ランチのアッコちゃん

著者 :
  • 双葉社 (2013年4月17日発売)
3.63
  • (377)
  • (1072)
  • (977)
  • (156)
  • (17)
本棚登録 : 6377
感想 : 1010
5

オフィスのお昼休みは12時〜1時の間というのが一般的でしょうか。午前中に発覚したとんでもない失態に、お昼休みが吹っ飛んだという苦い経験(汗)を思い出したりもしますが、普通には一日の中の一つの区切りとしてホッとするひと時であることは間違いないと思います。私は外食したり、パンを買ってきたりといった感じですが、買ってきて自席で食べると、思いがけず同僚たちのふとした素顔を見るような思いに囚われることがあります。お弁当持参の人、パンを買ってきた人、この人いつ食べたのかなあと思うくらいに自席に伏せてお休みモードの人。そんな光景を目にするとついついお弁当持参の人に質問をしたくなってしまいます。“自分で作ってるの?” 今の時代、そんな質問も若干憚られる時代になりつつあるのかもしれませんが、”はい”、”いえ、母が”、”子どもとペアでカミさんが”、まあだいたいこんなところでしょうか。そして、チラっと覗き見するお弁当には、そんな答えの後ろに彼らの生活、考え方が垣間見える、お弁当というのはなかなかに奥深いものだと思います。では、そんな同僚に対して、”そのお弁当を代わりに食べてもいいですか?”といきなり私が聞いたら何が起こるでしょうか?もし、あなたがそんなことを言われたら、どう答えるでしょうか?

『ただいま。ああ、お腹減ったー。ランチを食べ損ねたわ』と『後ろを通り過ぎていくアッコ女史の大きな声』にどきっとしたのは澤田三智子。『小学生用の教材を専門とする小さな出版社』である『株式会社 雲と木社 営業部』に派遣されてまもなく一年という三智子。十三時二十分という時計を見て『いつの間にかこんな時間だ』とお昼休みに入ろうとします。その時『澤田さん、もしまだだったら、これからお昼一緒にどう?』と声をかけられる三智子。『部長席からにこりともしないでこちらを見ている』のは『アッコ女史こと黒川部長』。『四十五歳の独身』という彼女は『がっちりとした肩幅に身長百七十三センチ、つやつやのおかっぱ頭が、某大物歌手を思わせることと、下の名前が「敦子」であることから』このあだ名がついたという経緯。でも『もちろん面と向かって「アッコさん」なんて呼ぶだけの勇気がある社員はいない』という職場内。お弁当持参の三智子が口を開こうとした時『ごめんなさい。あなた、確かお弁当持参だったわね。毎日作るなんてマメよね』と先に返すアッコ女史。『今日はあんまり食欲がなくてまだ食べてないんですよね。このまま持って帰ろうかな、と思ってて…』と返す三智子に『なら、私が食べてもいい?迷惑かしら?』と言うアッコ女史。『迷惑だなんて、め、滅相もないですっ』と急いで部長席へとお弁当を持って行く三智子。『ありがとう。なんか悪いわね』、『いえ、召し上がっていただけたら、こちらも助かります。粗末なもので恐縮です』と会話もそこそこに恥ずかしくて部屋を出た三智子。オフィスに戻ると『ごちそうさま。美味しかったわ』とお弁当箱を手渡すアッコ女史は『こんなに美味しいお弁当を食べたことがない。似てるの。母の味と』と語ります。そんなアッコ女史はいきなり三智子の肩に手を置き『来週一週間、私のお弁当を作ってくれない?』と言い出します。驚く三智子に『もちろんお礼はするわよ。私の一週間のランチのコースと取り替えっこするの』と続けるアッコ女史。『どうしてこんなに面倒なことになってしまったのだろう』と嘆く三智子。そして、そんな二人の『ランチ取り替えっこ』の一週間が始まりました。

