希望病棟 (小学館文庫 か 46-2)

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  • 小学館 (2020年11月6日発売)
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『まさか聴診器から患者の気持ちが聞こえるなんて…あり得ない』。

私たちが体調を崩した時、病院では医師がその原因を探るためにさまざまな方法で身体を診てくれます。体温を測って、脈拍を測って、問題となる部位を診断していく。そこには、長年に渡る経験則に照らし合わせながら素早く病気の原因を特定していこうとする医師の力が問われます。そんな中でも如何にも診察されていると感じるのが『聴診器』を当てられる瞬間だと思います。そんな『聴診器』は金属でできています。季節によっては、いきなり胸に当てられることで、冷たい!とビックリさせられることもあります。でも、病気を治してもらいたいと願う患者の立場にあっては、そんな不快な感覚にも『聴診器の先っぽを温めてから胸に当てるっていう最低限の配慮はないんでしょうかね』と心の中で思うことはあってもそれを医師に直接訴えたりはしません。

では、そんな次の瞬間、その医師が『いきなり聴診器を引っ込めたと思ったら、先っぽを両手で包み込』み温めた上で、『再び胸に当てられた』としたらどうでしょうか?冷たいという不満を『声に出して言ったつもりはない。それとも、知らない間に声が出ちゃってたんだろうか』と不思議に思うのは当然です。『聴診器』は心音を聴くためのものであって、言葉に出さない患者の心の声を聞くものではないからです。

でも、この世には不思議がいっぱいあります。発達した科学技術をもっても解明できていない不思議の数々。そう考えると、この世に患者の心の声を聞くことのできる『聴診器』があってもおかしくはないと思います。

さて、ここにそんな『不思議な聴診器』が末期癌患者の心の声を医師に届ける物語があります。

『死にたくないよ』。

『こんなに早く死ぬとわかっていたら、自分が本当にしたかったことをやればよかったよ』。

そんな患者の心の声を聞くことのできる『不思議な聴診器』は、患者がその時々に思うさまざまな心の声を医師の耳に届けていきます。

『もう一度人生をやり直せたらいいのになあ』。

余命が見えたからこそ切実に募っていく患者の心の声。この作品はそんな患者たちが奇跡を体験する中で、再び前を向いて歩いていく様を見る物語。そんな力強い一歩の中にこの国に潜在する根深い問題の数々を浮き彫りにしていく物語。そしてそれは、そんな『やり直し』の人生の先に、私たちが人生を生きていくことの意味を教えてくれる物語です。

『野菜なんか食わなきゃよかった』と『我慢してニンジン食ってピーマン食って』も『結局は癌になったじゃんかよ』『あと数ヶ月の命だってさ』と『心の中で毒づ』くのは高校二年の小出桜子。そんな時『看護師の松坂マリ江』が入ってきて『桜子ちゃん、こちらが今度赴任された先生です』とひとりの白衣の女性を紹介します。『黒田摩周湖と申します』と挨拶する女性の変な名前が気になる桜子。そんな桜子に『小出さんは、遺伝子操作の治験のことはお聞き及びですね?』と訊く摩周湖は『癌を抑制するDNAのスイッチをオンにするんです』と説明します。そして『ご家族も同意されているということでいいですね?』と続ける摩周湖に『先生、さっき説明したでしょ。家族はいないんだって』と慌てて指摘するマリ江。そんな時『児童養護施設の指導員の由紀子』が入ってきました。『治験が始まれば、すぐに良くなるわ。希望を持つのよ』と言う由紀子に『治験をしたところで必ず治癒するとは言っておりません』ときっぱり言う摩周湖に『先生、それはいくらなんでも…』と何かを言おうとする由紀子を振り切って摩周湖は病室を後にしましたが追いかけてきた由紀子に詰め寄られます。『患者や家族の気持ちを逆撫ですることばかり言う。人の気持ちがわからない医者だ』と自らに貼られたレッテルを思う摩周湖。場面は変わり、『妻が身を挺して医療に貢献したとなれば、俺のいい宣伝になる』と平然と言ってのけた夫のことを思うのは国会議員の妻・谷村貴子。『末期癌が判明』し、治験の承諾をした貴子は『子供ができず後継ぎがいない』中で自分がいなくなった後の『後妻の候補を、既にあれこれ見繕っているに違いない』と夫と姑のことを思います。そして、見舞いに来た夫と姑が『今のうちに、支援者のことを詳しく書いておく』よう貴子に話しているのを聞いた摩周湖は『死ぬ前に書いておけということですか?』と患者の前で『死ぬ前に』という言葉を使ってしまいます。廊下に出た途端にマリ江に叱られた摩周湖。ひとりになった摩周湖は『どうしていつも、ああなってしまうのだろう』と自らのコミュニケーション能力のなさに悩みます。そんな時、『ひとり中庭のベンチに座り、花壇を眺め』る摩周湖の目に『何かがきらりと光』るのが見えました。近づくと『あれ?もしかして聴診器?』としゃがんで手にした摩周湖。そして、『その聴診器を拾ってしまったことが、すべての始まりだった』という『不思議な聴診器』を手にした摩周湖が患者の心の声を聴くまさかの物語が始まりました。

