おまえじゃなきゃだめなんだ (文春文庫 か 32-11)

著者 :
  • 文藝春秋 (2015年1月5日発売)
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本棚登録 : 1876
感想 : 164
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“あなたの趣味はなんですか?”という質問に”読書”と答える人をどこか冷めて見ていた読書経験ゼロの一年前の私。

そんな私がそれからの一年で300冊を超える小説を読むことになろうとは、まさか一年前の自分には想像もできないことでした。では、人は何のために小説を読むのでしょうか?人によって様々な回答があると思います。そんな中でもそこに”非現実”もしくは”非日常”を期待すると回答する方は多いのではないでしょうか。そんな小説にも様々なものがあり、それを読むことによって私たちの心も揺さぶられていきます。”イヤミス”と呼ばれる作品群があります。読後、”イヤな気分”になるというその作品群。お金を払って、時間を費やして、そして嫌な気分になることを期待する、というのはよくよく考えてみるととても不思議、もしくはとても贅沢な考え方だと思います。それは読者の心の余裕の表れと言えるかもしれません。しかし、日々生きていくということは大変です。そんな心の余裕をいつも持てるとも限りません。そんな時に小説を読むとしたら、やはり重要なのは読後感でしょう。苦悩を経て歓喜に至るという”第九”のように最後に幸福を感じる作品はやはり良いものです。しかし、単に読後が良くても物語自体の読み応えが付いてこなければやはり不満は残ります。”第九”もベートーヴェン作というお墨付きあってのものだと思います。

さて、ここに一つの短編集があります。苦悩を経ても最後は必ず歓喜に至ることが約束されたこの作品。角田光代著という絶対的なお墨付きがついた、間違いのない読後感があなたを待つ物語です。

24編もの短編から構成されたこの作品。『例えば、最初の5編はティファニーさんからの、このシリーズのジュエリーを登場させてほしいという希望をもとに書いています』と角田さんが語る通り、企業とのタイアップ作品を中心に構成されています。そんな角田さんの小説の魅力の一つは『私はもともと、人の汚い暗い気持ちを書くことが多い』とご本人が認識される通りの世界観にあると思います。しかしタイアップの場合、『読後感の良い、幸せなものを』という依頼テーマの制約がどうしても付き纏います。その中で『「自分らしさ」をうまく按配して書くのが難しかった』とおっしゃる角田さんが描く24の物語は、この按配の絶妙さに魅せられる好編揃いだと思いました。短編とは思わせない構成力で読ませる作品から、短い中にピリッと角田さんらしさを絡めた作品まで実に多種多様な24の短編。そんな中から三編をご紹介したいと思います。

まずは表題作の〈おまえじゃなきゃだめなんだ〉という短編。『そのころの私の貞操観念の欠落には、いろんな外的・内的要因があったと思う』と振り返るのは主人公の『私』。『外的なものとしては、たとえば時代』と『ナンパも多かった。経済的にも潤っている人が大半だった』というその時代。『世のなかは好景気に沸き、何もかもがちゃらけたような雰囲気だった』というその時代。『内的要因の最たるものは、社会人デビュー』という『私』は『中学・高校と女子校』、『共学の大学では自意識をもてあまし、男性と交際はおろか、まともに口さえきけずに過ごした』という学生時代。しかし『大学を出て派遣社員として働きはじめてから、急に誘いを受けるようになった』というそれから。『二十代前半から半ばすぎまで』、『急速にいろんなものごとを学んでいった』という『私』は『求められるたびにその人たちと寝た』という日々を送ります。『一度寝てしまうと、私は相手に執着した。その執着こそが、恋愛なのだと』思う当時の『私』は『どのようにして知り合ったのかよく覚えていない』という芦川と付き合い出します。『デートをしたのは晴れた日曜日』、『車でやってきた』芦川と『道路標識が東京都から埼玉県に変わり』とドライブする『私』。その時でした。『あっ、こんなところに山田が!』とはしゃぐ芦川。『かかしのような絵の下に、山田うどん、と描かれていた』その看板のお店に入ることになった二人。『まるでお洒落ではない。色気がない。情緒がない』と店内に入って愕然とする『私』。『はい、メニュウ。セットがウリだけど、半端なく量が多いから気をつけてね』と言う芦川。『うどんと天丼。うどんとかつ丼。うどんとカレー…』というメニューに『なんどかどうでもよくなって、値段のいちばん高いうどんを頼んだ。高いといったって五百円前後だった』という展開。『この人は、私を恋愛相手として見なしていないばかりか、馬鹿にしている。見くびってる』と思い帰ろうとしますが『最寄り駅がどこだかわからない』と諦める『私』。運ばれてきたうどんを『やっぱり山田じゃなきゃだめなんだよなあ』と、ものすごい勢いですすりはじめた芦川。『三分の二ほど食べて』、『ささやかな抵抗』と残した『私』。そんな『私』は『嫌みを嫌みだとわかるように、嫌みっぽく』他の男性が連れていってくれた豪華な食事の話をしました。やがて、そんな若き日々も過ぎ去り『己の貞操観念の欠落を自覚したのは三十代に突入し数年たってから』という『私』は、『真人間になろうとようやく決意して』宗岡辰平と付き合い始めます。そして『こういうことが、ひとりの人と向き合うということなのか』と、初めて知った『私』のそれからが描かれていきます。

