タルト・タタンの夢 (創元推理文庫)

著者 :
  • 東京創元社 (2014年4月27日発売)
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『どうして彼女が出ていったのか、本当にわからない。話してくれなければ、なにもわからないのに、電話にも出てくれないなんて』と困り果てた一人の男性がここにいます。そんな困り果てた男性を助けてあげたいと思います。

さて、奥さんはなぜ突然出ていったのでしょうか?あなたも一緒に考えてみてください。…と唐突に言われても困りますよね。では、男性の語る言葉をヒントにしてみましょうか。そんなヒントは次の三つです。

・ヒント1。『なぜか食器戸棚の中に、彼女がフランスで買ってきたジャムがあったんだ。うちはわたしだけでなく、彼女も甘いものは食べない』

う〜ん。これだけじゃあ全く意味不明ですね。この少し前に奥さんはフランス旅行から帰国したそうです。ジャムとチーズがお土産だったようですが、そのお土産にヒントがありそうです。どんなチーズなんでしょうか?

・ヒント2。『カマンベールとかリヴァロとかロックフォールだとか、そういうものだ。もうほとんど食べてしまった』

う〜ん、これってヒントなんですかね?そんな男性に、まだ食べずに残っているものはありますか?と聞いてみました。これが最後のヒントです。

・ヒント3。『そういえば直径二〇センチほどのハードチーズが冷蔵庫に入っていた』

はい、ヒントはここまでです。えっ!意味不明。わかるわけないじゃん!とご不満なそこのあなた!そうですよね、私にだって意味不明です。なんのことだかわかりませんよね。でも、たったこれだけのヒントで十分だという人がここにいらっしゃいます。このヒントを聞いて『なぜか満足したように頷いた』というその人の名は三舟忍。フレンチレストラン『ビストロ・パ・マル』の料理長です。

この作品は、そんな彼が、料理や食材をヒントにして、数々のミステリーを解決していく物語です。なお、この質問の答えは当然ネタバレになりますのでここには書けません。悪しからずご了承ください…m(_ _)m

『この後は、コーヒー、紅茶、エスプレッソ、それと、消化を助けて、気持ちをリラックスさせる菩提樹のハーブティーを用意してありますが、いかがいたしましょう』という質問に『彼女は、ハーブティーを、そうして連れの男性はエスプレッソを注文する』というその光景。ここ『ビストロ・パ・マルは今日も満席だ』というそのお店は『カウンターが七席、テーブルが五つという小さなレストラン』。『料理人の志村さんが、カウンターに鋳鉄の鍋を置いた。中身は、豚足とレンズ豆の煮込みだろう』という『フランスの家庭料理っぽいメニュー』が人気の『パ・マル』。『豚足とレンズ豆の煮込みは、鍋ごと、客のテーブルに供することになっている』ため『取りに行こうとすると』、『目で合図』をし、代わりに行ってくれた金子。『〈パ・マル〉のソムリエ』で『まだ二十代後半、潔いほど短くて刈り上げた髪が印象的な女性』という金子。そして、『店長でもある料理長の三舟忍。〈パ・マル〉の従業員は、この四人ですべてだ』とその四人の一人である高築智行は語ります。そんな時、『ふいに、金子さんが、ぼくの横にやってきた』という展開。『高築くん、新しい句ができたの、聞いてくれる』という『ソムリエの金子さんの趣味は、なんと俳句』。『あわてて、どこかに仕事がないか探した』高築の『シャツの袖をがしっとつか』み、『逃げようとしても無駄よ』と言う金子。『ジャイアンの歌ほど、苦痛を感じるわけではない』ものの『感想を言わされるのがつらい』と感じている高築。『焼いて知る、タルト・タタンの高カロリー』と詠んだ金子の俳句に『それは、俳句じゃなくて、川柳と言うんじゃ…』と思わず呟いた金子に『俳句よ。だって、ちゃんと季語もあるでしょう』と返す金子。季語は『りんごよ』と付け加える金子。『タルト・タタンはたしかにりんごのタルトだが、それが秋の季語になるものだろうか』と思う高築。そんな時『やあ、遅くなって悪かったね』と女性を連れた『画廊の若きオーナー』の西田さんが来店します。『仔羊のロティ』と『和牛の赤ワイン煮込み』をメインとしてオーダーした西田は『ああ、シェフ。そうだ、紹介しておこう。この女性は、串本法子さん。実は、先日、婚約したばかりなんだ』と告げました。『それは、おめでとうございます。金子くん、シャンパンをサービスし』て、と挨拶する三舟シェフ。そして『和やかなムードのまま、食事』も終わり、『楽しげに帰っていくお客様を見送って、店に戻ろうとした』高築は、ふと、足を止めます。『なぜか、通りの向かいの路地に、二十くらいの女の子が立ってい』るのに気づいた高築。『だれかを待っているように、じっと下を向いて』いる女性。『なんだろう』と思うも『そのまま店に戻って、その女の子のことはすっかり忘れてしまった』高築。しかし、後日、その女性がレストランを訪れ、まさかの展開を辿る〈タルト・タタンの夢〉というこの短編。〈パ・マル〉というそのお店、そして四人の従業員の人となりをさくっと紹介しながらプチミステリーが展開する好編でした。

