満月珈琲店の星詠み (文春文庫 も 29-21)

著者 :
  • 文藝春秋 (2020年7月8日発売)
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あなたは、『どこで間違っちゃったんだろうな…』とふと思うことはないでしょうか?

忙しい毎日は大変です。あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ…という日々は、心身ともに疲弊していきます。たまにはゆっくり朝寝坊したい、ボゥーっとする時間が欲しい、そんな思いに囚われることもあるでしょう。あまりの忙しさの中に、その時、その時にやらなければならないことをひたすらにこなしていく毎日、そのような中では、物思いに耽っている時間など当然ありはしません。忙しいということは、ある意味充実していると捉えることもできます。充実した時間の中には、そもそも物思いに耽っている時間がないのは当たり前なのかもしれません。

しかし、どんな人でも長い一生を見た時にそんな忙しい時間ばかりで回っているわけではないと思います。『ベランダの手すりに猫が現われ』、そんな猫が『手すりをしゃなりしゃなり、と歩いていく』そんな光景をボゥーっと眺める時間。それは、間違いなく時間がゆっくりと流れる、忙しさとは対極にある時間だと思います。忙しい日々を送っていれば、そんなゆっくりした時間は何よりもの憧れだったはずです。そんな時間が訪れることを何よりも望んでいたはずです。なのに、そんな時間を過ごす時ほど頭の中にはさまざまな思いが去来します。

『どこで間違っちゃったんだろうな…』

時間があるからこそ、今までの人生を振り返ってしまう、時間があるからこそ、今の自分を見つめてしまう、そんな展開はある意味自然な流れなのかもしれません。

さて、ここに『教師かシナリオ・ライターか、どちらかの仕事を選ばなくてはならなくなった』という先に『教師の仕事を捨てて、シナリオ・ライターを選んだ』女性が主人公の一人となる作品があります。さまざまな事情により『一切の仕事がなくなっていた』という今を生きるその女性。この作品はそんな女性が、満月の夜にだけオープンする『満月珈琲店』へと訪れる物語。そんな場で『占星術』の世界に触れる物語。そしてそれは、『占星術』の『星詠み』のその先に女性の前に新たな道が見えてくるのを感じる物語です。

『さて、仕事しなきゃ』と『ラーメン丼』を食べ終えてテーブルに向かうのは主人公の芹川瑞希(せりかわ みずき)。『私の職業は、シナリオ・ライターだ』という瑞希は、『ソーシャルゲームのシナリオ』を担当しています。『メインのシナリオ』ではなく『脇役キャラクター』の『脇役エンド』を担当する瑞希は、『あえて、そこそこの内容にしなくてはならない』という制約下のその仕事が『なかなか難しい』と思うものの、一方で『できれば、脇役ではなく、難易度が高いヒーローとのラブシーンを書きたい』と思います。そんな時、スマホが振動し『お久しぶりです、芹川先生。中山明里です…』と始まるメールを受信した瑞希。『今京都に来ています。もしお時間が合いましたら、会えませんか?』という『今やディレクター』の明里からの内容に『彼女に企画書を送っていた』こともあり『はい、ぜひ』と返した瑞希。そして、待ち合わせ場所へと向かった瑞希は電車の中で『私、小学校の頃、先生にお世話になった…』と一人の女性から話しかけられました。近況などの話をして降りていった女性を見送り、『どうして、シナリオの方を選んだのだろう』と暗い気持ちになった瑞希は、『教師の仕事を捨てて、シナリオ・ライターを選んだ』過去を悔やみます。そして、待ち合わせのホテルで明里と会った瑞希は『芹川先生は、本当に素晴らしいご活躍でしたよね』と『過去形』で言われ、自らの過去を振り返ります。『大手テレビ局』主催の『「ドラマ・シナリオ大賞」を受賞した』二十代の瑞希は、『ヒットメーカーと謳われ、ゴールデンタイムの脚本を手掛け』非常勤教員の仕事を辞めました。しかし、『三十代半ばになった頃』、『それまでが嘘のように、まったく数字…視聴率が取れなく』なった瑞希は『プレッシャーから一度仕事を投げ出し』、それを機に一切の仕事がなくなってしまいました。そして、目の前の明里は、『企画書を会議にかけさせてもらったんですが、通りませんでした』と頭を下げて謝るとカフェを後にします。一人になり、『もう、諦めた方がいいのかな…』と考えていると、『あなたの書くストーリー、面白いよね』『でもさ、今じゃあ、ウケないよね』と隣のテーブルの『二十歳前後』の男の子が話しかけてきました。さらにそこに『お前は何を突然、失礼なことを言っている』と『四十歳前後の男性』が現れました。瑞希のことを『瑞希センセ』と言う男の子は、『書き方が今の時代と違うんだよねぇ』とも言います。そして、男性に連れられて店を去ろうとする男の子は『もし時代を読むことを知りたかったら、ここに行くといいよ。今夜は、満月だからオープンしてるんだ』と言うと『一枚の名刺』を差し出しました。『満月珈琲店』と書かれた名刺から顔を上げると『すでに彼らの姿はなくなってい』ました。そんなお店のことが妙に気になった瑞希は『店構えを見るだけ…』と名刺に書かれた住所へと向かいます。そして、『小洒落たトレーラーカフェ』へと行き着いた瑞希は、『「満月珈琲店」へようこそ』と、『エプロンを着けた大きな大きな三毛猫』に声をかけられるのでした。そんな店に入った瑞希が『星詠み』をしてもらったその先に、自身の今を認識した先の物語が描かれていきます。

