ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)

著者 :
  • 早川書房 (1986年7月1日発売)
3.57
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 SFと一口に言っても、多くの下位分類があることに驚いた。
 例えば『一九八四』(オーウェル)は、ソーシャルフィクション(自分の造語)に近く、テレスクリーンなんかのオブジェクトは比率が少なく、社会の焦点がおかれている。
 次に、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』(ディック)は、アンドロイドと人間がテーマで、第三次世界大戦があり、宇宙の生活圏が示唆されているけれど、作品におけるアンドロイド自体がかなり人間よりでアナログな存在として描かれていて、なんというかアナログの一部である機械をmachineと捉えると、MF=マシンフィクションとソーシャルフィクションの割合が強く感じられる。(MFも自分の造語)
 じゃあ『ニューロマンサー』(ギブスン)は?というと、こちらのSはサイバネティクスという色合いの強いことが分かった。初めて電脳世界に焦点を当てた小説を読んだことになる。
 例に挙げた三作は、アニメ『psychopass』に登場する「オーウェルより支配的でない、ギブスンよりワイルドでない…強いていうならディックが近い」というセリフを愚直に受け取って手に取った三冊で、恥ずかしい影響のされ方かもしれないけど、SFと呼ばれる作品を手に取ったのは初めてで、それぞれのテーマを観ていくと、同じSFというジャンルに括るには疑問符が付くほど、多様性があることに驚いている。
 この三冊は、自分史におけるSF入門書として位置づけられた。