七つの短編から構成されるこの作品。『ビストロ・パ・マルは今日も満席だ』というフレンチレストランを舞台に、そのお店を訪れる人が抱える悩みや疑問を、シェフである三舟が解き明かしていくこの作品。”グルメ・ミステリー”といった趣きで物語は展開していきます。そんな七つの短編に共通して登場するのが従業員の四人。料理長の三舟、副料理長の志村、ソムリエの金子、そしてギャルソン(ウェイター)で主人公の高築という面々。この作品はシリーズ化されていてこの先にも続いていきます。そういった場合、キャラの個性をいかに打ち出せるかが要です。そういった意味でも四人を束ねる料理長の三舟のキャラ設定は重要です。『無口だ』という三舟。しかし、その風貌は『長めの髪を後ろで結び、無精髭など生やして、少し崩れたいい男、といった風情』と、なんだかフレンチレストランにはすぐには結びつかないイメージです。しかも副料理長の志村曰く『あれは、武士をイメージしてやっているらしい』というその理由。その始まりは『フランスで修行中、「MIFUNE」という名札を見た客から、「おまえはあの三船敏郎の親戚なのか」』と聞かれ、さらには『あの店には本当のサムライがいる』と話題になったという、なんだかフランスだとありそうな気も?というその理由が語られます。もうこれだけで、三舟のイメージが読者の中に出来上がってしまいそうな強烈なインパクトです。そして、上記で触れたような妙な俳句を作って高築を困らせるソムリエの金子。そんな金子は『よいソムリエになるのには、たくさんのよいワインに触れることが肝心』と考え、『格好の教材』として『客が注文したワインの残り』に期待するちゃっかりした一面も見せます。この二人の”キャラの立ちぶり”に比べて、志村、そして主人公の高築はどちらかというと控え目に物語を回していく役どころです。物語は、登場人物全員が強烈な個性をぶつけ合っても進んではいきません。凸と凹の組み合わせはどうしても必要だと思います。そういった意味でも、主人公を控え目な、”普通の人”的な役どころに当てることはこういった設定の物語の場合は特に重要だと思います。読者は違和感を抱く余地のない”普通の人”高築に自然に感情移入していきます。そして、その上で他の強烈なキャラクターの個性を楽しむことができる、また、そんな高築が困らせられても、なんだか可愛くも感じて応援したくなる、そんな風に登場人物四人の役割分担がとても絶妙な作品だと思いました。