“出生図という『運命のレコード』を詠む、猫の星詠みマスターがいる『満月珈琲店の星詠み』は、私がずっと書きたいと胸に抱いていた西洋占星術をモチーフにしたお話です”。作者の望月麻衣さんが〈あとがき〉でそんな風に語られるこの作品。望月さんの代表作であり、シリーズ化もされている絶品ファンタジーです。ファンタジーは元々私が最も愛するカテゴリーの一つであり、この作品自体ずっと意識していました。しかし、『西洋占星術』というものに対する知識が全くないことがそんな私を躊躇させてきました。しかし、今回思い切って手にしたこの作品には『占星術』に対する丁寧な説明の中にそんな私の不安を一掃する興味深い世界がありました。

では、そんな作品の魅力を三つの側面から見ていきたいと思います。まずひとつ目は、ファンタジーと”お仕事小説”の融合を見せてくれる部分です。三つの章から構成されるこの作品では四人の主人公が登場します。物語は章単位でそんな主人公たちに順番に視点が回っていきます。簡単に整理したいと思います。

・〈第一章 水瓶座のトライフル〉: 『シナリオライター』の芹川瑞希が主人公

・〈第二章 満月アイスのフォンダンショコラ〉: 『ディレクター』の中山明里が主人公

・〈第三章 水星逆行の再会〉
- 〈前編 水星のクリームソーダ〉: 『IT会社のエンジニア』の水本隆が主人公
- 〈後編 月光と金星のシャンパンフロート〉: 『ヘアメイク』の早川恵美が主人公

そして、主人公たちの前に現れるのが、この作品の書名にもなっている『満月珈琲店』です。それぞれの章でそんなお店の登場のさせ方を変えていく望月さんですが、一章目のお店登場の瞬間を見てみたいと思います。

『大きな満月が皓々と桜を照らしている』、『月の光を受けながら、川は滔々と流れていた』という印象的な月夜の道を歩く瑞希が川下に目を向けると『まん丸い月の下、列車の車両がひとつ、ぽつんとある』のを目にします。『満月珈琲店』と看板に書かれた『小洒落たトレーラーカフェ』の前に置かれた『テーブル』の上には『ランタンが置かれていて、キャンドルの火が揺らめいて』います。『どきどきしながら歩み寄』って席を下す瑞希。そんな瑞希の前に、『エプロンを着けた大きな大きな三毛猫が、コップが載ったトレイを手にして』現れました。『顔はまんまるで、目は三日月のように微笑』む猫は『お待たせしました』と優しい声で瑞希に語りかけます。リアルな『シナリオ・ライター』の苦悩を描く物語に、突如ファンタジー世界が登場するなんとも魅惑的なワンシーン。現実とファンタジーを巧みに融合させる望月さんの見事な筆致にとても魅了されます。

次に二つ目は、『西洋占星術』に関する記述です。”私が、西洋占星術に出会ったのは、二〇一三年の頃でした”と語る望月さんは、”星の流れに従って行動するようにした”。そして”星の流れを意識し始めたことで、私はどんどん開運していきました”と続けられます。この作品では、そんな『占星術』の『惑星期と年齢域』という考え方から語られ始めます。主人公の芹川瑞希のことを『お嬢さん』と呼ぶマスター。そんなマスターに『もう四十ですよ』と言う瑞希に『四十は、惑星期で言うと「火星期」。まだまだ、お嬢さんです』と説明するマスター。そして、『惑星期と年齢域について説明を始めた』マスターは、『占星術』を知らない瑞希に分かりやすく考え方を説明していきます。