 トロード(電極)をつけて、マトリックス(電脳空間)にジャックイン(投入)する。この一連はVRが、もう実現している技術になってはいるものの、『ニューロマンサー』世界では、電脳空間へのアクセスが一般大衆化しているわけじゃない。
 『サマーウォーズ』のようなアバターを用いるパートイン型のメタバース、『マトリックス』みたいな現実と区別がつかないようなフルダイブ型のメタバース、ARなんかとも違う、工事中の現場の骨組み、足場がそのまま残っているような、コードの世界、映像化の舞台裏、剥き出しのコードが視覚的に共有される、まだまだ未整備の世界といった印象を受けた。
 その未整備なムードは、何というかより無機質でインターネット的なムード。
 今までに見たイメージでそれに近い雰囲気は、ポケモンのダイアモンド・パールの裏技で、地下坑道から辺り一面の真っ暗闇のステージで延々とコマンド入力する感覚に近かった。
 身体へのテクノロジーへの介入度合いは、格段に進化している。
 でも作中のそれは、美容整形手術でヒアルロン酸を注入する女性のそれと変わらず、手軽な感覚と程遠くないように感じた。
 〈肉の欲望〉と、ケイスが作中ひたすらに嫌悪し続ける〈肉〉への気持ち。それがよく分かった。
 肉体が受けている制約をすべて箇条書きにしていったら、読む気も起らないような六法全書的分厚さか、もしくは五十音順の百科事典的な膨大さになりそうだ。
 外部からの制約。重力が代表格。
 内部ー構造的な制約に、老化、制約、疲労……。ショウガのボンボンでお馴染みの、ディーン。
 ー“ジュリアス・ディーンは百三十五歳。毎週、大金を投じた血清やホルモン類によって、常に代謝を異常に保っている。加齢を防ぐ決め手は、年に一度、東京に行脚して、遺伝子外科医にDNA暗号を整復してもらうこと(P,28)”
 “模造翡翠の台に載ったヴァット(槽)培養の平たい菱形の肉片~娼婦の膚を想い出す。肉片には発光ディジタル・ディスプレイが刺繡され、それが皮下チップ(素子)に結線してある~なぜ、わざわざ外科手術までうけるんだろう。こんなもの、ポケットに持って歩けばすむのに。(P,32)”
 後半に出てくるティスエ=アシュプールは、冷凍睡眠と解凍を繰り返して肉体の延命を行い、妻マリイ・フランスがウインター・ミュートにティスエの精神の結晶体であるニューロマンサーを取り込もうとしたのは、平たく言えばセックスだったのかもしれない。
 肉体の所有物である、情欲、愛なしには、人間は生まれては来れず、肉体に属する精神の暴走と、精神の肉体を超越したいとする願望がすべてそのままニューロマンサーに体現されている。
 これは、ホログラムで肉体を変貌させ、たかのように見せることが出来るのに、わざわざ、肉体の一部にする女性の肉への欲求をケイスが理解し損ねたのと同じだ。
 『セロトニン』ウェルベックにあった、“西洋の人類は不幸にも生殖とセックスを分けて考えるようになったが、それは生殖を断罪するのみならずセックスをも同時に非難していて、返す刀で自分自身をも非難するのであり~(P,73)”
 そしてケイスが憎しみを感じ、それが自分への憎しみだったと後半にかけた明らかになっていくときには、このことを思い出した。
 ケイスが感じていた憎しみの正体は、肉体への欲求の裏返しかもしれない。
 愛する人、ここではセックス、肉体関係のある人間関係からしか得られることのできない充足が得られないこと。
 ただ、射精の快楽は本当に一瞬で、そこには満足というものがない。
 でも、不特定多数の人とのセックスは、交際者、配偶者がいれば不可能。
 男の性って、もしかすると、この現代の法律と道徳倫理のなかでは、詰んでいるのかもしれない。
 少し話がそれた。
 ケイスのバックボーンに特別なイベントが無かったことが、憎しみの正体の答え合わせなような気がする。特別な出来事のなかった彼が感じる憎しみということは、その他に大勢いるだろう、似通ってとりわけ特筆すべき環境にいない人々も、同じように、その憎しみを抱えるようにならないとは言い切れない。
 それがニューロマンサーの反映する環境の共通現象になっていると仮説することもできる。
 膚板を使えば、肉体の変容が可能。神経外科手術によっては寿命だって操れる。
 パンサーモダンズ、スプロールのスラムに住む、サイバー犯罪不良少年たちは、膚板を使って、奇形化した容貌。財閥が表を、ヤクザが裏を支配している。三年前にはパンデミックがあり、食料は槽で培養された、オキアミから作られた代用物を食べている。本当の動物の肉は高級品で、宇宙にある高軌道フリーサイド(自由界)で振る舞われている。
 明確な描写はないけれど、貧富の格差は今よりも更に拡大し、一部の富裕層が下界からの富を吸い上げる、奇声的構造物、ヴィラ迷光は、露骨な描かれた方をしている。
 技術は発展しても、大部分の人間にとっては、それら技術とその利権を掴んでいる連中に対して、多くの対価を払い続けなければならず、その階級闘争の枠外にいるケイスのような人々は、サイバー犯罪で食い扶持を稼ぐか、現行するシステムの下でただひたすら従属を強いられる。
 ケイスの憎しみは、こういった、人間社会全体に対するものかもしれない。
 ウインターミュートによって、毒嚢を植え付けられて、マトリックスへの復帰と従属を強いられるケイスは、まるで、資本主義下システムの拘束されながら、労働を強いられる労働者そのものと言った趣がある。
 「狂った社会ダーウィニズムの実験」の描写に代表される、汚らしくて、人の命が虫けら同然に扱われている乾いた感じは、絶望している人たちが不安を持ち寄って、ある種の安心感を醸し出しているといったイメージ。ラッツ、ゾーン、ディーン、ウェイジ。千葉の登場人物は、後にウインターミュートが人格模倣に使うだけあって、何というか作り物臭い感じが否めない。
 ケイスが作中を通してずっと想っていたリンダも、なんだかケイスがそこまで熱をあげる描写に不足している気がする。
 リンダ。ケイスは心の底から、自分の最も憐れな箇所を見るように救いがたいリンダを見ていたのだと思う、だから、裏切られてもそこに憎しみはない、はなから憎しみを持てるだけリンダに肩入れなんかしていない。自分の一部の延長のような存在。
 臓器が麻薬を受け付けないように移植されたケイスが、二部以降、素面で眺める世界と、一部で見る千葉市の情景はやっぱりどこか違う。狭くて、濃い瘴気に包まれていた千葉市から、だだっ広くどこか薄まったようなスプロール以降の都市は、ケイスの主観と大いにリンクしている。
 リンダはケイスに取りついていた千葉市での、絶望と薄皮一枚に感じる命の希薄さが醸し出すムードの象徴的なオブジェクトのひとつだった。だから、ムードへの執着は、まるで若い頃を思い出しているときに感じるような強烈な郷愁の念を帯びる。リンダへの執着はそれに近い感情だったのかなと察する。
 死から遠ざかると、そこでは相対的に生の希薄さが増してしまうのはなんでだろう。
 例えば、お年寄りがたくさん住んでいるよな一戸建ての多い住宅街では、時折、テレビの音が漏れて聞こえてきても、静まり返っている。活気にあふれているのはスーパーだけ。アドレナリンを促すような何かは何もない。
 そこにいるだけで何割も老けて見えるよな場所だ。
 反対に夜になればなるほど、得体の知れないエネルギーで熱気を帯びる繫華街では、そこを歩いているだけで何かがあるんじゃないかと勘繰るほど、アドレナリンの分泌を誘発させられる。それは、住宅街や田舎、オフィス街にはないものだ。
 汚らしくて、女も男も本能のまま、食い物を貪り、性を貪り、滅茶苦茶になろうとする。
 