そんなこの作品で注目したいのは、次から次へと給仕されていく料理です。レストランを舞台にし、来店するお客さんに合わせて提供するメニューを変え、お客さんにそこに何かしらの気づきを与えていく、そういった構成の作品というと小川糸さん「食堂かたつむり」が思い起こされます。しかし、この作品が「かたつむり」と違うのは、その提供される料理の内容がソムリエ金子の薦めるワインと共に味わう本格的なフランス料理一本勝負だというところです。そんな中から、お店の姿勢がわかるシーンをご紹介したいと思います。『今日は少し腹具合が悪くてね』と訪れた常連客の西田。それを知って『大麦と帆立のスープ、生姜風味。これなら、体調の悪い人でも大丈夫だろう』とメニューを決める三舟。『見れば、帆立はほぐしてあるし、大麦は圧力鍋の効果で柔らかく煮えているようだ』という見た目の説明に続いて『鶏でとったらしい澄んだスープの中、生姜と、わずかに散らした黒胡椒の香りが、食欲をそそる』と今度はその香りの表現が続きます。それは読者の視覚と臭覚を刺激し、頭の中に美味しい料理のイメージが自然と浮かび上がってきます。それによって『これはいい。滋味が身体に染み渡るようだ』とそれを食した西田の感想が、読者の中にストンと落ちてきます。『蒸した平目に、トマトとパプリカのソースをあしらったもの』というメインも残さずに食べた西田。『先ほどまでの、暗い表情が消えて、楽しげに会話を続けている』という状況の中、デザートへと進みます。『白桃のコンポート、しかも、冷やさずにあたたかいソースをかけて』というそのデザート。ソースは『白ワインと吉野葛』というお腹への配慮を最後まで徹底した三舟の作るその料理。『いやあ、デザートまで楽しめるとは思わなかったよ。今日はもう、料理を眺めるだけだと覚悟していたのに』という西田の言葉の説得力を感じるそのシーン。そんな料理を作り続ける三舟の背中を見る高築は『その背中がなぜか頼もしく、あたたかく見えた』と感じます。このシーンのあと、ミステリーに対峙するシーンへと物語は展開していきますが、強烈なキャラクターと印象づけられた三舟の見せるこういった料理への向き合い方が丁寧に描かれることで、単なる強烈さを超えた三舟のイメージが読者の中に出来上がっていく、そのように感じました。

そして、この作品はミステリーの側面も併せ持っているのが大きな特徴です。上記した常連客・西田の腹痛の原因、フランス人の恋人が最低のカスレを作った理由、そして『直径二〇センチほどのハードチーズ』を残して妻が出ていった理由…とそれぞれの短編で三舟は料理や食材をヒントにそこに隠された理由を一つひとつ明らかにしていきます。こう書くと、三舟が探偵か何かのようにも感じてしまいますが、少なくとも私は、読中、読後ともに、そんな印象は全く抱きませんでした。それよりも三舟の料理人としての料理に対する真摯な姿勢が強く印象に残りました。それは、彼の推理の中で発せられた次の言葉にも感じられるものです。『わたしの料理は、ただ、おいしく食べてもらうことだけを考えている』という三舟。その一方で『だが、すべての料理がそういうためだけに作られているのではない』とも考えます。『人は楽しむためにも食べるが、生きるためにも食べる』。そういった料理と自分の作る料理は役割が異なると言う三舟。『日々の憂さを晴らすための、楽しみとしての料理』というものがあっても『それは決して日常ではない。毎日続けば飽きてしまうし、身体だって壊す』というその違い。『楽しみとしての食事が、日々の糧に取って代わることはできない』というその考え。これはあるミステリーを解決する場面で登場する台詞ですが、こういった料理、そして料理人の役割を冷静に見れるその視点が、結果としてこの作品で取り上げられるミステリーを解決する起点に繋がっていきます。三舟という存在は、決して作り物っぽい探偵などではなく、あくまで優れた洞察力による食のプロの仕事師としての姿である、そう感じました。

『そんな気取った店ではない。凝ったメニューも多少あるが、基本的にレストランではなく、ビストロだ』という〈パ・マル〉。それは、『小さな店だからこそ生まれる、お客さんとの親密な関係だとか、心地よさというものも存在する』というお店でした。そんなお店を訪れる人が抱える悩みや、過去についた傷跡の原因を、料理や食材にヒントを得ながら、一つひとつ解き明かしていくこの作品。

サクッとスッキリ、それでいて深い味わいの残るフランス料理を食べたような読後感。そんな料理に出会える居心地の良いレストランのような作品でした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 近藤史恵さん
感想投稿日 : 2021年2月10日
読了日 : 2020年12月30日
本棚登録日 : 2021年2月10日

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