バブルの絶頂から崩壊へと至る時代背景に重ねるように、青春が終わり一人の時間を感じ始めた『私』が、『やっぱり山田じゃなきゃだめなんだ』という芦川の言葉をしみじみと思い出す年代へと突入していく姿が描かれるこの作品。大きく変化する時代背景の上に、『私』の心の動きが、丁寧に描かれていく好編だと思いました。また象徴的に登場する『山田うどん』に無性に行きたくなる、”うどんとかつ丼一つ!”と注文したくなる、そんな作品でもありました。

二編目は、〈さいごに咲く花〉という短編。『母の母、わたしにとっては祖母の頭に、それは大きな牡丹が咲いているのを』、『はっきりと見た』という『わたし』。『あんまりはっきり見えるものだから、一瞬、祖母はそういう髪飾りをしているのかと思った』と、病室を見舞う『わたし』。『にっこりとほほえみ、きてくれたの、ありがとう、と言って手招きを』する祖母。『夕方になってから病院にきた父と母と、夜、自動車に乗って帰』る途中、『ねえ、おばあちゃんの頭に、花が咲いていたの、見た?』と言う『わたし』に『「花?」と、怪訝な顔をしてふりかえる』母。『牡丹、だと思う。真っ赤で、花びらがたくさんあって…』と続ける『わたし』の前で『両手で顔を覆って泣きはじめた』母。先に降りたそんな母を見送り『悪いこと言ったのかな』と言う『わたし』に『そんなことないさ、かあさんはよろこんでいると思うよ』と返す父。そして『祖母が亡くなったのは次の月だった』というそれからが描かれていくこの短編。この作品中唯一のファンタジー世界が柔らかく描かれる中に『だれも彼も、男も女も、どんな人も、ひとつ、その人の花を持っている』という某グループの有名なあの歌の世界観とも重なる印象的な物語が展開します。とても短い作品ながら、大河小説の読後感にも似た大きな世界観が強く心に刻まれた印象深い作品でした。

そして三編目は、”プラチナギルド”との提携で描かれた〈消えない光〉という短編。四章で構成され、『なぜ、自分たちは別れることになったんだろう。どこからうまくいかなくなったんだろう』と離婚を決意した夫婦と、『結婚が家と家のものだって考え方がおかしいの、個人と個人の問題でしょ?』と、結婚に対して形式を重視する両親と対峙していく二組のカップルが登場します。そんな二組のカップルがそれぞれの想いのもとに『プラチナリング』と向かい合う様が、絶妙にシンクロしながら展開していくこの作品。指輪というものを前にした二組のカップルの四人のそれぞれの心の内が、指輪を見やる言葉の中に絶妙に垣間見ることのできるとても印象深い作品でした。私は普段、結婚指輪をしませんが、読後に思わずそんな指輪を手にして、この指輪を選んだ時の事ごとを思い返してしまったこの作品。ただの金属を超えた何かを秘める指輪、そんなことを考えさせてくれたこの作品。角田さんの筆の力で、提携作品という商業的な感覚を超え、じんわりとした温かな感情を湧き起こしてくれた好編でした。

『依頼されなければ書かなかったタイプの小説』を中心に24の短編が収録されたこの作品。人によって小説に求めるものは異なります。何を目的に、何を期待して、そして何を見たくて小説を読むのかというそれぞれの読者の思い。私も気分によっては、心にグサッと突き刺さるような、『人の汚い暗い気持ち』が綴られる、そんな物語を読もうという気持ちになる時もあります。でも一方で、気持ちが弱っている時にそのような内容は、弱った読者の心にとどめを刺すことにもなりかねません。世の中綺麗事だけで回らないのも事実です。しかし、現実がそうであるなら、”非現実”もしくは”非日常”な小説の世界に、正反対なものを求めたくなる時もあるはずです。そう、この作品は、そんな弱ったあなたにの心に寄り添う物語。そう、角田さんの筆の力で心安らかな読後感が保証された物語。

角田さんの短編の魅力を再認識した、誰もが前向きになれる、そんな作品でした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 角田光代さん
感想投稿日 : 2021年2月17日
読了日 : 2020年11月29日
本棚登録日 : 2021年2月17日

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コメント 5件

りまのさんのコメント
2021/02/18

さてさてさん
さてさてさんの、レビューを読んでいて、この本が読みたくなりました。本棚登録します。
りまの

さてさてさんのコメント
2021/02/18

りまのさん、この作品は本当に読後感が良いです。技量あってこそのものだと思いますが、角田さんのこういう感じの作品は珍しいと思うので短編集とはいえ、とても貴重だと思いました。

アールグレイさんのコメント
2021/03/05

さてさてさん、こんにちは。私も以前は角田光代さん、読んでいたのですが・・・・おまえじゃなきゃだめなんだ・・・
読みたくなりました。
早速登録します。

さてさてさんのコメント
2021/03/05

ゆうママさん、コメントありがとうございました。角田さんの作品はなんともやるせない気持ちの読後感のものも多いですが、この作品は間違いないです。角田クオリティが保証された上での安心の読後感。
今後ともよろしくお願いします!

アールグレイさんのコメント
2021/03/05

こちらこそ、よろしく

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