垣谷美雨さんの代表作の一つでもある「後悔病棟」の続編として書かれたこの作品。『末期癌の患者に向かって、「もうすぐ楽になりますから」と言っ』て部長に叱られた摩周湖を見た前作の主人公・ルミ子が花壇の中に不思議な力を持つ聴診器をわざと落とし『バトンタッチするよ』と心の中で摩周湖にエールを送るシーンで幕を下ろした前作の結末をまさしくそのまま引き継ぐ形で物語は展開していきます。前作は患者の心の声を聞くことができるという『不思議な聴診器』の力で末期癌の患者たちが後悔する自らの人生にやり直しの人生を見せてあげていくというファンタジー世界が描かれていました。となると、続編となるこの作品にも同じ構成を読者は期待するはずです。実際、前作の連作短編のように複数の患者の心の声を聞く物語は同じ形式で幾つでも物語を作っていくことのできる懐の深い構成の妙が光りました。しかし、垣谷さんがこの続編に選んだのは、『不思議な聴診器』が引き続き登場するも、それはあくまで脇役とした全く別物とも言える物語でした。

そんな物語には、前作のルミ子と同じ立場となり不思議な聴診器を使うことになる医師として摩周湖が登場します。しかし、この続編では他に二名のまさしく主人公級の女性が登場し、章ごとに視点がどんどん切り替わっていきます。そして物語はこの三人の人物が主人公となる三つの物語が複雑に絡み合うように展開していきます。では、そんな三人の人物について『不思議な聴診器』の力によって聞こえてくる心の声とともにご紹介しましょう。

・黒田摩周湖:『患者や家族の気持ちを逆撫ですることばかり言う。人の気持ちがわからない医者だ』というレッテルを貼られ、『自分は医者に向いていないのかも』と悩みの渦中にある中で、前作の主人公・ルミ子から不思議な聴診器を引き継ぐことになる神田川病院の医師。14の章で視点の主を務める。
→ 『不思議な聴診器』の力により、桜子と貴子の心の声を聞き、再び立ちあがろうとする二人の『やり直し』の人生をアシストしていく。

・小出桜子: 『もうすぐ死ぬことはわかっている』末期癌と診断された高校二年生。『都立の中で五本の指に入る』という『城南高校』に『児童養護施設』から通う。10の章で視点の主を務める。
→ 『不思議な聴診器』の力により、『生後数日で熊本の病院に捨てられた』、『お母さんを捜しに行きたかった』、そして『もう一度人生をやり直せたらいいのになあ』という心の声を摩周湖が聞く。

・谷村貴子: 『次の選挙に勝つことしか考えていないクズだ』という夫を国会議員に持つ代議士の妻、36歳。『キャバクラを辞めることができ、高級住宅街の主婦になれた』一方で『自分というものを失った』と感じている。9の章で視点の主を務める。
→ 『不思議な聴診器』の力により、『銀座で働き続けていた方が幸せだったかもしれない』という自由を失った後悔と、『赤ん坊を産んで捨てたことがある』という秘密を『墓場まで持っていかなければならない』という心の声を摩周湖が聞く。

上記の最後にそれぞれ数字で上げた通り、全33章の物語は視点の主を交代させながら、それぞれの主人公の人生の物語を描いていきます。前作では登場した患者たちが順々に亡くなっていきました。もちろん後悔の念を払拭した上でのサヨナラなので物語の後味は悪くありません。一方でこの作品では『治験』によって『癌を抑制するDNAのスイッチをオンにする』という治療の結果により、末期癌で死を待つのみだった桜子と貴子のいずれもが早々に治療の効果によりそれぞれの人生に復帰し物語の核心が始まるというところが前作との大きな違いです。この構成はあまりに大胆であり、途中でこの作品が『不思議な聴診器』の物語であるという基本線から完全に離れ、二人が主人公となる重量級の物語に置き換わってしまいます。上記の通り視点の主として登場する回数は摩周湖が一番多いにも関わらずその役割は『不思議な聴診器』の力によって他の二人の心の声を拾うことで読者に物語の全体概要を明らかにしていくというアシストの役割を果たすのが中心であり、前作の『不思議な聴診器』のルミ子があくまでも主人公の物語とは全く異なっています。この辺り、前作の続編という感覚で読み進める読者は間違いなくビックリするところだと思います。