・月: 『生まれてから七歳』
→ 『この期間に、人は「感覚」「感性」「心」を育てる』

・水星: 『八歳から十五歳』
→ 『小さく窮屈ながらも初めて社会に入り、様々なことを学ぶ時期』

・火星: 『三十六歳から四十五歳』
→ 『様々な学びを自分のものとして、ようやく能力を発揮するという時期』

・海王星: 『八十五歳から死に至るまで』

・冥王星: 『死の瞬間を意味する』

なるほど、九つの惑星に太陽と月を加えた十一の星を人の年齢に当てはめていくというその考え方。ここから読み取れば、『「火星期」は、星的に言うと、ようやく「成人」として歩み始めたところなんです。ですから、まだまだお嬢さんなんですよ』という説明がよく分かります。そして、そんなマスターは、『それぞれの時期に、必要な学びがありまして、ちゃんと学んでいないと、補習があるものなんですよ』と続けます。『たとえば月の時期 ー つまりは子どもの頃に、ちゃんと親と向き合っていないと、二十代半ばの太陽期に親と大きく衝突してしまったり…』という内容は、進むべき道が見えなくなっている今の瑞希に納得感のある説明を与えていくのみならず、私のようにこの作品で初めて『占星術』というものに触れる人間にも考え方がスーッと入ってきます。このように、この作品は全編に渡って『占星術』を主人公の生き様に上手く当て嵌めながら、主人公にも読者にも納得感のある展開を見せていきます。そう、『占星術』と小説の親和性の高さをとても感じさせてくれる物語だと思いました。

最後に三つ目は、まさかのスイーツの数々の登場です。この作品では、作品冒頭に八つの魅力的なスイーツのイラストが掲載されています。そのうち四つが章題にもなっているこの作品ですが、物語の中に登場するファンタジー世界、『満月珈琲店でそれらのスイーツが主人公たちに提供されます。その中から『満月バターのホットケーキ』を見てみましょう。

『当店自慢の「満月バターのホットケーキ」です』と、瑞希の前にマスターが並べた『ホットケーキ』。『白い皿に丸いホットケーキが数枚重なっていて、その上に丸いバターが載っている』という品に『星のシロップをたっぷりかけて、 どうぞ』と言われた瑞希は、頷いて『バターの上にシロップをかけ』ます。『星のシロップは、その名の通り、キラキラと金銀の光を放ちながら、丸いバターの上に落ちて、ホットケーキへと広がって』ゆきます。そんな『ホットケーキを一口大に切って、口に運』んだ瑞希は『ふんわりとした優しい甘み』『濃厚なバターに、星のシロップがとても爽やかだ』と思います。『懐かしいのに、初めて食べるような味わい』の『ホットケーキ』を『私は今、これが一番食べたかったんだ、と心から思』います。『美味しいっ』と思わず言葉を発した瑞希は、『この感動は、もしかしたら幼い頃、初めてホットケーキを食べた時に抱いた感情に近いのかもしれない』と思います。私も『ホットケーキ』は大好物の一つですが、それ私にもちょーだい!とオーダーしたくなるとても魅惑的な描写だと思いました。この作品は上記の通りそんなスイーツのイラストがカラーで掲載されていますので、余計に食べたくなる、食欲をとても刺激される作品だと思いました。

そんなこの作品は、上記の通り”お仕事小説”としての側面も見せます。残念ながらそれぞれの短編はとても短く、それぞれのお仕事を十分に描いているとまでは言えませんが、それでもそれぞれの主人公たちが、それぞれのお仕事の中でさまざまな思い、悩みを抱えていることがよく伝わってきます。その中でも非常勤教員をしながら『シナリオ・ライター』もしていたという瑞希の物語は印象的です。二つの仕事の二者択一の場面で、『教師の仕事を捨てて、シナリオ・ライターを選んだ』という瑞希。かつて『ヒットメーカーと謳われ』ていた時代を経て『一切の仕事』を失ってしまった瑞希は、進むべき道が見えなくなってしまった今を生きていました。この世に数多ある小説には、この瑞希に似た境遇にあるような人物を描いた作品は多々あります。数多の小説はそれぞれにそんな主人公がどのように再び顔を上げるのか、どのように再び前を向いて歩き出すかをそれぞれのバネを使って描いていきます。この作品では、『占星術』がその役割を果たしていきます。『星を詠む』ことで、今の停滞の原因を探り、それを起点として未来へと導いていく物語展開。分かりやすく説明される『占星術』の考え方を、ファンタジーという舞台の上で、絶品スイーツが演出する中に描いていくこの作品。”この作品がきっかけとなって少しでも占星術に興味をもっていただけたら嬉しいです”とおっしゃる望月さんが描く物語。桜田千尋さんが描かれたイラストの数々との見事なイメージの一致もあってとても印象深く読み終えることができました。

『「満月珈琲店」には、決まった場所はございません』と、にこりと目を細めて説明する大きな三毛猫がマスターを務めるファンタジー世界の『珈琲店』が登場するこの作品。そんな作品には、リアル世界にそれぞれの悩みを抱えて生きる主人公たちの苦悩が描かれていました。初めて接する人にも『占星術』の考え方を分かりやすく伝えてくれるこの作品。絶品スイーツが物語を絶妙に彩ってもいくこの作品。

全く知識のなかった『占星術』に興味津々にさせてくれたとても優しい世界観の物語でした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 望月麻衣さん
感想投稿日 : 2023年4月15日
読了日 : 2022年12月27日
本棚登録日 : 2023年4月15日

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