ナラタージュ (角川文庫 し 36-1)

著者 :
  • 角川書店 (2008年2月23日発売)
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『それならどうして卒業式の日にキスなんてしたんですか』

“同じクラスにKっていたの覚えてる?T先生と結婚したんだってさ”。久々に会った高校時代の友人Sとの会話の中から、思いがけず知ったかつてのクラスメイト、そしてよく知る教師のそれからのこと。Kのことはうっすらと顔が浮かぶくらい。一方、当時20代後半でよく話を聞いてくれた、というより私の担任教師だったT先生。あの当時から付き合っていたのか、それとも…。教師だって男である以上、いや人間である以上、誰かを好きになり、結婚もする、でもその相手がかつての教え子というだけで、何か不思議な感情が押し寄せるのはなぜだろう。男と女が出会った先に生まれる恋愛感情。それが成就した先に訪れる結婚というゴール。それは、教師と教え子という関係であっても何ら問題のあることでもないはずです。一方で、生徒の側からはどう見えるのでしょうか。年齢が離れている場合の方が多いその関係。そもそも同年代の異性がたくさんいる学校という環境の中で、数限られた教師を好きになってしまうというその感情はどんな瞬間に生まれるのでしょうか。卒業後も続くその感情の継続の理由はどこにあるのでしょうか。そして『卒業式の日にキス』、燃え上がった気持ちに、さらに油を注ぐというような行為があったとしたら、その感情はどこへ向かうのでしょうか。

『まだ少し風の冷たい春の夜、仕事の後で合鍵と巻尺をジャケットに入れ、もうじき結婚する男性と一緒に新居を見に行った』というのは主人公の工藤泉。川べりの道を仲良く会話しながら歩く二人。『ずっと、川のそばに住みたかったの』、そして『高校生のときには近くの川沿いの道が好きで、よく歩いた』と言う泉に『君は今でも俺と一緒にいるときに、あの人のことを思い出しているのか』と聞く彼。『そんなふうに見える?』と聞き返す泉。『見えるよ。君に彼の話を聞いた夜から、俺は君を見ていてずっと思っていた』と返す彼。思わず泉は『それならどうして私と結婚しようと思ったの』と聞きます。しばらく黙っていた彼が口を開きました。『きっと君は、この先、誰と一緒にいてもその人のことを思い出すだろう。だったら、君といるのが自分でもいいと思ったんだ』と落ち着いて答える彼。『今でも彼に触れた夜を昨日のことのように感じてしまう』という泉。でも『実際は二人がまた顔を合わせることはおそらく一生ないだろう』、そして『私と彼の人生は完全に分かれ、ふたたび交差する可能性はおそらくゼロに近い』という泉は大学時代を振り返ります。父の転勤に同行した母、そして一人暮らしになった泉。そんなある日、『テレビを見ていると携帯電話が鳴った』、電話に出ると『ひさしぶり。元気にしていましたか』という懐かしい声。『しばらく言葉を失っていると彼も戸惑ったように黙り込んだ』という気まずい瞬間。『こちらこそおひさしぶりです、葉山先生』と答える泉。『じつは演劇部のことで相談があるんだ』と語る『葉山先生は私が所属していた演劇部の顧問だった』というあの頃。部員が三人になって劇が成り立たない部の活動を手伝って欲しいという葉山に、『本当にそれだけの理由ですか』と聞く泉。『ひさしぶりに君とゆっくり話がしたいと思ったんだ』と答える葉山。『一年前には四六時中ずっと胸の中を浸していた甘い気持ちがよみがえりそうになった』という泉。深夜に目覚めて寝付けなくなった泉は手帳を開きます。『手紙を挟むのは私の癖』という手帳には『もうずっと前から、葉山先生に宛てた手紙が挟んである』という状況。『最初に廊下ですれ違ったときから、私はおそらく葉山先生のことが好きだった』と記憶を辿る泉は『告白するつもりだった』とあの瞬間のことを思い出します。『葉山先生には恋人がいますか』と聞く泉に黙り込む葉山。そして『僕は誰よりも君を信用している』と静かに告げた葉山は『だから本当のことを言う。その代わりこのことは誰にも言わないでほしい』と続けます。そんな葉山が語ったこと、そして泉の中に燃え上がる思い。高校時代と大学時代の二つの想い出が交錯しながら物語は静かに進んでいきます。