そして、そんな重量級の物語は『貧困問題』に光を当てるものです。

『もしもどうしても進学したいっていうんなら、つべこべ言わずに風俗で働いた方がいいと思う』

『あのね、奨学金という言葉に騙されないでよね。まるで返す必要のない支援や給付を想像させて聞こえはいいけどね、要は低所得者世帯をターゲットにした貧困ビジネスだよ』

『奨学金は地獄への入り口って言う人もいるぐらいだよ』

そんな衝撃的な会話が次から次へと登場する物語は、『児童養護施設』の食事のありよう、施設を卒業した彼・彼女のその後の暮らし、そして施設に暮らす彼・彼女が大学へと進学することが如何に困難であるかなどそのリアルな現状がこれでもかというくらいに語られていきます。この国の奨学金制度の大いなる不備は昨今マスコミでもよく取り上げられています。『なんだかんだで一千万円近くなる』という巨費を返済しようにも、正社員になれず非正規雇用ではとても返済できない例、正社員になっても一流とされる企業の収入でない限り返済が滞りがちになっていく例などさまざまな切り口から語られる『児童養護施設』に生きる彼・彼女のいく末の厳しさが語られていく物語。『児童養護施設』を真正面から取り上げた作品としては有川浩さん「明日の子どもたち」が思い起こされますが、この作品で特徴と言えるのは、そんな彼女たちの未来に風俗への道を見せていくことです。この詳細は是非とも本編をお読みいただきたいと思いますが、いずれにしてもあまりに重い内容にとても驚くとともに、ついつい目を背けがちになってしまう『貧困』という言葉の先にある現実をとても分かりやすく見せてくれた作品だと思いました。私たちは真正面から『貧困問題』に目を向ける機会はなかなかありません。また、どうしても目を背けがちになってもしまいます。この作品は『不思議な聴診器』というファンタジーによって『貧困問題』をオブラートに包んでとっつき易くした上で、その問題から決して目を逸らしてはならないことを訴える垣谷さんの強い決意の元に書かれた作品である、そのように思いました。

そんな物語はもう一点、谷村貴子視点で『代議士の妻』という立場から選挙活動に明け暮れる国会議員を揶揄する物語が展開していきます。こちらはテレビドラマでも取り上げられる話題でもあり、そんな中で苦悩する貴子の視点を通して片や『貧困』に喘ぐ世界を、片や金の亡者となる議員の世界を絶妙に対比もさせながら読者を飽きさせることなくこの二者を見事に絡み合わせていきます。残念ながら、結末に向けて若干のドタバタ感、もしくは無理やり感を感じる部分はありますが、重量級のテーマを読後感よくまとめる垣谷さんの手腕には改めて感服しました。

『もう一度人生をやり直せたらいいのになあ』

そんな心の中の声を聞くことのできる『不思議な聴診器』が二人の末期癌患者の『やり直し』の人生の中で主人公・摩周湖にさまざまな声を届ける役割を果たしていく様を見るこの作品。そこには、

『だけど私は知っている。この世の誰ひとりとして信用できないことを。大人なんてみんなロクでもないことを』。

そんな風に社会を斜めに見て頑なに心を閉ざしていた桜子の心が解放されていく姿が、そして、

『人生をやり直せるなら、何でもいいから社会に貢献したい。できれば自分のような不幸な生い立ちの少女を救いたい』。

そんな風に思うも一歩を踏み出せなかった貴子が力強く前に進んでいく姿が描かれていました。

『不思議な聴診器』によって、自身の中に医師としての確かな自信を得て力強く歩み出す摩周湖の姿が強く印象に残るこの作品。『後悔病棟』とは全く異なる読み味の中に、『貧困問題』に真正面から向き合う垣谷さんの強い思いを感じた、そんな作品でした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 垣谷美雨さん
感想投稿日 : 2022年7月4日
読了日 : 2022年3月26日
本棚登録日 : 2022年7月4日

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