 視覚的なものだけでは満たされない。
 繫華街には、焼肉やニンニク、豚骨、吐しゃ物、アルコール、香水やフェロモン、汗、生ごみの匂いが混ざり合って、嗅覚を刺激する。
 人々のざわめきや、パチンコ屋やゲームセンター、周囲を囲む店店がそれぞれに流す音楽、巨大な広告塔、信号、サイレン、歓声、嬌声に刺激される聴覚。
 クリームやアイス、糖質を過剰に使った食べ物、塩気や油、家庭ではまず出てこないようなものが味覚を。
 ネオンや、様々なファッション、看板、立ちんぼ、ビル群のように住宅街にはない高さスクランブル交差点のような開けた空間、人込み。視覚的には、もう火の海か、戦場を見ているのと変わらないくらいの刺激があるのかもしれない。
 そしてウィンターミュートが蜂の巣を理想の構造物としてケイスに提示したとき、蜂よりもよほど意思をもって鉢にその巣の、構造を形成させる遺伝子の存在を想った。AIか、またはインターネットを作った人間もまた、それは人間よりもよほど意思をもった構造物に見えるのは、それがインターネットとして表出した遺伝子の意志だったのではと、安直に感じる。
 初めてAIやインターネットという概念、存在を記号の他、ストーリーとして想像することができた。
 SNSこそ、人が人と繋がろうち渇望する欲求の、最も先鋭化したものに見える。そこにある評価や注目のシステム、ユーザーのなかで満たされたかのように思える孤独や不安は、その裏で指数関数的に増大して行き、その限界は留まるところを知らない。
 欲望という飽くなきエネルギーを、遺伝子はその肉体が修復不可能になるまで送り続ける。
 肉の欲求とは、つまり最も強い権限を持つ、人間にプログラムされた遺伝子コードという認識が持てる。AIをゴーストと呼んで疑似人格化したのは、その遺伝子コードが何かの複製ミスか何かで産み落としたウイルス的存在。肉の欲求に従わないコードのことかもしれない。
 肉の欲求、本能のままに生きていくと人間は次第に機械めいてくる。
 多様性は失われて、戦争、支配、交尾、自己保存へと赴く。
 本能と聞くと、よほど動物らしい、自然なものを感じるけれど、それが逆に、人間らしさを剝奪していくという想像がここではしっくりくる。
 肉の欲求は個人の幸せなどそもそもが計算外においていることはもう明らかだ。
 貧乏子だくさん。個人の幸せを考えるのなら、資源に合わせた扶養を考える筈なのに。明らかに自己犠牲的で、(子供をt他者と呼ぶなら)利他的な行為に走る。当人はあくまでも個人の欲求を満たしているつもりなのだろが、瞬間的にはそうでも、持続的には異なる。リスクはベネフィットを遥かに上回る。姥捨て山があり、子どもは自分を扶養してくれる存在だとは限らない。
 友達や仲間はどうだろう。
 これも遺伝子レベルの幻想で、意識レベルのそれよりはずっと効力が高い。
 連帯の必要がなくなってきた都市構造物と連帯の渇望が表面化しているSNSテクノロジーは、ウインターミュートとニューロマンサーの対決を思わせるような、遺伝子のコード同士による対決構造を思わせる。
 
 AI、インターネット、サイバネティクス的な考察はし足りないので引き続き再読しながら考えていきたい。
 ここまで初読の感想を書いてみて、アーミテージやモリイ、フィンにリヴィエラ、3ジェイン、マエルクムについて言及してないことを考えてみる。
 モリイの髪型を勝手にアフロだと思い込み、肌の色を褐色だと思っていた。モリイが任務に加担していた動機は、ケイスやリヴィエラよりもずっと薄く感じられてしまう。モリイはなんだか働き蜂みたいだ。驚異の身体能力を持っている。人並みな性欲や食欲もある、でも、ジョニーのことで、それが失われてしまってから、この方ずっと、欲求に従っているみたいだ。ケイスよりも、自己破壊的かもしれない。
 アーミテージに関してはあまり思うところが無い。
 リヴィエラ、彼に関しても道化と視覚的な映像描写の提供のロール以外に感じるところは少なかった。

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感想投稿日 : 2023年8月21日
本棚登録日 : 2023年3月17日

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