4編の短編から構成されるこの作品ですが、アッコ女史と三智子が主として登場・活躍するのは連作短編のような前半の2編のみ。後半の2編では街中のエキストラのような感じでふわっと登場するだけです。そんな前半の2編から受ける印象は”食事の風景”です。三智子が作ってきたお弁当は、『エビフライにメンチカツ、鮭とホタテのミニグラタン、ポテトサラダに蓮根のきんぴら、きのこの混ぜご飯』という豪華セット。ここまで具体的だと自然とその豪華なお弁当箱のイメージが浮かんできます。食べてみたくなる一方で、作る立場に回ると、上司に食べてもらうお弁当を作るというのは、とてつもなく大変そう、家に帰っても仕事が終わった気がしないとんでもない苦行、真っ平ごめんという感覚だと思います。しかも三智子の場合『似てるの。母の味と』というアッコ女史の一言付きです。三智子も当然に悩みますが、毎日工夫を続けながら頑張ってお弁当を用意します。しかし、一方でそんなお弁当を食べるアッコ女史の食事の風景は出てきません。あくまで食べることになるお弁当のイメージだけです。そして、そんなアッコ女史から『ランチ取り替えっこ』をされた三智子の方は食事の風景がリアルに登場します。『ここ何年か、外で何か食べるという経験をほとんどしていない』という三智子。そんな三智子がカレーライスを食べる風景はとてもリアルです。『スプーンを取った。ひとさじ、カレーとご飯を口に運ぶ』という緊張の瞬間。『スパイスがピリッと鼻の奥を刺激し、体が急に熱くなる』というまさしくカレーを食する感覚。そして『冷えて固まっていた何かが、ゆっくりと溶けていくのがわかった』というその変化。『カレーなんてうちでも作れると思っていた。外食はお金の無駄だと思っていた』というそんな三智子の口から『人に…、誰かに作ってもらうカレーって、いいものですね…』と飛び出る言葉がとても自然に伝わってくるシーンはとても印象的でした。そして、こういった日常の中のちょっとした喜びの感覚の積み重ねが、物語を、そして三智子の生き方をそっとあと押ししていくことになります。

書名にもなっている『アッコ女史』。第一人称の主人公・三智子の視点の中でしか出てこないにもかかわらず、その存在の大きさは、この作品の本当の主人公は誰なんだろうか?と思うくらいに圧倒的です。それは2編目の〈夜食のアッコちゃん〉を読んでも変わることはありません。『アッコさんと一緒にいると、こんな風にぐんぐんと視界が広がっていくのだ』と感じる三智子。そんなアッコ女史の魅力は、アッコさんに繋がる人たちの魅力でもあります。職場の人間関係に悩む三智子。そんな三智子にアッコ女史は『何よ、まだ解決できてないの?』と繰り返すばかりで直接解決方法を示してくれることはありません。そんな一方でアッコ女史繋がりで出会ったレイカさんに話を聞いてもらいます。『わかるなあ。女の子同士って時々険悪になるものね』と優しく話を聞いてくれるレイカ。『そういう時は、みんなの話の流れに合わせるんじゃなく、自分から話題をふればいいのよ』とアドバイスをくれます。さらに『こちらから提供できるネタが多ければ多いほど、人間関係って楽になるわよ。ささいな、くだらないことでも構わないから』と具体的な説明もしてくれます。これをヒントに『レイカさんの言う通り、本当にちょっとしたことで空気って変わるんですね』という結果論へと繋がっていくそのアドバイス。しかし、ここで大切なのは以前の三智子だったら同じアドバイスをもらっていても素直に聞けただろうかということです。アッコ女史と出会い、『ぐんぐんと視界が広がった』という今の三智子だからこその結果論、そう感じました。

とても前向きな4つの短編から構成されたこの作品。斜めに構えてしまうと、うまく行き過ぎ、出来過ぎ、を感じないわけではありません。でもそれは、そんな幸せをどこかで妬む感情が読者の心の中にあるからかもしれません。そう、それは自身がこの作品世界に浸る余裕を失っている証拠なのかもしれません。

落ち着こう、視界を広げて見てみよう、そうすればきっと、この作品の主人公たちが見たように、自分にも違う世界が見えてくる、きっと。

心にすーっと入ってくるホッコリとあたたかい物語、これいいなあ、そう感じた作品でした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 柚木麻子さん
感想投稿日 : 2020年8月15日
読了日 : 2020年8月9日
本棚登録日 : 2020年8月15日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする