両国家の将来的統一に関して合意に達する。この時点で西ウクライナ人民共和国の名称は、ウクライナ人民共和国西部州と改められた。その上で統一が実現するまで当面のあいだ、西部州政府はその領域内で完全な自治を行うとされたが、このとき西ウクライナ人民共和国の命運はすでにつきかけていた。一九一九年七月には、ポーランド軍が西ウクライナの全域を制圧する。一一月に西部州政府がウィーンに亡命すると、ディレクトーリア政権はこれを見捨て、ポーランドに対して西ウクライナを放棄することで合意した。西部州政府はこの合意を拒否し、一九二〇年の初め、亡命先のウィーンで国名を再び西ウクライナ人民共和国にもどす。しかし、第一次世界大戦後の講和条約の履行を監視するため連合国側が設置した代表者会議は、一九二三年三月、ポーランドによるガリツィア領有を承認し、これによって、ほとんど幻の国家でしかなかった西ウクライナ人民共和国は消え去った。
 一九一九年六月二八日にポーランドが連合国と交わしたマイノリティ条約は、まさしくポーランドのウクライナ人のような人びとの民族的権利を保護するための条約だったはずである。しかしポーランドは、連合国に押しつけられた約束の実現にははじめから消極的だった。東ガリツィアのウクライナ人に対するポーランドの一連の措置は、一九一八/一九年の独立闘争に対する報復的色彩さえ帯びていた。ウクライナ人は、民族文化の保護どころか、ウクライナ語で教育を受ける権利や、ウクライ〈←136頁137頁→〉ナ語での文化活動を制限される。そして、この明白なマイノリティ保護条項違反は、まったく是正されることなく、ついに一九三四年にいたって、ポーランドは国際連盟に対し、マイノリティ保護条項の無効を一方的に通告した。
 ポーランドのこのような仕打ちは、旧オーストリア帝国時代に東ガリツィアのウクライナ人が享受していた民族的権利からの大幅な後退をもたらす。それだけにいっそう、ウクライナ人のポーランドに対する反感をあおらずにはいなかった。”
(野村真理『ガリツィアのユダヤ人――ポーランド人とウクライナ人のはざまで』人文書院、京都、2008年9月30日初版第1刷発行、136-137頁より引用)

“ ユダヤ人に対するポグロムは、まさしくこのウクライナ人の熱狂と興奮のなかで発生した。
 部分的には内容が矛盾する同時代の記録や回想録によって当時の状況を再現すれば、ポグロムは六月三〇日のうちに、ルヴフの街頭で散発的に始まったと思われる。散発的というのも、六月三〇日の段階では、ポグロムは発生していないという証言とポグロムの発生を推測させる史料とが、ともに存在するからである。……”
(野村真理『ガリツィアのユダヤ人――ポーランド人とウクライナ人のはざまで』人文書院、京都、2008年9月30日初版第1刷発行、174頁より引用)

“ すなわちOUNは、原理的にはユダヤ人とボリシェヴィキを同一視することに対して警告を発しているが、ソ連併合後、西ユダヤと呼ばれた東ガリツィアの巷の民衆に、ボリシェヴィキのユダヤ人と〈←183頁184頁→〉そうでないユダヤ人の原理的区別を説いても無駄である。ソ連の占領によって最も辛酸をなめたのは、かつての支配民族であったポーランド人であり、またウクライナ人にとっても、ボリシェヴィキは、望んでもいない社会主義経済体制を携えて外からやってきた侵略者であった。ウクライナ人のインテリは、ウクライナ民族主義者を警戒するソ連の当局によって弾圧され、文盲も少なくなかったウクライナ人の農民が、ソ連の統治機構の中央部に入り込むことはなかった。他方、ポーランド人やウクライナ人の多くがソ連の支配に恩恵を感じず、ボリシェヴィキに不信の目を向けたのに対し、ユダヤ人にとってのボリシェヴィキは、ナチに対する守護者であったばかりではない。彼らは、両大戦間期ポーランドで台頭したきわめて暴力的な反ユダヤ主義からの解放者であり、ユダヤ人にも平等に社会的上昇の機会を与えてくれる者たちであった。それゆえ、ユダヤ人の多くがロシアに対して本能的恐怖心を抱く一方で、ソ連の統治機構の一翼を担い、いまや警察官に成り上がったユダヤ人も登場する。そして、ユダヤ人警察官が、かつての反ユダヤ主義者のポーランド人を取り締まるという立場の逆転も発生した。当時のルヴフの空気を示す同時代証言をあげておこう。

   ユダヤ人は、ポーランド人に借りを返した。それも、何倍にもして、ひどいやり方で……そのためポーランド人は強い復讐心を抱いたが、それを言葉で発散させることはできないため、復讐心は鬱積する一方だった。というのも「汚いユダヤ人」などと罵り言葉を口にしようものなら、民族間の憎悪を煽ったかどで五年間監獄送りになる危険があったからだ。”
(野村真理『ガリツィアのユダヤ人――ポーランド人とウクライナ人のはざまで』人文書院、京都、2008年9月30日初版第1刷発行、183-184頁より引用)


“ 最初の一連のポグロムが一段落した後、七月二五日から二七日にかけて発生したのが、シモン・ペトリューラ暗殺に対する報復としてのポグロムである。ペトリューラは一九二六年五月二五日、パリでユダヤ人によって暗殺された。ユダヤ人によるペトリューラ暗殺一五周年を口実とするポグロムが、日にちの異なる七月二五日に自然発生的に始まったとは考えにくいが、挑発者が誰であったのか、こ〈←189頁190頁→〉れも史料的には特定できていない。いずれにせよこのポグロムにおいても、ユダヤ人の男女を家から引きずり出し、暴行を加え、最後に射殺するにあたって、大きな役割を果たしたのはウクライナ人の民警である。三日間で殺害されたユダヤ人は二〇〇〇人以上といわれ、とくに集中的に犠牲になったのは、ルヴフで多少とも名を知られたユダヤ人のインテリたちだった。”
(野村真理『ガリツィアのユダヤ人――ポーランド人とウクライナ人のはざまで』人文書院、京都、2008年9月30日初版第1刷発行、189-190頁より引用)

・本書236-237頁の注釈(21)では、1919年のパリ講和会議に際して、西欧の主流社会に同化したユダヤ人と東欧のイディッシュ語を話すユダヤ人の差異が大きすぎたため、ユダヤ人を少数民族であると規定して自治権や国会での比例代表権を要求するシオニストと、単なる宗教的マイノリティであるとする英仏の同化ユダヤ人の間で議論がかみ合わなかったことが述べられている。

“ 一九一八年から一九二〇年にかけてウクライナでは、ペトリューラに率いられたウクライナ民族派の軍隊とボリシェヴィキの赤軍とが血みどろの戦いを繰り広げるあいだ、各地で残忍なポグロムが発生した。そのさいペトリューラは、指導者としてポグロムを阻止しようとせず、これを理由にユダヤ人によって暗殺された。
 ルヴフで七月二五日に始まったポグロムでは、ペトリューラ暗殺が口実とされたが、東ガリツィアのOUNとペトリューラの関係には微妙なものがある。第一次世界大戦終了後、一九一八年末にキエフで樹立され〈←251頁252頁→〉たディレクトーリア政権は、東ガリツィアで呱々の声をあげた西ウクライナ人民共和国に対し、ウクライナ人民共和国と西ウクライナ人民共和国の将来的合併を約束する。ペトリューラは、この中央ラーダの流れをくむディレクトーリア政権の指導者の一人であった。ところが一九一九年七月にポーランドが東ガリツィアのほぼ全域を制圧し、西ウクライナ人民共和国の命運がつきかけると、ペトリューラは、モスクワのボリシェヴィキとの戦闘を有利に進めるため、ポーランドに軍事援助を求め、代償としてポーランドの東ガリツィア領有に同意した。こうしてペトリューラが西ウクライナ人民共和国を見捨てたことに対し、この国のためにポーランドと戦った東ガリツィアのウクライナ民族主義者のあいだには、苦々しい怒りが残ることになった。”
(野村真理『ガリツィアのユダヤ人――ポーランド人とウクライナ人のはざまで』人文書院、京都、2008年9月30日初版第1刷発行、251-252頁より引用)

OUNは「ウクライナ民族主義者組織」の略で、イェフヘン・コノヴァレツにより1929年にウィーンで結成された、東ガリツィアのウクライナ民族主義運動の中心的な組織である(139頁)。前身となったのは、1920年9月にルヴフで結成された「ウクライナ軍事組織」(UVO)。

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感想投稿日 : 2022年12月4日
読了日 : 2022年11月12日
本棚登録日 : 2022年11月12日

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