「ナラタージュ」とは”ある人物の語りや回想によって過去を再現する手法”のことを指すようですが、この作品では、主人公の工藤泉が自らの過去、そして葉山先生との想い出を語っていきます。とても美しい表現に満ち溢れたこの作品。その中で、私は『月』の描写に魅了されました。冒頭で川べりを歩く二人が見る『流れていく水面に落ちた月明かりは真っ白に輝く糸のようにどこまでも伸びていて、水の行く先を映していた』という表現。一見とても静かな情景が思い起こされますが、それは今も葉山との過去に思いが繋がったままの泉の心の内を暗示します。そしてこの作品では全編に渡ってこの『月』が、要所要所で印象的に描かれていきます。例えば、演劇部の打ち合わせで久しぶりに葉山と再開した日、手帳に挟んだ手紙を見る場面では『いつの間にか透明な月が夜空に浮かんでいた』と、かつての気持ちがいつの間にか再び湧き上がってこようとする泉の心境を予感させます。そして、そんな泉は成り行きから赴いた小野の実家で再び月を目にします。『何度かまばたきして月を探した。たなびく雲が重なって上弦の月を抱いているようだった』というその表現。たなびく雲が重なって、月を抱いているという絶妙な表現、そしてこれから満ちていく上弦の月が今の泉の前向きな心境を感じさせます。さらには葉山と赴いた神社の境内から仰ぎ見た月は『ふと見上げると細い月が浮かんでいる。柔らかい光が降っていた』、と細い月ながらもそこから降り注ぐのは柔らかく包まれるような光であると感じる泉。この情景を『辺りは静まり返り、私たちはベンチに腰掛けて、同じ高さから月を仰いだ』と描き、さらに『静かですね』、『そうだな』と最低限のセリフで繋げます。そして、そんな”静”の表現の後に『あれから恋人をつくったりはしなかったんですか』、『結局あなたにとって私は一体なんだったのか』、さらに『それならどうして卒業式の日にキスなんてしたんですか』と畳みかけるように泉の感情の高ぶりを描いていく島本さん。”静から動”へと切り替わっていく絶妙な情景描写とセリフが引っ張る感情の動きがとても上手く描かれているように思いました。そして、この先も『月』が物語の行く末を照らし続けます。これ以上はネタバレになるのでここまでとしたいと思いますが、この作品では『月』というその時々によって見え方が変化する印象的な対象物を物語の進行に上手く用いていると思いました。そして、この作品では後で触れますが、もう一つ特徴的なものが登場します。

教師と教え子の関係、そして、それからを描いていくこの作品。思えば高校時代というのは、その関係が双方ともに、より男と女を意識する時代でもあります。『生徒の中には卒業が近くなると感傷や昂揚感からさほど好きでもない人間を好きだと思い込んでしまう子も多い』というある意味での一般論。でも、この卒業というイベントは関係する者の感情など考えずに、それまでの日常をまったく違うものに変えてしまう大きな力を持った人生の一大イベントです。小、中、高と数を重ねて、次第にそんな感情の整理の仕方を覚えて大人になっていく私たち。でも、そんな運命のイベントの最中に『それならどうして卒業式の日にキスなんてしたんですか』というような想い出が刻まれると『あの日から私はずっと同じ場所にいます』、とその後に続く泉の人生が影響を受けるのは当然のことだとも言えます。『あなたから連絡が来るのを待っていた。それでもあなたは思い込みだって言うんですか』と葉山に訴える泉。その一方で抗うことのできない事情が二人の前に立ち塞がる現実。このシーンを『私の言葉に葉山先生は黙り込んだ。彼のほうに向き直ると、靴の下で砂が鳴った。乾いた頬の上をぬるい風が通り過ぎていく』と描く島本さん。この『風』も先程の『月』と同様に作品の要所要所で印象的に描かれています。このシーンで『ぬるい風』だったものが『新しい風に吹かれたような気がした』と変化していく結末。何が泉を前に進めていくのか、何が泉を前に進めたのか、という物語を巧みに演出する『月』と『風』。情景描写と感情の動きの表現がとても上手く描かれた作品だと改めて感じました。

葉山先生のこと、そして葉山先生との想い出が寄せては返す波のように、泉の心の中で凪と時化を繰り返すこの作品。『君は今でも俺と一緒にいるときに、あの人のことを思い出しているのか』と、泉に出会う男性は皆、泉の心の奥深くにまで刻まれたその想い出の深さを感じざるを得ません。抗うことのできなかった想い出にいつまでも心囚われる泉、そしてそんな泉を現在進行形で愛する男たち。

『ゼロに戻ろう、と思った。マイナス1でもプラス1でもなく、ましてや0.1すら残さず、完璧なゼロに戻ろう』という泉。『新しく始めるために、葉山先生を忘れる必要が無いぐらい思い出さなくなるために』と葉山との想い出を『記憶の中に留め、それを過去だと意識することで現実から切り離して』生きていこうとする泉。でも、それを感じてしまう今の泉に繋がる男たち。『きっと君は、この先、誰と一緒にいてもその人のことを思い出すだろう』と感じざるを得ない泉のこれまでとこれからが、これでもかと執拗に描かれたこの作品。

なんとも言えない鬱屈とした、持って行き場のない感情がいつまでも心の中に尾を引き、胸がはちきれそうになる切ない思いに囚われる、そんな作品でした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 島本理生さん
感想投稿日 : 2020年7月30日
読了日 : 2020年7月30日
本棚登録日 : 2020年7月30日

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